七 オメガ

 世の中には知らない方がいいこともある。


 誰がいったが、今の私には至言だ。

「美帆(みほ)、私達、科田丸(しなたまる)家の家臣筋に当たるのよ」

「科田丸家?」

「国会議員で、喜多川珠代って人、いるでしょ」

「誰、その人」

「ほら、テレビキャスターから国会議員に転身した……」

「ああ、キャバ嬢顔のキャスターね」

 美帆も私もホステスの知り合いはいないが、高級クラブのホステスは大人顔、キャバ嬢は童顔っぽい女性と思っている。

「あの人の実家が科田丸家なの。

 覚えてないかなぁ、お姫様議員とか言われていたこともあったでしょ」

「そうだっけ。

 でも私達、世が世ならその人の取り巻き侍女だった訳だ」

「家老の娘が侍女になるかしら?」

 私は、父が作り直した家系図とネット検索を掛け合わせて美帆に説明した。

 美帆と私、加納家は喜多川珠代の実家の家臣筋になるのだ。


「知らなかった方がよかったかも。

 私は政治に関心ないけど、(喜多川珠代との)間柄を知っちゃうと、与党を支持しないといけないような気になって。

 何か洗脳されたみたいで、少し気持ち悪いわ」

「佳央(かお)は生真面目ね。

 私は有名人とそんな関係があったなんて嬉しくなっちゃう。

 キャバ嬢議員なんて馬鹿にできなくなったけどね。

 (珠代の選挙区に住んでないので)一緒に選挙運動することないし、ましてや投票もしないし」

 何の接点もない珠代が主君筋と知ったからといって、それで交流が始まるのでなく、ましてや現代に主従の関係が復活するはずもないのだが、割り切れない思いがある。


 実家では、近所から大家と認められている。

 武家の家柄とは聞かされていたが、武家屋敷が残っているはずもなく、ただ近所よりすこしばかり広い敷地なだけだ。

 もし実家に住んでいたら、一目置かれていただろうし、他の子よりも少しばかりちやほやされていたかもしれない。

 お金持ちは何軒もあったが、家格では一番だった。


 昔のこととはいえ、主家の存在を知った。

 他の家では、どうしているのだろうか?

 今でも旧主従の交流があるのだろうか?

 少なくとも、我が家にはそれがなかった。

 彼女の選挙区に住む親戚に聞いてみたら、その事実に驚き、戸惑い、最後は聞かなかったことにするといわれた。


 実家の選挙区から出た女性政治家という認識だけだったが、長崎眞との出会いで喜多川珠代への関心が高まった。

 彼女がメディアに登場すると一挙手一投足に注目するし、新聞に載る週刊誌広告の、彼女に関する見出しにも目が行ってしまう。

 おじさん臭い週刊誌を読む気になれないので、見出しだけで判断するのだが、彼女は失言が多いようだ。

 揚げ足取りの見出しが多い。

 首相の秘蔵っ子は弱い物いじめがお好き、ブランド狂い、公務出張のニューヨークで爆買い、(庶民目線の子育て支援を皮肉って)エリートの子育て術を指南など、お姫様目線を強烈に皮肉っている。


 そんな私のモヤモヤ感とは別のモヤモヤを姉、美帆は抱えている。


 あれ以来、万里と合う頻度が減った。

 その分、SNSでのやりとりが増えたのだが、相手は万里であって、長崎でない。

 彼と会う機会がなくなってしまった姉の落ち込みは私までブルーにさせる。

「美帆は営業だから男性との出会いはいくらでもあるんじゃない!」

 迂闊にも私が同じフレーズで慰めたら、とうとう美帆は切れた。


「いい男は、若くして妻子持ち。

 私にいい寄ってくるのは脂ぎったオヤジ。

 仕事での出会いなんて、そんなものよ」

「一日中、部屋に籠もっている私に比べれば、チャンスは多いわよねぇ」

「私が気づかないと思っているの?

 新しい彼氏、できたんでしょ」

 こういうとき、双子は隠しごとができない。


「どこで分かるの」

 我ながら芸がない。

 いつも同じかわし方だ。

「分かるわよ。

 瞳の輝きが違うから。

 それに、うなじのラインが微妙に色っぽくなるのよね。

 それより誰なの?」

「付き合うって段階じゃないのよ。少し近い存在になっただけよ」

「それはごちそうさま」

「美帆だって、あの時は、いい感じだったじゃない」

「でも、このざまよ。あっ、ばれた?」

「だって、左の小指のネイル、剥げているもの」


 男のことを考える時、特に思い通りに行かないと、左の親指の爪で小指の爪を擦る癖がある。

 だから小指のネイルが剥げる。

「この爪、お客様に見られたかしら」

「相当ポイントが下がったかも」

 最近、先輩社員に付き添って客先に行くようになった美帆は、そんな仕事の変化も軽いストレスになっている。

 長崎のこともあって、はけ口の小指が犠牲になるのだ。

「決めた!長崎さんにアプローチするわ」

「おぉ、さすがは将来の花形営業ウーマン!」

 人事で腐っている美帆へのエールだ。

 あれ以来、私の方が万里と親しい。

 確かに会わないが、電話はよくする。


「万里、お願いがあるんだけど。

 長崎さんと美帆とのデートのセッティングしてくれない?

 とうとう美帆が決心したから」

 早速、万里に頼み込んだ。

 万里は、眞でいいのと念押ししてきた。

 美帆がそういうのだからと、ダメだしすると引き受けてくれた。

 一旦電話を切り、暫くして電話してくれた。

「ごめん!

 今、眞が捕まらないの。

 彼、よくスマホを置き忘れるから。

 こうなると捕まるまで時間がかかるわ」

 出鼻をくじかれた。

 その日のうちに万里から連絡が入ったが、私の残業が終わる頃だ。


「時間がなくて話せなかったけど、眞には世話女房気取りの女がいるの」

「朝いってくれれば、美帆も諦めたのに」

「いえ、恋人って程じゃないの。

 眞の嫌いなタイプじゃないから部屋に入れているだけで、同居する気配もないし、私達、相変わらずトレジャーハンターしているでしょ。

 彼女を連れてこないし、考えてみれば、休みの日に彼女と遊んでる気配もないし」

「つまり?」

「その女は眞の背後霊のようなものよ」

「つまり?」

「眞は霊とか信じていないから、気にしてなくていいってこと」

「じゃあ、美帆に可能性はあるのね」

「可能性は、あるわ」

「その背後霊さんのこと、詳しく教えて」


 帰宅すると美帆が話しかけてきた。

「まだ人事調査には早いけど、人事部員の特権で、フライングだけど営業への希望をだしておいたわ。

 空きが出たら確実に入り込めるように、ね」

 会社でのことを話す美帆は気づいていないようだ。

 無意識に小指の爪を擦っていることを。

「長崎さんへのアプローチ方法を万里から教わってきたわ」

 美帆の目がみるみる輝いた。

 私もこの目をしているのだろうか?

 それを美帆に悟られたのか?

「彼には背後霊、いや飯炊き女みたいな娘」

「ブッブー!それかなり悪辣な差別用語よ。

 人事担当としては見過ごせないわ」

「ごめん」

「(差別発言を)聞かなかったことにするわ。

 家政婦もどきの女がいるのね。それで?」


 営業職を希望するだけあって、美帆はいざとなると打たれ強い。

 普段は、なよなよして、私が一緒でないと心細いくせにだ。

 そして恋愛観は略奪愛も厭(いと)わない。私と逆だ。

 だから、長崎に女がいても怯(ひる)まない。私ならこの時点で諦めるが。

「夜はそのメイドさんが居座って、朝までいるけど、昼間はいないの。

 だから昼間にアプローチしなさいって」

「会社勤めよ。昼間のアプローチなんて無理よ」

「それができるのよ、美帆だからこそ」

「なぜ?」


「ラ・ドリーだから」

 美帆の会社の近くにあるホテルのレストランだ。

「ラ・ドリーのランチが彼の習慣なの」

「ハイソサエティなのね。

 一体、彼は何者?あの時は素性をいってくれなかったから」

「聞いて驚くなぁ」

「覚悟はできてよ」

「医学生なの」

「うゎお、お宝ゲット!」

「ランチがフレンチなんて、少なくとも貧乏学生じゃないわ。

 大病院の御曹司かも」

「それが、汗まみれ土まみれでトレジャーハンターをしてるの?」

「好意的に解釈すれば、男のロマンってことかしら」


 私も自分で喋って滑稽な気がする。

 あの時だって、汗だくで歩き回って、結局、お目当ての地蔵は見つからなかったのだ。

 その前だって、降霊師に喧嘩を売って、一歩間違えればどうなっていたことか。

 その正体が医学生?

 私のイメージでは、御曹司の医学生は、そこそこ勉強して、夜は高級車で合コン三昧。医師の国家試験に合格さえすれば、研修医をそこそこに過ごして、しかるべき時期に実家に戻り、院長の椅子を待つばかりという人生だ。

 美帆も同じ想像を抱いているのだろう。

 彼女の瞳は、輝くを越えて燃えていた。

「ラ・ドリーでランチなんて、OLお一人様が行くところじゃないから、楽しみだわ」

 美帆はもうデートモードだ。


 仕込みは完璧。

 後は蓋を開けてのお楽しみ。

 佳央との通話を切った三枝万里=橘(たちばな)愛は、ほくそ笑んだ。

「これで詠人を背後霊から開放してあげられる。

 あなたはあの女に情けをかけすぎよ」

 愛の心にくすぶる嫉妬は、加納美帆というくさびを手に入れたことで、焔(ほのお)になりつつあった。


 その夜、中埜(なかの)瞳は、玄関で詠人と違う靴に気づいた。

 詠人の弟、拓斗(たくと)が来ている。

 詠人と拓斗の姿が見えないことから、二人は詠人の書斎にいる。

 詠人は二つの部屋を使い分けている。

 一つはベッドルーム。もう一つが書斎だ。二人とも書斎にいる。

 書斎は、瞳が入室禁止の場所だ。


 書斎の扉に向かって声をかけた。

「めずらしいわね、拓斗君が来ているなんて」

 時々、拓斗が尋ねてくるが、彼は書斎に入り浸っていることが多い。

「もう瞳ちゃんが来る時間か」

 中から拓斗の声が聞こえた。

 間もなく詠人が書斎から出てきた。扉が開いたとき、拓斗の背中が見えた。

「また二人の秘密の作業?

 いいわね、男兄弟って」

「まだ作業が続くから、好きにしていて」


 詠人は書斎に籠もってしまった。

 扉が閉まる音で、瞳は目を覚ました。

 SNSで親友とやり取りしている間に、ソファで寝入ってしまったのだ。

 すでに拓斗は玄関に向かっており、背中から声をかけると、起こしてごめん、といって帰っていった。

 今日もだが、これまで何度、拓斗に寝顔を見られたことか。

 電車で赤の他人に寝顔を見られても気にならないが、ボーイフレンドの弟に見られるのはまだ慣れない。

 ざわついた気持ちが落ち着いた頃、詠人が書斎から出てきた。

「もう二時よ」

「今日中、というか今夜中に終えたくてね。

 ごねる拓斗を拘束してたんだ。

 あす、研究室の報告会らしい。今から報告書を作るそうだ」

「まぁ、可哀想。途中で切り上げればいいのに」

「明日、明後日と来られたら困るだろう?」

「私が?」

 Yesとは言わなかったが、詠人は瞳の顔色を窺って、当然だよ、と頷いた。

 二人が寝入ったのは午前四時だった。


 ラ・ドリーでランチを食べている詠人に電子メールが入った。

 十七時までに学生課学務係鈴本まで来られたし、だ。

 用件の見当はついていたが、構わずいつものペースでフレンチを平らげた。

 午後も講義やら実習らやが続いた。

 実習の合間を狙って、十七時ギリギリに鈴本という男性職員を訪ねた。

 案内されるままにカウンセリングルームへ入った。たまにお世話になる部屋だ。

「榊君、どうかしましたか。

 最近、単位を落としかける(再考査でクリア)すことが度々あるようですし、遅刻や欠席も多いようですし」

「最近、将来について悩み出して、今更、なんですけど。

 医師をやめようかな、とも」

「よく考えて結論を出して欲しいなぁ。

 早まってはいけないよ。まだ挽回できるし」

「僕も、すぐ結論を出せそうになく、もっと時間がかかりそうで」

「宙ぶらりんだと、勉強に身が入らないからねぇ」

「ご迷惑をおかけします」

「僕の仕事は、学生さんの学業を妨げる問題があれば、それを解決する手伝いをすることだから。

 遠慮しないで問題をぶつけてください。

 顧問の弁護士の先生もいらっしゃるので、学業以外のことでも大抵のことは解決できます。

 それと……」

 鈴木は勿体をつける。


「第三内科の内藤教授を訪ねて下さい。

 今日は十九時までいらっしゃるそうですから、今からすぐにでもいってください」

 教授の内藤は席を外していたが、秘書が秘書室で待つように椅子を勧めてくれた。

 待つこと三十分。

 内藤が秘書室にやって来た。

 学生の榊さんが待っていましたと秘書が伝えると、詠人を自室に手招きした。

 秘書室と自室を繋ぐドアを閉めるや、内藤は明るく質問してきた。

「榊君、どうした。成績が落ちて心配してるんだ」

 内藤は詠人を見つめつつ、携帯電話を取り出した。

「内藤です。菅井先生、例の榊君が私の部屋にいますので、お時間があればお越し下さい」

 通話を切ると、内藤が話を続けた。

「知ってのとおり、私は君たちの学年の教務主任だ。

 君たち一人ひとりの履修状況は把握している」

 内藤は、かしこまらなくていい、楽にしてと促した。

「君を心配しているのは、一年、二年の成績と比べて、三年で急に落ちたのが腑に落ちないんだ。

 君の能力からすれば、そこそこの努力で単位は取れるはずだが?」

 秘書がコーヒーを持ってきた。

「中井君、遅くまで悪いね。これで帰ってくれたまえ」

 秘書は、お言葉に甘えて、お先に失礼しますといって退室していった。

「履修態度からしても、熱心さに欠けるといわざるを得ない」

「ご指摘のとおりです」

「とおりです、か。

 その次の言葉も欲しいね。これからは努力しますと」

「実は先ほど」

「ああ、鈴木君からは報告が入っている。

 医師としての進路に迷いがあるそうだね」

「はい」

「他の学生なら、そうか、というところだが、君にはそれができないんだよなぁ」

「はい?」


「続きは菅井先生が見えてからだ。

 ところで君、富貴夫人とは親しいそうじゃないか」

「はい?」

「富貴麗さんだよ。あのもの凄い美人だ」

「実は彼女、うちの病院のナースだったんです」

「そういう知り合いだったのか。

 いや、彼女が元ナースとは聞いていたんだが世間は狭いな」


 菅井がやってきた。

「菅井先生、今、富貴夫人の話をしていたんだけど、榊君の病院のナースだったそうだ」

「へぇ、じゃぁ、榊先生の下で働いていたのか」

「そうです。父付きのナースで家にも出入りしていたので、僕も知っているんです」

 じゃあ、話しやすい、と菅井が話を始めた。

「決して恥じる必要はないが、君は三浪してこの大学に入った」

 詠人には触れて欲しくない過去だが、教官達だから仕方ない。菅井は続ける。

「入学したとき、お父様が私を訪ねてきてね」

「えっ、菅井先生をですか」

「先輩なんだよ、お父様は」

「初耳でした」

「多分、私との関係を伏せていらしたんだ」

「なぜ」

「第三者として君を見守るためだよ」

「そう父がお願いしたと?」

「そうだ」

「この大学に合格したとき、これで後継者が決まったと、お父様は大層喜ばれてね」

「今となっては、ですが」

「私も気にしていたんだよ。

 お父様が亡くなって、医療法人が別人の手に渡って、君が継ぐはずだった病院がなくなってしまったことに」

 黙って聞いていた内藤が割って入ってきた。

「それが進路で悩む原因なのかな。

 菅井先生、榊君は進路で悩んでいるんですよ。

 それが学業に影響しているようです」

「そうか。だとしたら榊君、心を入れ替えて欲しい。

 この大学に入るのは決して楽ではなかったはずだ。

 入学を強く願いながらも入れなかった若者はたくさんいる」

「私もその一人でしたけど」

「その時のことを思いだしてみたまえ。

 実家を継ぐという目的がなくなったとしても、医療人になるという目標は変わらないはずだ。

 まずは医師になること。それだけを考えなさい」

「お母様ともよく話し合って欲しい」

 なぜ母親がここで出てくるんだと思ったが、詠人は素直に頷いた。

 詠人は、そういう相談事は麗にしていた。


「拓ちゃんも大学生だし、私、留学するわ」

 拓人が住む都内のマンションが決まった夜、母は宣言した。

 父が亡くなって、鬱になった母は危険なほど落ち込んだが、拓人の大学受験を支えることで、心を保った。

 拓人のことで母の頭はいっぱいと思っていた詠人は、何の前触れもなしに、留学すると言いだした時、躁を疑った。

「拓ちゃんの頑張る姿を見てね、思い出したのよ。

 私も受験勉強していたし、学生時代は声楽に捧げていたことを」

 出産と育児・お受験に費やした二十余年を経て、勉強し直すのだ。

「いい年して留学?

 母さんが入れる音楽大学ってあるの?」

 声楽家時代、といっても小さなコンサートホールで演奏家仲間と一緒にリサイタルをする程度と聞いている、母はイタリア・オペラを専門にしていた。

 だから、留学先はイタリア。

「音楽の世界は甘くはないのよ。

 私が勉強するのはイタリアの芸術史よ」


 詠人、拓斗兄弟は、母の決断に驚き、戸惑った。

 何かの間違いで、母が再婚したらどうしよう?

 これは杞憂で終わるのか?

 もし現実になったとき、再婚相手を父親などと認めるつもりは全くないが、それより怖いのが母親を奪われることだ。

 それが乳離れできていなかったと今思うと恥ずかしい。

 プッチーニのオペラにあった。

 『Vissi d'arte, Vissi d'amore(歌に生き、恋に生き)』

 今なら、母がこうあっても反対はしない、と思う。


 留学して母は逞しくなった。

 SNSを介して母が毎日送ってくるその日の出来事を伝える文面からそう感じる。

 それに対して、兄弟それぞれが、励ましの返信を送る。

 返信は欠かさないし、十時間以内に送る。

 そうしないと、根掘り葉掘り、息子達の様子を問い質すからだ。

 母は現地時間で、夜の十時に送信する。

 日本時間の午前六時だ。

 始めは、それから急いで返信していた。

 どうも、母が深夜まで返信を待っている風だからだ。

 お互い、親離れ、子離れすべきと相談し合った。

 午後二時までに返信することになった。

 すると、母は午前六時の目覚めとともに、息子達の応援メッセージをチェックするのだ。


 麗は大病院の若夫人だ。

 夫君は病院後継者で、名家からの縁談が舞い込むのだが、若き後継者は文字どおり周囲の反対を押し切って麗と結婚した。

 大恋愛の末の結婚と周囲は祝福したが、これこそ麗の深慮遠謀の結末だと詠人は知っている。

 看護師の資格があっても大病院の若夫人が医療の現場に携わることはない。麗はせっせと社交に取り組んだ。

 病院の母体、医療法人の理事でもある彼女は、地元の青年会議所理事長をはじめ、様々な公職に就いた。

 青年会議所理事長として全国大会に出れば、そのOBとして招いた主賓の、現職総理や元総理とも親しく挨拶した。

 玉の輿に乗って、彼女の才覚が人脈を大いに広げた。

 詠人にとって麗の人脈は強力な後ろ盾だ。

 麗は喜んでその人脈を駆使してくれる。

 肝心の、医師か否かの進路は麗にも相談していない。

 反対されるのが目に見えているからだ。

 自分の進路を心配してくれる教授が二人もいる。

 まだ臨床実習もしていない学生が眼をかけてもらうなんて恵まれすぎ、と同期生からやっかみを受けそうだ。

 いろんな想いが錯綜する。

 こういうときは麗に話を聞いてもらいたいのだが、彼女が東京に戻るのは明後日だ。


 いつものフランスレストラン、ド・ジャルジーの個室。

 その日は詠人が先に着いた。

 予定よりも二十分も早く。

 あれから三日間、進路の相談をどう切り出すが迷ってきた。

 そして、結論に達した。

 どうせ説得されるのなら、説得して欲しい時に相談を持ちかければいい、と。

 説得されたい、麗への甘えに苦笑していたら待ち人が現れた。

「何を、にやけているの?楽しいことあった?」

「いいえ。僕って麗さんに甘えているんだなって」

「いつものことじゃない。

 今更そんなこと言うなんて、呆れたわ。

 だから恋愛が成就しないのよ」

「成就しないですか?」

「覚えておきなさい。

 女性は男性に甘えたいだけじゃなく、男性から甘えられたいのよ」

「はい」

「そして、詠人君は甘えベタよ」

「そうですか?」

「そういうことに不器用だから。

 ガールフレンドに事欠かないけど生真面目なのよねぇ、詠人君は。

 ところで、これだけど」

 麗は自分の腕時計を指さした。

 ギリシア文字で最後に並ぶ文字をトレードマークにする高級時計だ。


 この時計をはめてきたら、個室でも、聞き取るのがやっとというくらい小さな声で話すのが申し合わせになっている。

 また、二人だけで通じる隠語も使う。

「制服(=警察)が動き出すそうよ」

「じゃあ、解決ですか?」

「そうなればいいけど、(警察が動くのは)遅すぎるわね。それに」

「それに?」

「窮鼠猫を噛むというでしょ。何をするか分からないわ」

「はぁ?」

「過去にも似たような事件があってね。

 今でも裁判が続いているけど」

「オー(テロ集団の頭文字)ですね」

「そう。追い詰められて最後は毒ガスを使ったのよ」

「二度、似非行為を暴いたから、僕は目をつけられているだろうし」

「気を付けてね。しばらくは近づかない方がいいわ」

 腕時計のブランド名オメガを隠語にしている秘密結社は表向き宗教法人だが、よくある霊感商法の詐欺集団に留まらない。


 都心の地下鉄に毒ガスを撒いて、テロを起こそうとしたカルト教団を模倣している節があると、当局は警戒している。

 自称、信者が薬物中毒で救急車搬送されたからだ。

 当時の法律では規制の対象外の物質が使われたために起訴されなかったが、一部のマスコミが取りあげたことで、オメガの危険性が世間に知られるところとなった。

 詐欺の手口は古典的だ。

 幸運を呼ぶ財布やネックレス、念珠を二十万円前後で売る、典型的な霊感商法だ。

 一人ひとりの生年月日に対応した干支やら星座やら真言やら梵字やらを割り当てたオーダーメードの品という触れ込みだ。

 この個人情報から、オメガとは関係ないと称する団体、実体はオメガ、が霊感商法のDMを送り続ける。


 門外不出の幸運の秘術で運を呼び込むための祈祷料を振り込ませたり、秘術の効果を高めるためのグッズを購入させたりするのである。

 資産のある者には、信仰と相続税対策として純金製の宗教用具を売りつける。

 家庭の宗教用具の相続は非課税とされるが、否認されることもある。

 霊験あらたかな法具は数百万から数千万円。

 純金製だったりするが、貴金属としての価値は十分の一以下で、差額は通貨で計算できない霊験あらたかさ、となる。

 信仰上の価値と信者の間でのステータスに価値を見いだす者は、ありがたく購入する。

 数は少ないが、分院、修道場と称する施設が全国に点在している。


 オメガの危険性は、香と称するドラッグの販売に象徴される。

 教義上、ドラッグ常習者は入門できないし、常習者に陥ったら破門される。

 ドラッグの販売ルートとして各自治体にマークされながら長期に亘って摘発されなかった。

 破門されても、信者はオメガの会員制通販サイトでドラッグを購入できる。

 ドラッグといっても、何が混ざっているか分からない生命を脅かす危険な脱法ものではない。

 法律に明記されている禁止薬物を使っていても効果がマイルドだ

 略語表記、GD。濃褐色でやや甘味のある粉末、俗称、グランデは、粗い粒子だと一見、グラニュー糖にも見える。

 摘発されれば即有罪なのだが、摘発されない。

 調査官が抜き打ちで施設に入っても現物は隠されている。覆面捜査をしても信者でない者が現物を見ることはない。

 仕入れ先は外国のマフィア。品質の確かなロシア経由だ。

 オメガがドラッグ販売ルートでありマフィアと深く関わっていると知らなかった当時の詠人は、霊感商法で降霊術を使っている現場を押さえ、信者になりかけた人を救ったことがある。

 その現場は、テレビのオカルトショーのもの真似、オカルトごっこといっていい。


 その日も、三枝万里こと橘愛を伴っていた。

 アシスタントになって間もない愛だ。

 愛にはいろいろ教えた。

「日本でも時々、オカルトの番組が放送されるだろ。

 アメリカの番組を吹き替えで流すのと、日本で独自に作るやつと」

「ああゆうの、気味悪いわ」

「気味悪いというのは多少なりとも信じている証拠だ。

 あれはショーだよ。

 やらせ。

 多少アドリブのあるドラマなんだ。

 アメリカでは降霊術の習慣が一部にはあったけど、それが廃れつつある。

 その伝統を残すためにショーが必要なんだ。

 何も知らない子供が聞きかじりの知識で真似して、差別や偏見に陥るより、正しいやり方と解釈の仕方を教えた方がいい。

 喩えるなら、男女の関係を、偏った知識でSMやDVがそれだと思い込むよりも、正しい行為のあり方を教えた方がいいということかな」

「やだぁ、それって私を誘ってるの?でもムードは落第よ」

「いや、喩えの話だ。

 だが、(降霊術を)日本で放送するとオカルトそのものだ。

「つまり、あちらの国でどういう位置づけかという知識がないから、映像のとおりに信じてしまうか、多少なりとも信じるが故に怖がるってこと?」

「そう」

「でも結構熱心よね、アメリカ人って」

「それって偏見だよ。

 アメリカ人の皆がオカルトに興味があるわけじゃない。

 一によってはオカルトもディベートのネタさ」

「何?、それ」

「討論というか、議論を楽しむためのネタに過ぎないってことさ。

 実際、霊を信じる立場で熱弁を振るっていた者が、次のディベートでは霊を否定する立場で名言を吐くから」


 信者になろうとする周囲の若者に聞こえよがしに二人は話すので、会場係の女性から私語を控えるよう注意された。

 それでも話が続くので、名前をおっしゃい、と詰問された。

「僕は山﨑琢馬。こういう騙(だま)しを暴(あば)くのが趣味です」

 詠人の、咄嗟の偽名だ。

 聞き捨てならない、と睨みつけられた。

「あそこの降霊術師さんは、本名が井手将太さん。

 熊本県出身。

 元は旭自動車のディーラー勤務。

 弁説爽やかなれど、車は売れず。

 職を転々として、ここに拾われて降霊術師の真似事をする」

 会場係の二人の女性に囲まれ、誰の差し金ですか、と威圧された。

「妻と二人の子持ち。通っている小学校は横浜市立……」

 会場係が困り果て、責任者らしき男が近寄って威圧した。

「デタラメな個人情報なら聞き流してください。奥さんの仕事は北辰生命の営業ウーマン。所属営業所は横浜南営業所」

「もういい」

 詠人が井手といった降霊術師が大声で制止した。図星だからだ。

 詐欺は、自分が身元不詳の、名無しだから自信を持って虚偽を語れる。

 しかし、素性、それも家族まで知られて、人を騙せる者は少ない。


 井手も会場係と同じ問いを投げてきた。

「どこのお寺の差し金ですか?」

 それを無視して若者達に呼びかけた。

「皆さんは欺(だま)されている。

 降霊術で皆さんの人生は変わらないし、そもそも霊との対話なんてありえない!」

 二人の男性が詠人を囲んだ。

 若者達はざわついた。

 ライブでは会場係の近づく様子が映し出されるが、写ってない他の者のざわつきが聞こえ、観るものにとって臨場感がある。

「まだ試作品だけど、このメガネ、カメラがついていて、今、ネットでライブ放送しています。

 地図付きで。

 もうそろそろ野次馬が来るかも知れない。

 ライブを始めて二十分経つから」

 会場係は威嚇を込めて拳を握って構えた。


「おい、なんなんだ。ネットで騒ぎになってるぞ!」

 別の男が駆け込むなり叫んで、会場係は拳を引っ込めた。

「みんな、行くよ」

 詠人の引率で数人の若者がついてきた。

 だが、過半数は残ったままだ。

 修道場といわれるこの施設の引き戸を開けると公道だ。

 反対車線側の歩道には、野次馬がちらほら集まっている。

 皆、スマホや携帯のカメラ機能で面白いところを撮影しようと構えている。

 つばの広いバスケットハット帽子を深く被り、俯いた詠人が出てくるなり、スマホや携帯が暗号を送るかのように次々と点滅し、疑似シャッター音が連続的に聞こえた。


 炎上とまではいかないが、夜半まで修道場の多数の動画が話題になった。

 ライブ動画の投稿者名は、abaki_ryokuである。

 しばしば、投稿者名の解釈が繰り返される。

 アルファベットは日本人が読めば、ローマ字表記の日本語で、その意味を想像するのだ。

 あばき、りょく。

 あばき、暴き?曝き?

 りょく、力?緑?

 ネットでは、『暴き・緑』が通称になった。

 投稿者のハンドルネームは、事実か、演出か、騙しの現場を投稿している。

 ネットの野次馬は、『暴き・緑』が、あのバスケットハットの男と断定した。


 修道場ライブ事件で話題になったのは、チューリップハットと大きなマスクで顔の分からない女性(愛のこと)と詠人についてきた女性信者である。

 『暴き・緑』のライブ動画は、以前からカルト狩りマニアに注目されていた。

 修道場と同じ手口で現場に潜入、術者の虚偽を暴き、主催者が詠人を制止しようとするという展開は同じである。

 一週間前からライブの日時を予告するので、『暴き・緑』のウォッチャーはその時刻になるとライブが始まるのを待つ。

 近所のウォッチャーは、現場に駆けつけるし、知り合いが近所なら、その知り合いに撮影を頼むという風に現場の野次馬を増やしつつある。

 『暴き・力』のウォッチャーは、マニアックな市民に限らない。

 警察当局の担当官もそうであり、ライブ動画を精査している。

 地下鉄毒ガス事件以来、過激な宗教団体にテロ集団の危険性を前提とした内偵をしているのだが、『暴き・力』は参考情報の一つとして役立っている。


 カルト教団体はテロリストやその集団との直接的な繋がりはないが、オメガは違う。


 当局の内偵でもほぼ断定しつつあり、『暴き・緑』の動画に証拠能力はないが、確信を高める材料になっている。

「おいおい、また際どいことをやってくれたなぁ」

 山本瞬(やまもとしゅん)は警察内で『暴き・緑』に注目する一人だ。

「そろそろ保護しないと危ないなぁ」

 山本瞬の独り言が始まった。部下は声をかける。

「彼、公安に向いていません?」

「潜入捜査か?

 もったいない。俺の部下にしたいね」

 彼の捜査対象の一つはオメガだ。

 違法ドラッグを売り、若者の洗脳を図っている。

 その先にあるものが、地下鉄毒ガス事件を起こすようなテロ集団に行きつくのか、どうか監視している。


 金森梓(かなもりあずさ)は国税局の立場で『暴き・緑』に注目している。

「彼、いいカメラワークしてるわ」

「(脱税の可能性のある宗教法人を)潜入捜査してくれるなら、フリーランスとしてスカウトしたいですね」

「ほんと、証拠を探し出してくれそうね」

 彼女の調査対象の一つが、清流輪教だ。

 自作パソコンの販売やパソコン教室、婚活支援サービスなど非宗教活動の営利事業にも熱心で、その収益はきちんと申告している。

 それが一般企業と遜色ない売上を出している。

 それなりの売上高、それなりの原価、それなりの販管費、妥当な賃金、非の打ち所のない申告と納税、賃金の源泉徴収もそうだ。

 だが、営利事業のスタッフは、パートタイマー扱いの教団信者。

 賃金は現金払いで、支払いの客観的証拠は受領の印鑑だけだ。


 社保庁が管轄する雇用保険や厚生年金保険、健康保険、更には労災保険のパートタイマーに対する支払いはない。

 ブラック企業も使う古典的な手法だ。

 帳簿上、給料は払ったことにする。

 受け取った給料は使ったと、口裏を合わせる。

 実際、使う場はある。

 キャバクラ、クラブ、かなり際どいサービスまで提供する風俗営業店など、歓楽街だ。

 教団が裏で支配している。

 収益事業活動であり、勧誘活動の場、でもある。

 だが、信者にとって、職場は修行の場であり、労働は無償の奉仕活動だ。

 原価や販売費管理費の大きな部分を担う外注先は、本社がタックスヘイブンにある会社の日本事務所だ。

 税回避の疑いは濃厚だが証拠がない。


 国家機関のそんな動きを知らない詠人は、麗の忠告を素直に聞いた。

「愛ちゃんを守らなきゃ駄目よ。

 彼女も危険な立場なんだから」

「徹底的に外出は控えるようにいっておきます」

 そう、愛の身に危険が及ぶようなことはもう避けなければいけない。

 トレジャーハンターも潮時かな。

 詠人はそんな考えが浮かんだ。


「ところで麗さん、僕の大学の内藤仁(ひとし)先生と菅井玄(ふかし)先生とは親しいのですか」

 麗の笑顔に魔性が宿った

「それ、やぶ蛇よ」

「えっ」

「医者、やめるっていいだしたそうね」

「もう知っているんですか?」

「第三内科の内藤先生、第二外科の菅井先生、お二方とも、うちの病院がお世話になっている先生よ」

「えっ」

「お二人から電話頂いたことだし、オメガのこともあるし、頃合いをみて話そうと思っていたのだけど、今からいうわ」

 詠人は身構えた。

「あなた、医師免許だけは取りなさい。

 これはお願いでなく、命令よ」

「あのぉ、もっと時間をかけて説得してくれると思ったのですけど」

「このことに説得はないの。

 あなたの入学が決まった日にお父様から頼まれたのよ」


「父が、ですか?」

「私が病院の若夫人だから、それとなく気をかけて欲しいって。

 もう涙が出ちゃったわ。

 息子のために、(かつての部下だった私に)ここまで頭を下げられるのかと思うと」

「初めて聞きました」

「私が(父の病院に)いたときから、あなたたち親子って、会話が少なかったものね。

 どれだけお父様があなたのこと気にかけていたか知らないでしょ?」

「昔はね、医者になったら父と酒を酌み交わそうと思ってたんですけど」

「今となっては、ね」

 麗の瞳に涙が浮かんでいたが、さっと拭き取った。

 すこし沈黙が続いた。

「まったく詠人君は心が堅いわね。

 ここでうっすらでも涙がでれば可愛げがあるのに」

「こんな風に育ちましたから」

 いつの間にかコーヒーとプチフールが出てきた。

 そう感じるほど、詠人はそれまでの料理の記憶がない。


「じゃあ、おさらいよ」

 麗が重い空気を払拭するように笑顔で明るく振る舞った。

 腕時計を指さして麗はいう。

「一つ、これ(オメガ)に用心すること」

「はい」

「二つ目、愛ちゃんに危険が及ばないようにすること」

「はい」

「いい返事ね。

 三つ目、医者になること」

「はい」

「声が小さいわよ。大声で!」

「はい」

「宜しい」

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