八 ブラックウォール・ブレーカー

 麗のスマートフォンが呼び出している。

「冴子さん、麗よ。お願いがあるの」

 スマートフォンは、クラブQ冴子さん、と表示している。

「しばらく愛ちゃんを休ませて欲しいの。

 私の勘だけど、ストーカーに狙われてるみたい。

 質の悪い輩に」


 麗に諭されても詠人の意志は固まらない。

 ふわふわしていると、惰性で過ごしてしまう。

 ラ・ドリーのランチは、学業をなめている証拠だ。

 往復の移動に三十分費やせば、席を予約していたとしても、ランチ形式の簡素なフレンチを三十分で済ますことは難しい。

 当然、午後の授業は遅刻する。

 それでも今日は間に合いそうだった。

 不思議に移動が順調だった。

 五分かかる交差点を二分で通過できた。

 駐車場も探さずに住んだ。

 食事も待っていたかのように出てきた。

 案外、前の客のキャンセルかもしれないが、できたての湯気が立つ肉料理だ。

 これだけ順調だと、それだけで嬉しくなる。

 その時、フレグランスが脇を通り抜けた。


 記憶に新しいその香りを思い出そうとした。

 思い出す前に、向かいの席にライトグレーのスーツ姿の女性が立っていた。

「長崎さん、同席していいですか」

 環?

 環がこの店に来ることは滅多にない。

 来たとしても、接待か何かで、連れの客や同僚と一緒で、顔を合わせても、赤の他人の風を装う。

 店内で環を目で追っても、傍から見れば、若い男が美女に釘付け、と思うだけだ。

 目の前に環が立っている、そんな願望を抱いていたことに気がついて、苦笑した。


 環でなく、加納美帆だからだ。

 いいですか、といわれて、ダメですとはいえない。

「どうぞ」

 この返事を予見していたのか、詠人が口を開く前に椅子を引いていた。

「美帆さんはこの店、よく来られるのですか?」

「いいえ、稀に、です。

 お昼の時間がたっぷり取れたときとかです。

 滅多にないですけど」

「僕、この店が気に入っていて、よく来るんですよ。

今年に入ってからですけど」

「会社はすぐ近くなのですが、来る機会がなくて。

 敷居が高いですから、このお店は」

「確かに、若い女性が一人で来る店じゃないですね」

「そうです。OLの薄給では背伸びのしすぎ、ですわ」

「今さら謙遜しなくても。

 資産家のお嬢さんが」


「長崎さんだって、お昼は毎日ここだなんて、どこの御曹司なんですか」

「御曹司はこの店に来ません」

「あら、そうなんですか?」

「御曹司は昼でもディナーなんですよ。

 御曹司仲間と一緒に」

「羨ましいですね」

 食事を終えた詠人が、時間がないので、といいつつ美帆の伝票も持とうとすると、それを制した。

「ごちそうになるいわれはありません。

 私の(伝票)は、置いていって下さい」

 これは、失礼と謝ると、美帆はまたご一緒しましょうといった。

 是非とも、と答えて別れたが、これが後悔の元だった。


 滅多に来ないと言った美帆は週に一度、顔を合わすようになり、週に二度となるまでに時間がかからなかった。

 詠人にはずうずうしく見える美帆も佳央には不安な胸の内を明かす。

「(詠人は)私の知っている(男の)タイプと勝手が違うのよねぇ。

 どこかでヘマをしてないかしら」

「美帆にそこまで積極的に迫られると、大抵の男はその気になるんだけど、ねぇ」

 それは佳央の経験から出たフォローの言葉だ。

「じゃぁ、私はタイプじゃないのかなぁ」

「もう、本命がいるとか。

 案外、呪縛霊、じゃなかった、背後霊とがっちり繋がっているとか」

「そんな不安を募るようなこと、言わないで」

「万里さんのアドバイスは?」

「長崎(榊詠人)さんは自分から誘うことはないから、押しの一手だって」

「じゃぁ、思い切ってデートに誘うべきよ」

 毎夜、この会話を繰り返すのだが、詠人の前に座ると、返事が怖くて切り出せない。

「小娘じゃあるまいし、躊躇する自分が情けないわ」

「それだけ真剣ってことね。応援するわ」


 ダンテ編集室。

「ふみちゃん、今回のレイコ、どうだった」

「酷(ひど)い偽者ですよ、たどたどしい日本語の中国人留学生でしたから」

 私が紹介した中井は清香の客としてクラブQに来店するようになり、ママの冴子も中井を大切にしている。

 ここから巫女レイコに近づけると思ったのだが、肝心の中井は占いに興味がない。

 見込み違いだった。

 それでも彼に巫女レイコのことを話すと、漸く、会ってみたいと言ってくれるようになった。


 その間、私は武田奈津夫を取材した。

 彼の妻、加寿美の説得もあって、やっとインタビューに応じてくれた。

「レイコとの面会はホテルの一室で行われる。

 クラブQの黒服の運転で冴子と一緒にホテルまで行く。

 車を降りると冴子が部屋まで案内する」

「黒服はレイコを知っているのですか?」

「さあね。

 ただママから念押しされたのは、車の中ではレイコの話題は厳禁ということだ」

「黒服に聞かせないということですか?」

「さあね。車を降りると、部屋までは冴子が案内する」

「レイコはどんな女性ですか?」

「私達、客では彼女の顔を直接見ることはできないね」

「はい?」

「御簾(みす)があるんだ。

 私とレイコの間に」

「でも何となく分かるんじゃありません?」

「取り立てて大柄な女性ではないと思う。

 座った姿からの想像だが。

 それ以外はわからん。

 白い打掛を幾重も着て、そもそも体型が分からないし、綿帽子のようなもので顔を隠してる。

 ふくよかな女性ではないと思うが」

「年齢は?」

「声の感じからすると若いんじゃないかな」

 背が高くない、ふくよかでない、若い女性。

 誰もがレイコたり得るということだ。


「どんな占いをするのですか」

「占いというか、降霊術だよ」

「降霊術?占いじゃないじゃないですか!」

「降霊術も占いのようなものじゃないの?

 だけど、言っていることは正しいと思う」

「なぜ、そう思われるのですか?」

「誰にもいってない先祖の話を喋り出すからさ。

 だから知らないことを喋ってくれると、それも本当だろうという気がしてくる」

「で、どんなことを喋ったのですか?」

「それはいえないね。

 墓に持っていくような私事(わたくしごと)だから」


 巫女レイコとはよくいったものだ。

 武田の話を聞けば、まさに巫女だ。

 そしてレイコと繋がっているのは冴子であることもはっきりした。

 冴子が喋るはずもなく、私がクラブQを紹介した中川が切り札だ。

 冴子が中川にレイコを引き合わせたいと清香が言っていた。

 それとなく中川に探りを入れるのだが、レイコことを聞いた気配がなさそうだ。

「ママもレイコを口にしなくなったのよ」と清香もいう。


 中川がクラブQに通い出した頃から、巫女レイコの名前が一人歩きするようになった。

 ネットの投稿を追っていくと、偽者が横行しているらしい。

 風俗嬢が源氏名にレイコを使う。判で押したように巫女のコスプレだ。

 占い師の中には、降霊術を売りにする偽レイコもいる。

 今日の、まともな日本語が話せない留学生のレイコは、某国の秘境に伝わる降霊術という触れ込みだ。無知につけ込んだあやかり商法。

 クラブQのママ冴子のインタビューさえ取れれば、偽者レイコを一刀両断にする記事が書けるのだが、それができない。

 ジャーナリストの端くれとして、偽者を見過ごすのが、悔しい。


 そんな私の憂さを晴らす記事がある。

 何と、あの経済紙大日経済のエンタメコーナーだ。

 私の行く先々で御厨を時々見かける。

 私の後をつけているのは明らかだ。

 前田商事事件で、私は武田加寿美に単独インタビューできた。

 おかげで週刊ダンテは他誌を圧倒するスクープ記事は他誌を圧倒していた。

 それ以来、御厨は私をマークするようになった。

 彼は私の行動の目的を察したらしく、巫女レイコを狙っている。

 多分、クラブQに辿り着いただろうが、そこで足踏みしているに違いない。

 今は私の後追いで、偽レイコを週一回暴露している。


 もう一つ、溜飲を下げるネット上のサイトがある。

 正統レイコというブログだ。

 誰だか知らないが、やはり私の取材の後追いで偽レイコを打ちのめしている。

 ブログだけに、大日経済の朝刊よりも情報が早い。

 奇妙なことに、このブログの記事はネットにある、レイコの情報を転記したような内容だ。

 だとすれば、私の取材順に掲載する必要はないのだが、あえて私の後追いをしている。

 これが私への警告なのか、他に意図があるのか、判断つきかねている。

 実際に私を尾行しているなら、そしてその者が私に悪意を抱くなら、私のプライベートも危険にさらされることになる。

 編集長も心配して、偽レイコはほどほどに、と指示してきた。


 今日、正統レイコに新しいリンクが加えられた。

 reiabakiと『暴き・緑』だ。

 前者は偽霊媒師と所属団体の実名を暴露してる。

 後者は、その偽霊媒師とのやり取りの動画だ。ライブ動画とある。


「田丸(編集長)さん、このサイトをどう思われます?」

「『暴き・緑』は知ってるよ。

 でもreiabakiは初めてだね。

 reiは幽霊の霊かな?

 オカルトに特化しているようだし。

 なかなか気骨のあるサイトだね。

 勇気があるというか、悪くいえば無謀だけど」

「何がですか?」

「オメガとか、清流輪教とか、実名だろ」

「誹謗中傷ですね」

「そうともいえない。

 こういうことは中根君が詳しいんだ。

 彼から徹底取材の希望がでているんだが、保留している」

「なぜですか?」

「危ないんだよ。彼らは」

「暴力団が絡んでいるんですか?」

「暴力団以上かもしれない。

 実はスラッシュの契約カメラマンが行方不明なんだ。

 彼が追っていたのがオメガのスクープだ」

「亡くなったのではないですよねぇ?」

「昼に芸能人のスクープを撮ったとかで、バイクのメッセンジャにメモリカードを渡したのが昼間、銀座だ。

 そこから連絡が取れなくなった。

 GPSで調べたら、反応なしだった。

 電波の届かないところか、壊されたか、だ」

「それって、地下鉄毒ガス事件の連中がやった、殺した人の遺体を処分した、ですか?」

「ふみちゃん、それは飛躍しすぎだ。

 その可能性もあるが、証拠がない。

 ほら、そんな投稿があるだろ。

 証拠がないから根も葉もない誹謗中傷といわれても仕方ないが」


 reiabakiは、後に『霊・暴き』の通称がつけられる。

 その夜、私は『霊・暴き』と『暴き・緑』にアクセスしてみたが、繋がらなかった。

 DoSとかDDoSと呼ばれる攻撃を受けているのだろう。

 我が社も幾つかの記事を書くと、Web版ダンテがダウンする。

 だから、経験上分かる。


 築四十年の十二階建て商業ビル、八階。

 エレベータを降りるとフレスコ画が待ち構える。

 エレベーターホールと廊下の壁面は漆喰で上塗りされ、その白色を活かした幾何学模様と絵画が描かれている。

 描かれているのは教科書に載っているような著名なフレスコ画の模写だ。

 本物は数メートル四方ある大作だが、ここでは高さがせいぜい二メートルの縮小版だ。

 フレスコ画の制作では、漆喰が乾く前に絵画を描き終えなければならない、高度な描画力が求められる。描き直しはできない。

 最近はインクジェットプリンターで制作するらしいが、このフレスコ画は古典的な技法によるものだ。

 複製といえど、フレスコ画を専門にする画家に依頼するのだから、それなりの費用がかかる。


「この絵、見たことあるでしょ?」

 胡庸(こよう)と名乗る若い女性は、同世代の男女三人に話しかけた。

「あるよ」

 仲本はガールフレンドの三沢の前で博識ぶりを演じた。

「流石、覚えていたのね。

 美術の教科書に載っていたわよね。

 ミケランジェロの『最後の審判』。

 これは、単なる複製じゃなくて、本当のフレスコ画なの。

 つまり、同じ技法で描いたミニチュアの『最後の審判』よ」

 詳しく解説する胡庸とて、三カ月前はそれを聞く立場だった。


 派遣モデルのデータベースに登録するだけの自称モデルだった彼女は、今では毎週のように撮影会のモデルを努めている。

 屋外での撮影会に遠巻きに撮影していたのが仲本と佐木だ。

 いい撮影ポイントがあると二人に声をかけたら、三沢も連れてきた。


 廊下の突き当たりの扉に行き着いた。

「大集会室?」

 三沢は怪訝そうに扉の上に掲げられたプレートを読み上げた。

「きっと、びっくりするわ」

 胡庸はもったいをつけて扉をゆっくりと開けた。

 あっ。三人三様の声を上げた。


 壁から天井まで、やはり漆喰で施されており、壁面は漆喰の白さが眩しいが天井は一メートル四方のフレスコ画がタイルを貼り付けたように、整然した配置で描かれている。

 大理石の床と相まって、大集会室はSF映画に登場する無機質な空間となっている。

 この非日常的な感覚が若者の興味をそそる。


 正面は絹のような薄い垂れ幕が部屋を二分している。

 半透明の垂れ幕の奥は緞帳(どんちょう)が下がったステージのようだ。

「今度の日曜日の午後二時からここでパーティーがあるの。

 私の他にモデルが十人くらい来るわ。

 多分、この辺りで撮影会するけど、来る?

 軽食とドリンク付きで会費は千円。

 片桐麻沙と立花和香のトークショーもあるわ」

 読者モデル出身で人気上昇中の俳優のトークショーに三沢が色めきだつ。

「ねぇ、いこうよ」

 三沢のおねだりに仲本は即答した。

「俺たち三人、行くからね」


 仲本達が絹のカーテンの奥、緞帳の向こうを見るのは、それからふた月後のことだ。

 ステージ中央には、教祖の特大写真が掲げられている。

 背景は白。瞑想している姿だ。

 その前には、やはり座禅姿の教祖の像がある。純金製だ。

 その両側に如来座像が置かれている。


 このビルの上層階は清流輪教の実質的な本部であり、この部屋は最高幹部の会議室である。

 商務相が口火を切った。

「情報相、犯人は分かりましたか?」

「残念ながら。

 敵も相当の手練れのようで。

 自分のサーバーは使わず、既存のブログサイトから情報発信する。

 ブログサイトからトレースできないよう、幾つものサーバーを経由して投稿する。

 凡人じゃないです」

「感心してもらっては困るね。

 マスコミが動き出したというじゃないか。

 それも君の管轄だよね」

 情報相は下を向いてしまい、蚊の鳴くような声で答弁した。

「まだ表だった動きはありません。

 マスコミはどこも報道していませんし、取材要請もありません」

 情報相の小さな声に反比例するように、総務相は声を荒立てた。

「当然だ。防衛省が体を張って守ってくれたから」

 呼応するように防衛相は胸を張っていう。

「マスコミ対策は防衛省が担当しましょうか?

 ウチが出張って黙らせますから」

 宰相が険悪な雰囲気をなだめにかかる。

「マスコミは動いていないようだし、今のところDDoSはうまくいっている。

 あとは犯人特定だけだ。

 これは情報省でなければできないことだ。情報相、頼むよ」

「はい」

「教祖、これでよろしいでしょうか?」

 宰相が下命を促した。

 うむ、の一声で決まった。


 情報相は一階下の情報戦闘室へ戻っていった。

 一昨日からここに詰めていて、徹夜で『霊・暴き』と『暴き・緑』のトレースを試みている。

 『霊・暴き』と『暴き・緑』がそれぞれ使用しているサーバー、『グランテ』と『ユーパイン』は掌握した。

 昨夜、一般利用者はこれらのサーバーへのアクセスが三十分ほど滞ったはずだ。

 その間、かねてより取得した正規利用者のアカウントを使って、内部からゼロデイ攻撃を仕掛け、管理者権限の取得に成功した。


 そして、管理者権限において、『霊・暴き』と『暴き・緑』の清流輪教に関連する投稿を全て削除した。

 ネット上に拡散した投稿を削除しきれないことは承知の上で、世界中のサーバーから清流輪教に関連する投稿のキャッシュを削除している。

 そんなボット、サーバーを巡ってデータを削除するソフトウェア、を開発できるのが清流輪教情報省の実力だ。


 情報省が教団内の他の省と違う点は、実力があれば信者でなくても構わないことだ。

 実力を発揮し、何らかの成果を出し、皆から称賛されると、大抵の若者は躊躇なく信者になる。

 他の信者と違って、宗教的な修行は免除される。

 その代わり、一日十二時間以上のミッションに従事しなければならない。

 ハッカーとして称賛されたい彼らにとって、十二時間のミッションは苦痛でなく、むしろ楽しみだ。


 『グランテ』と『ユーパイン』のサーバー攻略と平行して取り組んできたのが、『霊・暴き』と『暴き・緑』の発信者の追跡だ。

 『霊・暴き』と『暴き・緑』のユーザーを追跡するトレーサー(追跡用ネットアプリ)を開発し、一月前から仕掛けている。

 何度か、トレーサーが検知した。

 幾つものサーバーを経由するのだが、あるサーバーで見失う。

 そのサーバーさえクリアできれば発信元を特定できるはずだが、犯罪でも使われるネットの裏社会のサーバーだ。

 腕に覚えのあるハッカーなら知っている『ブラックウォール』。


 残念ながら、ブラックウォールをクリアした者は凄腕揃いの情報省でもいない。

 ブラックウォールを破るための技術を寝る間も惜しんで開発している。

 ハッカーには二つのタイプがある。

 目標クリアのためならどんな道具でも使うタイプと、自分で開発したツールでの目標クリアにこだわるタイプだ。

 後者は、コンピュータに向かうと自意識過剰で負けを認めたがらない。

 自分のツールにこだわる自己完結型は、他人のツールを受け入れない。

 本人が受け入れる姿勢を示さない限り、勝手に他人のツールを導入すると拗ねる。

 拗ねて、何をするか分からないので、監視のために技術者を一人張りつけなければならない。


 戦争では敵兵を殺すよりも、戦闘不能にまで負傷させるのが効率的とされる。

 死んだ兵士の遺体回収は後回しにされるが、生きている兵士はすぐに救い出さなければならない。

 そのためには、負傷兵一人に対して健常な兵士二人を費やすという。

 局地的な戦闘では兵力にダメージを与える効率的な方法という訳だ。

 ところが、情報省では敵兵がいなくても負傷する。心が負傷するのだ。

 ほんのちょっと、プライドが傷ついただけで、拗ねる。

 一人の技術者に一人の監視員を張りつけなければならない理由だ。

 ICTの秀才達は初めから負傷兵だ。


 教団はブラックウォールを破る技術の自主開発を待っていられない事態になった。

 ブラックウォールを経由した執拗な攻撃によって、教団のサーバーがハッキングされたからだ。

 『霊・暴き』と『暴き・緑』の運用者が犯人である可能性が高く、正体を突き止めるのが喫緊の課題となった。

 セキュリティ会社と政府機関にブラックウォール・ブレーカーというツールがある。

 民間、政府、計五箇所に侵入してブラックウォール・ブレーカーを盗み出すミッションが、教団の防衛省によって実行された。

 計画通りに行けば、未明には入手できるはずで、明日から強力なトレーサーを仕込める。

 情報相はこれで名誉挽回できるのだが、手柄を防衛相と分かち合うのが癪だった。


 最近、拓斗が夜遅くまで詠人の書斎に籠もっているのが瞳の気がかりだ。

 二人がそこで何を話しているか、よく聞こえないし、断片的に聞こえる言葉は専門用語らしく、意味が分からない。

 部屋から出てきた詠人は瞳がいても、拓斗が帰るまで真顔でいる。

 気がかりというより、心配だ。


「国家間のサイバー戦争なら仕方ないと諦められる。

 国家レベルのトラフィックの前では通信回線は占拠され、サーバーは機能停止する。

 そのドサクサに、僕が使っているサーバーが踏み台にされても、乗っ取られて情報を抜き取られても、改ざんや消去されても、不可抗力だと諦めて納得するしかない」

「代わりのサーバーはいくらでもあるし、バックアップは何重にも保管してあるし、いつでも再開できるからな」

「でも、この前のDDoS攻撃は、明らかに清流輪教がピンポイントで僕らを狙っている」

「黒、いや、ブラックウォールといったっけ、あれを経由すれば、当面は大丈夫なんだろ?」

「今のところ、あれを破ったのは世界で八人という噂だからね。

 ブラックウォール・ブレーカーは公開されていない」

「なら、大丈夫だ」

「いや、僕らがサイバーポリスの捜査対象者になっていたら警察も追っ手になる」

「今度は警察が敵か」

「しばらくは(兄、詠人が)大人しくしてくれると僕も安心なんだけど」

「ああ、そうする」


 諜報部長は防衛相の部下である。

「防衛大臣、諜報部として進言したいのですが」

「話してくれ」

「私達は今まで重大な見落としをしていたようです」

「というと」

「『霊・暴き』と『暴き・緑』のトレースは重要ですが、これらにリンクを張っているサイトを見落としていたのです」

 防衛相は暫く考えて、諜報部長の意図を理解した。

「で、君の意見は?」

「リンク元は、正統レイコというブログです。

 これは巫女レイコという都市伝説があって、それに便乗したまやかしを暴いているのです」

「なるほど」

「なぜ、巫女レイコから『霊・暴き』と『暴き・緑』にリンクしているか、を考えると、楽観的かつ短絡的な推測ですが、関係者が運営しているブログサイトではないか、ひょっとして同一人物ではないかと思われるのです」

「つまり、正統レイコから辿り着けると?」

「はい。これは情報省の管轄になりますので、防衛大臣から依頼して頂きたいのです」

 防衛相が情報相に依頼すると、その日のうちに結果が最高幹部会に上程された。

「正統レイコというブログサイトの投稿者をトレースすると、『霊・暴き』や『暴き・緑』と同じ経路パターンを使っていることが分かりました。

 ブラックウォールを経由していることも同じです。

 これら三つのサイトは同一人物か同一グループが運営していると断定できます」


 久々の快挙に情報相は目を輝かせている。

「でかした」教祖の一言に情報相は舞い上がりそうになった。

「ということは、巫女レイコも関わっている可能性があると考えられます」と防衛相。

 宰相が指示した。

「巫女レイコの内偵は防衛省傘下の諜報部が行うように。

 情報省は引き続きインターネットからの特定を急ぐように」


 占いを信じる瞳なら何というだろうか?

 でも、相談できるはずもない、と詠人は苦笑した。

「何かおかしなことでもあった?」

 詠人の緩んだ頬を、環は詠人の緩んだ頬をそう読み取った。

 三カ月あまりの海外出張から帰ってきた明石環とは情熱的な一夜を過ごした。

 自分の知らない世界の住人みたいに雰囲気が変わった。


 インターカレッジ・オーケストラのサックスホルンとヴァイオリンという出会いだった。

 環は五歳からピアノを学んできたが、高校で吹奏楽の魅力に取り憑かれ、サックスホルンを始めた。

 大学に進学してもサックスホルンを続け、幾つかの大学の合同オーケストラに参加した。

 このインターカレッジ・オーケストラの新人として加わったのがヴァイオリンの詠人だった。

 数少ない医大生のメンバーということで、女性メンバーは色めきだったが、詠人を振り向かせたのは環だった。

 環は将来の病院長夫人が目当てだったが、詠人の継ぐべき病院がなくなると、詠人は結婚相手でなく、恋愛を楽しむ有効期限付きの相手になった。

 詠人にとってもそれは都合がよかった。

 その後に別れてしまったが、当時、交際相手が二人いたからだ。


 砂漠の中に新しい都市を造る。

 環から、そう聞いたとき詠人の頭にドバイの航空写真が思い浮かんだ。

 その交渉の詰めで、応援要員として三カ月くらい常駐するといって、本当にドバイへ旅立っていった。

 その三カ月で経験したことを、その夜の伽話で聞かされた。

 伽話が終わると、環はいよいよ結婚すると告げた。

「たった三カ月で気に入られちゃって。彼が帰国してから結納だけど」

「こんな関係でいうのも何だけど、おめでとうございます、かな」

 現地で知り合った、協力会社の社長が夫君だ。

 協力会社といっても売上高数百億円とかで、もの凄い資産家だそうだ。

「つまりは玉の輿ってことか」

「後妻になるから、典型的な玉の輿かもね」

「自分で後妻っていうかなぁ?」

「だって、お子さんは私より年上よ。

 男手一つで育て上げ、あとは仕事一筋って聞いて、私、コロってなっちゃって」

「環は何で落としたの?」

「失礼な!

 でもピアノに感動したっていってたわ」


 環達の歓迎会で、余興にピアノを演奏した。

 日本を離れて数カ月、数年経つ日本人のために、即興で日本の愛唱歌を演奏したらしい。

 ビートルズ世代の彼らも、環のとっさの選曲にいたく感動した。

 これは現地人のピアニストでは真似できないことだ。

「初めは、日本人皆のピアニストだったけど……」

「そして、夫君専属のピアニストになったんだ」

「まぁ、そんなところかな」

 環の帰国間際には、環の上司も公認で、若奥さんと呼ばれていたそうだ。


「トロフィーワイフ、か」

 米国では、年の離れた、若い、美人妻をトロフィーワイフということがある。

 女性を物扱いするので女性軽視の差別的表現だ。

 年の差婚の美人の奥さんなら誰でもトロフィーワイフというのでなく、夫がセレブであることが条件だ。

 環は、真にこれだ。

 と、同時に、トロフィーを持っていかれた悔しさが詠人に芽生えた。

 玉の輿に嬉々とする環であるが、詠人との関係を今すぐ清算する気はないらしい。

「今のうちに身ぎれいにしておいた方がいいんじゃないか?」

「詠人とは紆余曲折あったけど、恋愛なのよ。

 でもこの後、若い男性と出会っても、それは不倫に過ぎないわ。

 もう少し、恋愛を楽しませて」


 もう不倫じゃないのか?この一言を詠人は飲み込んだ。

 昔なら不義密通の科に問われてもおかしくない状況だ。

 それで断罪された記録のある古文書を幾つか読んだ。

 環との関係が数百年後に、誰かに知られるってことはないだろうけど。

 ぼんやりとそんなことを考えていた詠人はあることに気づいた。


 このラインからばれる!


 こう思った途端、拓斗の忠告が頭に響く。大人しくしていろ、と。

 自分が大人しくしていても、周りが騒ぎを起こしては意味がない。

 その火種の一つは、目の前にいる環だ。

 トロフィーを奪われたなどと悠長な感傷に浸ってる場合じゃない。

 夫君に睨まれないように環と距離を置くべきだ。


「恋愛か。

 女心って分からないね。

 でも僕は、環の旦那さんに後ろめたさを感じるんだけど」

「そんなこと気にしないタイプと思ってたけど、意外と常識的なのね」

「僕は自分では常識人だと信じてきたけど」

「無理しないで!」


「じゃぁ、もう外で会うのはなしにしよう。

 一緒に食事とか、コンサートとかはしない。いいね」

「えー、私、一人で食事したり、コンサートへ行ったりしたことないのよ。

 どうすればいいのよ!」

「いるでしょ、お友達とか、他の彼氏とか」

「若奥様なんて呼ばれてるから、男はみんな逃げちゃったわ」

「聞きたいねぇ、逃げられる理由」

「佐川良三夫人になると知ると、逃げるのよ」

「なぜ?」

「私の会社だって一目置く人だから」

「そんなに凄いの?」


「私がいうのも何だけど、砂漠の都市化の第一人者なのよ、彼」

「つまり?」

「彼が加わらないと、日本の会社は中東では入札できない。

 それだけ中東で信頼されている日本人なのよ」

「僕は業界人じゃないから、そんな人にむしろ会ってみたいなぁ」

「不倫相手です、って?」

「女って怖いなぁ、さっきは恋愛相手っていってたのに」

「でも、会った方がいいわ。

 ゼネコン業界でも希有なくらいスケールの大きな人だから」

 そう語る、環の瞳の輝きが物語っている。

 玉の輿とか自分を茶化しているけど、本当の恋愛なんだということを。

 詠人は悟った。自分との関係の清算を先延ばしにする環の魔性に翻弄されていることを。


 ラ・ドリーの昼食の相手は環になった。

 環は席を予約してくれ、詠人が着くとすぐ食事ができるよう段取りしてくれる。

 まだ結納も交わしてない環だが、すでに社内では佐川良三の若奥様で、勤務時間の裁量が黙認されているのだ。

 だから昼食の時間も長めに取れる。

 ラ・ドリーでの相手だった美帆は環の抜けた夜を埋めるのだ。

 外で会わないと宣言した詠人だが、むしろ詠人のマンションで会う方がリスクが大きいと考え直した。

 詠人のマンションから出てきた環がスクープされれば、言い逃れできない証拠になってしまう。

 麗と似たような関係になれるなら、長く付き合っていけそうかな、とも思う。


 夜遅くに帰って来た姉、美帆は上気していた。

 初めて詠人の部屋へ行って、興奮冷めやらずだ。

 どうやって帰って来たのかも覚えてないらしい。

 妹の私が声をかけてもうわの空。

 キンキンに冷えたビールの缶を持たせたら、ビックリしてやっと我に返った。

 終わりを知らない美帆の話をウトウトしながら聞いていたので、断片的にしか覚えていない。


「凄いマンションに住んでいて」

「やっぱり、御曹司なんだ」

「男の部屋にしては綺麗で、綿埃なんかもなくて」

「家政婦さんを雇っている?」

 さすがに身の回りを世話する女がいるとは聞けなかった。

「ダイニングに図書館のような本棚があって」

「そこだけは、何となく想像できる。

 歴史に詳しいからねぇ。医学を勉強しているのに」


 思春期に恋心を抱く男性の部屋へ初めて行く、そんな歳はとっくに過ぎたのに、姉は初々しい。

「書斎だけは立ち入り禁止なのよねぇ」

 私は万里から聞かされた背後霊のような女が気になる。

 美帆の恋愛観は、男と女は一対一で、浮気は許さない。

 これが平均的な恋愛観だと思うが、長崎(=詠人)の女性関係は少し変わっている。

 長崎という男性を複数の女性が共有している。


 別の見方をすれば、長崎は何人もの女の間を渡り歩いているのだ。

 世の男女関係の平均値は長崎であって、美帆と私の恋愛観が貞操意識過剰なのかも知れない。

 他の女がいるという恋愛多角形。

 姉は受け入れられるだろうか?

 案の定、長崎の部屋へ行く度に、姉は背後霊の気配を次第に強く感じるという。

 彼の女性の輪では、姉は新参者だ。

 古参の女性がいることは承知の上の恋愛だが、姉の、無理している感が私にはわかる。

 四回目に長崎の部屋へいったとき、姉は入室禁止の書斎から人の気配を感じた。

 背後霊と遭遇すると思った。


 だが、部屋から出てきたのは男性だった。

「あっ、兄貴のガールフレンド?僕は弟の拓斗です」

「眞さんの弟さんですか?」

 数秒の間があった。

「そうです」


 美帆はその間が気になった。

 初対面で印象を悪くしたのか?

 弟の印象が悪いときっと兄、眞の印象も悪くなる、どうしよう?

 私、佳央という妹、それも双子、がいるだけで、兄弟はいない。

 私達は男の評価を共有し、二人で総合判定して、これからの関係を相談し合った。関係を深めるか、距離を置くか、をだ。

 美帆が長崎との関係に踏み出したのは、私も彼に好感を抱いたからだ。

 彼なら信頼できると。

 相手の弟との接し方に戸惑った。

 距離感が分からない。


「私は加納美帆と申します。

 眞さんには助けて頂いたことがありまして」

「あっ、気にしないで。

 僕ら兄弟はお互いに干渉しないから。

 住んでるところも別だし。

 たまたま兄に頼まれて来ただけで、もう帰るから」

 そういって拓斗は玄関に向かっていった。

 帰り際、拓斗は念押しした。

「僕がいた書斎、絶対入らないでね。鍵はかけてあるけど」

 会社の同僚、上司、役員にすら感じることのなかった緊張に包まれた三分間だった、と美帆は不安そうに語った。


 拓斗は玄関を出て数歩の後、詠人に電話した。

「今、美帆とかいう女の人が来たけど、簡単に鍵を渡すの止めてくれないかなぁ」

「環から鍵を返してもらったんで、美帆に渡しただけだけど」

「もし、環さんが合い鍵、作ってたらどう?」

「それは無いと思うけど」

「美帆さん、信用できるの?」

「結構、良いとこのお嬢さんだよ。例の、喜多川珠代の証拠に絡む人だ」

「良い人かも知れないけど、危ないじゃないか」

「そうかなぁ」

「その話は後にして、彼女の前では長崎眞って名乗ってるの?」

「いつもの偽名じゃないか」

「それで押し通せってことだね」

「ああ」

「そんな女、早く手を切れよ」

「なりゆきでな」


 拓斗は兄に釘を刺した。

「兄貴、最近、セキュリティが甘くなってる!」

 弟の指摘を沈黙で返した。

「セキュリティってコンピュータやネットワークに施せばいいってものじゃないんだ。

 大抵は、人から穴が空くんだよ。

 今の兄貴は歩くセキュリティホールだ!」

「はいはい。穴だらけだよ」

 詠人が一方的に電話を切った。

 拓斗にいわれるまでもなく、美帆が傍にいることは危険だ。

 ラ・ドリーで最初に会ったときに断っておけばよかったと思っても後の祭りだ。


 諜報部長氏家(うじいえ)怜(れい)治(じ)が入っていった米国西海岸発祥のコーヒーチェーン店は、大日経済で偽レイコの記事を執筆した御厨(みくりや)が行きつけの店だ。

 周辺に一部上場の製造業の本社ビルが三つあり、そのグループ会社も点在している。

 これらの会社員やそこに出入りするビジネスパーソンが時間調整でこの店を利用する。

 時々、新人やそれに近い社員が、自慢混じりに会社の話をする。

 それが、ライバルのビジネスパーソンやジャーナリストにとって、重要な情報のピースであることも知らずに。

 柳の下にどじょうは何匹もいた。

 どじょうがなくても、御厨はこの店を気に入っている。

 今日は六人掛けの席に一人で座っていた。


 氏家の部下が相席を装って、御厨の正面に座っている。

 氏家はその部下に代わって、この席に滑り込み、名刺を渡した。

 上場間近の中堅会社の社名までを諳んじると自負する御厨だが、見覚えのない会社だ。肩書は秘書室長とある。

 つまりはそれ以下の会社だ、と御厨はその会社への関心が薄れてたものの、持ち上げ上手の秘書室長が気に入った。


「うちの社長が巫女レイコに会いたいと申しておりまして、御厨さんならご存知かと思いまして」

「ネットの情報は玉石混淆ですからねぇ。

 鵜呑みにすると時間とお金の浪費ですね」

「そこを何とかご教示頂けないかと」

 氏家が差し出したケント紙の封筒は、中身が厚いのだが、御厨は押し戻した。

「残念ながらリソースは明らかにできません」

「ではこれで」

 同じ厚みの封筒をもう一つ追加したが、押し戻した。

「大日経済の記者を買収するというのですか?」

「買収なんて人聞きの悪い。

 記事の捏造をお願いしているんじゃないんですよ。

 ただ一つだけ教えて下さいと」


 御厨にとって死角に控えていた二人の男が、素早く御厨の肩と腕をつかんで身体を拘束した。

「マル暴だったとは、迂闊だった」

「違います。ただただ、職務に忠実なサラリーマンです。

 教えてもらえますね?」

 氏家は三つの封筒を、御厨のジャケットの内ポケットにねじ込んだ。

「わかった。クラブQだ。

 俺もそれ以上は知らない。

 分かるだろう。クラブ経営者の口の堅さを」


 その夜、クラブQのママ冴子が拉致された。

 警視庁の通信指令センターに通報が入ったのは、翌日の早朝四時である。

 運転手によれば、冴子を乗せた車が交通量の少ない道に入った途端、前後を車で挟まれ、窓ガラスを割って、ドアロックを外し冴子を拉致したという。

 午前三時のことだ。

 運転手と冴子の隣に座るボディーガードは、激しい暴行を受けて放り出された。

 クラクション音で付近の住宅、マンションの電灯がついたが、出てくる者はなく、早朝ジョギングの通行人が発見し、通報した。

 ボディーガイドは意識不明。

 運転手は意識があるが、身動きできないほどのダメージだった。

 運転手がクラブQの総支配人に連絡し、ことの次第を把握した総支配人が、差配した。

 午前六時、総支配人は主要なホステスに、冴子の拉致を知らせた。

 ここからクラブQの底力が発揮される。


 顧客の東京都公安委員会や国家公安委員会関係者に事情を説明し、秘密裏の協力を仰いだ。

 所轄署では、署長の特命により警察官が動いた。

 現場には犯人のものと思われる、多数の金色の玉が散らばっていた。

 拉致犯人達から暴行を受けながらも、運転手の黒服が必死に抵抗して散らばった念珠の玉だ。

 再現した念珠の独特の意匠から、犯人は清流輪教の信者の可能性が高まった。

 クラブQのホステス清香から、史奈に連絡が入ったのは、息子を保育園に預ける時だった。

「史奈さんに知らせなきゃって思って。

 でも警察に縁(ゆかり)のあるお客様にお願いするのが先だから、連絡遅れてごめんなさい」

「大変なことですね。

 犯人から(身代金のような)要求がありました?

 誰なのか心当たりは?」

「警察からは何の連絡もないそうよ」


 警視庁サイバー犯罪オペレーションルーム。

「山本警部補、管理官がお呼びです」


 誰だ?私の戦場に入ってくるのは。

 誰もいない?

 中井巡査が向こうから呼びかけているんだ。

 戦線離脱。


「管理官、お呼びでしょうか」

「君の調べた清流輪教、今役に立っているそうだ。

 追加の資料があれば至急、上げて欲しい」

「いよいよ動き出しましたか」

「運命は突然扉を叩くというが、その時が来たようだ」

「許可、下りますか?」

「もうカウントダウンだ。上は大変そうだよ」

「何か起きてるんですか?」

「千載一遇のチャンスに浮き足立っているってとこかな」

「じゃぁ、暴れられますか」

「法の範囲で」


 戦線復帰。

 十七台のワークステーションを定常業務から最深度操作モードへ。

 定常業務は中井巡査へ一時委譲。

「加藤巡査、こちらで私のアシストを頼む」

 さぁ、サイバーポリス山本班の機動力を刮目するがいい。

 ブラックウォールを破った僕の実力を。


 冴子は密室に幽閉されていた。

 自分の足下が見えない暗室だ。

 何者か分からない。

 紳士とは言いがたいが、乱暴者ではない。

 せめてもの救いは、黒服は相当なダメージを受けていたが、命に別状がなさそうだったことだ。


 冴子は覚悟している。

 秘密を守り通すことを。彼女が抱える秘密は数多い。

 スキャンダルでダメージを受ける政治家や官僚は多い。

 お国のためという愛国心は貧弱だが、お客様の秘密を守り通すクラブQの矜持は微動だにしない。

 生きて帰れないかもしれない。何を聞かれるかによるが。

 何を聞かれるかで、黒幕は分かる。

 自分が救出されれば黒幕は終わりだから生かして返さないだろう。

 いい人生だったと思う。

 政・財・官のお客様に良い意味で、ちやほやされた。

 それにホステスの娘達も慕ってくれたし。

 秘密は総支配人が守ってくれるだろう。

 どうせなら、ベッドの上で皆に見送られて死にたかった。


 突然、照明が点灯し、重そうなドアが開いた。

 プロレスラーのような覆面をした男が二人、女が一人、入ってきた。

「素顔を見せないってことは、私は帰してもらえるのかしら?」

 真ん中の男が答えた。

「あなた次第です」

 時間を稼ぐのが得策。

 冴子の勘がそう囁いた。

「拷問は御免被りたいわね」

「それもあなた次第です」

 真ん中の男が尋問役らしい。

「私のバッグはどこかしら。貴重品が入っているのだけど」

「高額な現金とハイソなカードですね。

 ご安心下さい。善管注意義務で大切に保管しています」

「私、あなたに管理をお願いした記憶はないわ。

 確か、スマートフォンも入っているのだけど、それと部屋の鍵も」

「それはお借りしています」


 ここも新顔か?

 ジョガー歴四年の日下は、三人目のトレーニングウェア姿の男に好奇心を抱いた。

 決まった時刻にジョギングする日下にとって、新顔のジョガーに出会うことは珍しくはない。

 しかし、三人が三人、刺すような視線を照射してくる。

 すれ違いざまに挨拶する者、無視する者、会釈する者、新顔ジョガーの様々な反応を見てきた。こんな視線を投げかける者もいたが、百メートル足らずで三人だ。

 何者だ?

 彼の警戒心が赤色点灯し、アドレナリンの分泌量を増やした。

 走るペースが心持ち速まった。

 警戒心が逃走モードへとギアチェンジしたのだ。

 よくすれ違うカップルのジョガーに出会った。

 なかなかの美形を伴っている男の方に少なからず嫉妬心が沸きあがるが、今日だけはオスの闘争心が消え、シンパシーすら感じた。


 冴子のマンションは、私服警官が包囲網を完成させていた。

 日下がすれ違った三人は、マンションに近づく者をチェックしている。

 鍛えた脚力はトップアスリートでなければ逃がさない自信がある。

 日下は気づかなかったが、この三人の他にも警察官とすれ違っている。

 彼らの経験値から、日下はひとまず冴子拉致の関係なしと仕分けられた。


 冴子の部屋のフロアには監視カメラが死角なく設置された。

 更に警察官が密かに待機している。

 蟻一匹見逃さない警察の包囲網が、これほど迅速に配置されたのはホステス達の活躍の賜だ。

 彼女らの連絡攻勢が組織のツボを幾重にも刺激したからだ。

 冴子の部屋を開けようとした者が犯人グループだ。

 マンション管理室ではマンションのモニターと警察が設置したモニターが入退室の者をチェックしている。

 非常階段にもモニターを設置しており、マンションから離れた場所からも非常階段の出入りを監視している。


 宅配の車が北側の非常階段の手前で駐めた。

 近所のゴミ収集ステーションとなっている場所だ。

 非常階段を監視している酒井はこの車を見下ろしている。

 宅配の制服を着たドライバーが運転席から下りて、貨物室の扉を開けた。

 男女4人が宅配の制服姿で下りてきた。

「こちら酒井。男二人、女二人。

 皆、飛永運輸の制服姿。

 北側非常階段を上り始めた」


「こちら荒田。

 男一人、女二人、男児一人、小学生低学年と思われる女子一人、家族らしいグループがエントランスより入館」

 荒田は管理室でモニターを監視している。

「こちら酒井。飛永の四人、二十四階に到着」

「こちら荒田。家族らしいグループ、エレベーターで二十四階のボタンを押す。

 管理人に確認。住人でない。

 ボタン操作が有効なので鍵は二十四階の住人のものである可能性大」

 エレベーターのボタン操作は、このマンションの鍵に埋め込まれているICチップをかざさなければならず、自室の階と共用階しか行けない。

「こちら荒田。

 二十三階へ二基のエレベーターで増員を送った。

 二十四階へは非常階段を使う」

「こちら荒田。飛永の四人はエレベーターホールで待機中」

「こちら荒田、家族らしいグループがエレベーターから出た。

 飛永の四人の前を通り過ぎる。

 今、飛永の四人が後を着いていく」

「こちら荒田、エレベーター臨時停止した。

 応援班非常階段配備済み。

 玄関待機班はそのまま待機」

「こちら荒田、今、鍵を開けようとしている。

 玄関待機班、身柄確保せよ」


 注意深く観察すれば、二十四階の通路にはパーティションが多いことに気づくのだが、彼らにはそこまで気を配る余裕がなかった。

 冴子の玄関傍のパーティション裏から私服警官が二人出てきた。

 隣の玄関傍のパーティション裏からも私服警官が二人出てきた。家族を身柄確保した。

 宅配便を装った男女四人は、二箇所の非常階段から出てきた六人の私服警官に取り押さえられた。

 これらは皆、清流輪教の信者で六人の大人は防衛省所属、二人の子供は他の信者の子供だった。


「これは?」

「お客様」

「これは」

「うちの娘(こ)」

「うちの娘?」

「ホステスよ」

「これは」

「うちのスタッフ」

「これは」

「お友達」

 こんなやりとりが延々と続いている。

 マスクの男が冴子のスマートフォンに登録された連絡先を一人一人尋ねているのだ。

 冴子の目の前にいる男女、マスクで顔を隠している、が多少なりとも政治や経済に関心があるなら、既にホットラインを知ったことになる。

 冴子の連絡先に実名登録はない。

 偽名の連絡先に写真を載せる愚も犯さない。

 

 偽名の本名は冴子の頭の中にあるのだが、それは質問されていない。

 さ行の連絡先が終わる頃、扉が開いた。

 質問していた男が部屋から出て行ったが、すぐに戻ってきた。

「質問は終わりです。これでお帰りいただきます」

 冴子が発見されたのはその日の夕刻、ガードレール下の段ボール箱の中で眠っているところを発見された。

 薬で眠らされたのだ。


 清流輪教本部にとっては際どかった。

 冴子を運び出して三十分も経たずに警察の家宅捜索を受けたからだ。

 警察は教団本部にいる全員を持ち場から離れさせた。

 教団の顧問弁護士がどんな方法を使ったのか、結局、一時間足らずで警察は引き上げた。

 勝ち誇る教団幹部、悔しさをにじませる捜査員という構図だ。

 裏の構図は違った。


 ほぼ同時刻、山本は管理官にメモを渡した。

「完璧です。

 バックドアを仕込んで、今もデータをコピーしています。

 ほんのさわりですが重大な情報を得ました」

「ほう」

「まず、Qリスト。

 VIPのホットラインが一致したので間違いありません」

 冴子のスマートフォンに登録されている連絡先は、Qリストとして知られる。

 政治家や官僚の私的電話番号が登録されているだけに、そのコピーが出回ることは治安上の重大事件だ。

「消せるか?」

「問題ありません。

 (清流輪教の)サーバーのログではダウンロードの履歴はありません。

 拡散の可能性はないと考えられますが、紙のメモがあると面倒ですね」

「そして、ブラックウォール・ブレーカー盗難事件、犯人は彼らです。

 ブラックウォール・ブレーカーがサーバーにありました」

「奴ら墓穴を掘ったな。これで破壊活動防止法の第一号だ」

「問題は、ブラックウォール・ブレーカーを使っている現場を押さえることです。

 使わせれば良いのですが」

「その顔は、プランAがあるって顔だな」

「実は……」

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