五 ホワイトナイト

 私の名刺を見るなり、その男は顔の筋肉を引きつらせながらも、相好を崩した。

 こういうとき、週刊ダンテは後光を放つ。

「吉川、ふみなさん?」

 武田奈津夫(なつお)にアポを取る際、スマートフォンから聞こえた彼の声は私を疑っているように感じた。

 女の記者なら会ってもいいかというようなスケベ心も感じられた。

 それはそれで逆手に取れる。

 無表情になると憔悴した感がある。


「電話でもお話ししたとおり、レイコという女性、巫女レイコの方が通りがいいと思いますが、彼女についての情報を集めているのです」

「どこから僕の名前が出てきたのかなぁ?」

「それはダンテの情報力ということで」

「週刊ダンテほどの方が、なぜ巫女レイコを追っているのですか?

 あんなの、タブロイド紙のようなところが扱うネタでしょ」

 巫女レイコを隠せなくて、開き直ってきた。


「それをいうなら、武田さんほどの名家の方がなぜ巫女レイコに会われたのですか?」

「ほんのお遊びですよ。田舎者なんでね。

 お上りさんの怖いもの見たさ、というところですか。

 もっともレイコは怖いどころか、魅惑的な女性でしたが」

「魅惑的?ですか」

「いやぁ、史奈(ふみな)さんには敵わないかな?ふふっ」


「巫女レイコを知るきっかけは何でしょう?」

「知人からといっておきましょうか」

「どんなお知り合いですか?」

「それは」

「いえないと?

 もう手遅れですわ。

 巫女レイコのことは、会ったことも第三者に漏らしてはならないとされています。

 私が知っているということは、武田さん、貴方は誰かに喋ったということですよね。

 漏らした者は呪詛されるといわれていますが、そんな迷信はともかく、それなりの制裁があると思います。

 いえ、既に受けたのかも知れません」


「そんなはったりには乗りませんよ」

 私は、奈津夫の眼の動きを逃さなかった。

「何か心当たりがありますか?」

「いえ」

「あったということですね。

 名家でいらっしゃれば、庶民には縁遠いご事情というものもおありでしょうから」

 彼に関するトラブルを調べれば、レイコの外堀を埋める手がかりになりそうだ。

「ありませんよ!」


 真顔で否定する武田に別の話を振る。

「そういえば、市議選に出馬される予定だったと伺いましたが」

「触れて欲しくない話ですね。

 可愛い顔して、古傷に塩を塗るようなことするんですね。

 Sの趣味があるんですか?」

「あら、記者は厚顔で、Sですのよ。

 でも名士でいらっしゃるから、(選挙に)出れば当選できたでしょうに」

「記者さんなら分かるでしょ?選挙は水物だってこと」

「それは結果論ですわ。

 (立候補の撤回は)今でも尾ひれがついて噂が駆け回っているようですね」

「七十五日って、とっくに過ぎたのにね」


 しゃがみ込んだ彼の背中は丸まって、いじめられっ子の様でもあった。

 私に背を向けたまま、盆栽に生えた草を抜き出した。

 後援会の誰もが、出馬取りやめは寝耳に水のことだったという。

 それが立候補受付の五日前だ。


 遡(さかのぼ)って、立候補予定者向けの事前説明会には武田本人と選挙参謀が出席している。

 その前から推薦人名簿作りで水面下の地盤固めにも取り組んでいた。

 この期に及んで出馬を取りやめるのは余程の覚悟が必要だ。

 実際、選挙から三カ月過ぎたのだが、武田の誹謗中傷はまだ続く。

 その一つは買収行為が発覚したという噂。

 二つ目は愛人が沈黙を守る代わりに金品の要求をエスカレートしてきた、三つ目は家業と暴力団との繋がりが露呈することをおそれた義弟の圧力、そして選挙ボランティアの人妻に手を出したこと。


 私が最も信憑性があると思うのが選挙資金の枯渇だ。

 使い果たしたのでなく、選挙資金を他に使わざるを得なくなったというものだ。

「どなたのアドバイスだったのですか」

 彼の背中に質問を続ける。

「何が?」

「出馬取りやめです」

「自分で決めたんだよ、自分で。私一人で決めた」

「選挙参謀とかに相談せずに?」

「ああ。決めてすぐに世話役には連絡したよ。いや、謝ったというべきかな」

「なぜ、(立候補を)止めたのですか?」


 武田は急に立ち上がり、呆れかえったといわんばかりの眼差しを向けた。

「これとレイコは関係ないだろ!本当は選挙の取材なのか?」

「選挙のことがレイコに繋がるかな、という私の勘です」

「その勘、大外れだよ。もう帰ってくれ」

 武田を追い詰めるには詰めが甘かった。

 武田に名乗った訳だし、隠れて取材する必要もないので、いよいよ家族から情報を引き出したい。

 それに噂によれば義弟も。


 帰りの新幹線でそんな思案を巡らせていたとき、飯山さんからの電子メール受信音と同時に電話が入った。

「ふみちゃん、手伝ってくれないかなぁ」

 飯山さんはITベンチャー最大手の買収案件の取材のヤマ場だからとかいって、レイコの取材から逃げた一人だ。

 今は地方の商社の、民事再生の裏情報を追っている。


「乳飲み子じゃないですけど、子育て真っ最中の私に夜討ち朝駆けはできませんよ」

「ふみちゃんはレイコの取材で長野県に行ってるだろ。

 そのついで、と悠長なこといってられないけど、大至急で調べて欲しい人物がいるんだ」

「もう帰りの新幹線に乗っちゃったんですけど、何処の誰ですか?」

「仕方ないなぁ。

 メールで送っといたけど、名前は武田加(か)寿(ず)美(み)だ」


 メールを開いた。

 今しがた会っていたあの武田の妻だ。

「飯山さん、面白い展開ですね。

 今まで私、その夫と話していたんですよ。

 経緯、詳しく教えて下さい」


「殖産データバンクが前田商事の民事再生を発表したのが昨日。

 とうとうというか、やっとというか、前田商事は経営破綻した」

「何のことですか」

 私には寝耳に水のことだ。

「それでダンテの記者か!」

「すみません、飯山さんほどには経済通じゃないんで」

 育休明けの記者はこうだから困る、そんな飯山さんの声が聞こえたような気がした。

 だが、そんなことで引け目を感じる私でない。

「前田商事は北洋材輸入の草分け的商社だ。

 最盛期に立てた大邸宅を地元の人はロシア御殿とよぶ」

 北洋材とはロシア産の木材のことだ。

 ロシアでも極東地域の森林から伐採された原木、つまり丸太や製材だ。

 富山県にある伏木富山港は北洋材の輸入港の一つだ。

 前田商事はその中の伏木地区で古くから材木商を営んできた老舗である。

「一度見てみたいですね。ロシア御殿」

「俺にいわせれば、第一線で働く経営者が大邸宅を造った途端、会社は傾く。

 前田商事もその例外じゃないってことだ」

「家に時間を使うから、ですね」

「おう、俺のいったこと覚えているじゃないか……」

 駆け出しの新人の頃、飯山さんには赤提灯講座で教えられた。

「……立派な家があれば、客を家に招きたくなる。

 幹部を呼びたくなる。

 すると、会社にいる時間が減る。

 だから(経営環境の)変化の兆しに鈍感になるんだ」

 昔は、特に地方では接待するお店がなかった。

 遠方から着た客をもてなす宿泊施設もなかった。

 だから自宅に旅館の機能を持たせなければならず、幾つもの客間と客を感服させる庭が必要だった。

 今、地方でも主要都市まで足を伸ばせば、立派なホテルや旅館がある。

 そこでもてなせばいいのだ。

 それを昔の大商人気取りで大邸宅を持つと経営者の緊張感がなくなり、倒産しないまでも業績は低迷するというのが飯山さんの持論だ。

「で、そのロシア御殿のせいで、前田商事は経営破綻したと」

「豪邸が悪いんじゃない。主の緊張感の問題だ」

「その前田商事と武田加寿美の関係は」

「新しい支援者、といっても資金提供者だが、その一人だ」

「出資額は?」

「三十億円」

「負債額の二割強ですか?やっぱり資産家なのですね」

 民事再生では債権放棄、すなわち負債の免除がセットになっている。

 どこまで債権放棄するかは、今後の交渉次第だが、それによって武田加寿美の影響力は大きくなる。

 飯山さんの話を聞きながら殖産データバンクの発表を閲覧した。

 負債総額百二十八億円。民事再生では事業再生を専門とするファンドが支援することもある。M&Aを手がける、いわゆるハゲタカ・ファンドの中には事業再生を得意とするところもある。

 米国のキャナリー・ファンドが前田商事の実務的な支援者、武田加寿美はホワイトナイトの一人ということだ。

 しかるべき事業再生が達成できた時点で売却するのだろうが、場合によってはホワイトナイトがそのまま有力な少数株主として君臨する可能性もある。

「で、私に加寿美のインタビューを取れと?」

「頼む」

 私は編集室に直帰する旨、託児所には二十一時までの時間延長を連絡し、次の駅で下り車両へと乗り替えた。


 やはり、先ほどと違って、武田家の門が開くことはなかった。

 インターフォン越しに、奈津夫はけんもほろろの対応だった。

 奈津夫曰く、加寿美は一切の取材に応じないという。

 久々の夜討ちはあっけなく退散だ。


 翌日。

 外堀を埋める作戦に出た。

 奈津夫が取材拒否でも加寿美の情報はいろんなルートから入ってくる。

 最初の切り口は商工会議所女性部だが、法人会、国際奉仕団体など、彼女はさまざまな団体の役員に名を連ねており、女性経営者の中では知られた存在である。

 幸い、今日の午後、国際奉仕団体の例会が、ホテルの宴会場を会場に開催されるという情報を商工会議所で掴んだ。


 女性だけの国際奉仕団体。

 その会員は経営者や医師、弁護士、税理士を始めとする専門職である。

 牡丹の間では、会場設営のホテルスタッフに交じって、数人の会員がいた。

 会員でない私に警戒感を抱きつつもダンテの記者への好奇心からか、話を聞いてくれた。

「ここだけの話ですけど、武田加寿美さんはある商社に巨額の出資をなさるそうです」

「巨額って?えっ、三十億円。

 三十億って、加寿美さんは一体幾らの資産があるのかしら?」

 一人が三十億円という数字に反応した。

 加寿美に対する羨望から妬みに変わるはずだ。

 そしてその時間は長くない。


 私の目算どおり、内輪の話が展開した。

「あの人、そんなに資産あった?」

「武田家の資産管理会社の三割はあの人のものよ」

「ってことは、弟さんの会社の三割もあの人のもの?」

「それが、四割を超えているんですって」

「じゃあ、三十億は出せるんだ」

「でも、財産の相当な分よ。失敗したらどうするのかしら?」

「それは記者さんに聞いてみたら」

 彼女達から投資先を聞かれたので、殖産データバンクが既に発表している情報を噛み砕いて話した。


「噂をすれば影がさす、よ。彼女が武田加寿美さんよ」

 夫で婿養子の奈津夫と比べるのもおかしいが、お嬢様がそのまま年齢を重ねた印象を私は受けた。

 箱入り娘が世間の風に当たることなくこの歳まで来た。

 そんなおっとりした雰囲気だ。

 化粧品の宣伝文句ではないが、実年齢より十歳は若く見える。

 さぞかし美容にお金と時間をかけているのだろう。


「加寿美さん、あの週刊ダンテの記者さんがお話ししたいそうよ」

 私が加寿美に駆け寄る前に、会員の一人が切り出した。

「あら、何かしら?」

 加寿美の声は優しく、口調はおっとりしている。

 武田家の資産管理会社の社長であるが丁々発止のビジネスに携わっているのでない。

 良きに計らえ。そんなお姫様なのだろうか。


「初めまして。私、週刊ダンテ編集室の記者、吉川史奈と申します。

 早速ですが、前田商事への資金援助のことでお話を伺いたいのですが、ほんの少しの時間だけ、場所を変えてお話を伺ってよろしいでしょうか」

「ごめんなさいね、何も申し上げられないわ」

「では、前田商事とはどんなご関係でしょう」

「それもいえないわね。ごめんなさい」

 穏やかな物腰だが、取材拒否の強い意志表示は伝わってきた。


「今日は特別な例会があるのはご存知よね。

 私はその準備で来たの。

 残念だけど、あなたと話している時間はないの。

 お引き取りいただけます?」

 加寿美と話すきっかけを得ようと、暫く会場に残っていたが、加寿美も忙しく動いている。

 取材でこういう会に出入りしたことは何度もあるが、いつも不思議に思う。

 彼女たちは、多分、自分の会社ではしないような下働きを、ここでは嬉々としてやっている。

「吉川さん、足が速いですね」

 この会場にあって異質な存在が現れた。

 女性ばかりがいる中で、男臭さを醸し出す存在。

「たしか」

「顔は覚えていてくれたんですね。

 御(み)厨(くりや)ですよ。大日経済の」

 業界トップの経済紙の記者だが、あの新聞社にして彼が記者でいられるのが不思議だ。

 新人時代、飯山さんに同行して取材して二、三回顔を合わせている。


「すっかり印象が変わったので、思い出すのに時間がかかりました」

「僕はすぐに分かりましたよ。雰囲気は変わってないから」

「ご冗談を。今は子育て真っ最中で、やつれているでしょ?」

「そのシャープさがいいんですよ。

 頬から顎にかけてのラインは。

 で、何か掴みました?前田商事のこと」

「ノーコメントよ。

 大日(経済)さんに先を越されるのは癪だけど、私は門限があるから帰らなきゃならないの」

「いやぁ、働くママは大変だ。じゃぁ、スクープはいただくよ」

「一筋縄ではいかなくてよ、あのお姫様は」

 ライバル記者を目の前にして、敵前逃亡とは。

 例会が終われば加寿美を捉まえるチャンスがあるはずだが、託児所の最終門限は破れない。

 自分を慰めるつもりはないが、加寿美への取材にかこつけて奈津夫と接触する口実も得た。

 また出直しだ。


 翌日。

 経済紙のネット版に掲載された前田商事の記事は、前日の殖産データバンクの発表内容を要約した程度の内容だった。

 経済紙にとって、未上場の中堅商社の民事再生はニュースバリューが低いのだろう。

 裏付けを取る余裕がなかったのだろうけど。

 未上場でも、経済問題を扱う週刊誌にとっては読者の関心を惹きそうなネタが隠れている。


 それが単発ニュースで終わらなかった前田商事事件だ。

 昨夜、なんとか早朝保育の枠を取ってもらい、息子を預けて、加寿美と奈津夫へのアプローチに向かった。

 案の定、武田家の前に数人の記者がたむろしていた。

 様子から察すれば、誰も加寿美に会えてないようだ。

 その中の一人、御厨は私を見つけると、ニヤニヤしながら近づいて来た。

「吉川さん、共同戦線、張らない?」

 やはり、昨日の取材は失敗したようだ。

 以前から、飯山さんに耳打ちされている。

 御厨とは手を組むな、と。

 彼に紳士協定の発想はない。

 身銭を切らず、相手の情報にただ乗りする、それが御厨だと。


「大日経済さんがダンテと手を組むなんて、聞いたことありませんわ」

「会社と会社じゃない。記者と記者が手を組むんだよ」

「ズバリ、いいますね。

 私のジャーナリズムは自分の足で掴むことなんです。

 他人と手を携えて、って考えられませんわ」

 年下の私がベテラン記者に引導を渡した。

「ご立派なジャーナリスト精神なことで」


 翌週の週刊ダンテは、飯山さんが執筆した前田商事の経営実態と民事再生計画に私が執筆したホワイトナイト武田加寿美の二本立てで特集した。

 御厨がそれなりに動いただろうに、大日経済は早耳というコラムに小さく扱っているに過ぎない。

 だが、写真誌がダンテの特集をきっかけに動き出した。

 加寿美を帝国に君臨する女帝として車から降りた姿、団体の例会で挨拶する姿、威風堂々たる女性達を先導する姿を掲載した。

 カメラマンの撮影技術というべきか、某写真誌の加寿美は地方の実業界に君臨する支配者という表情だった。

 ライバル誌は、それとは真逆の、男性の好奇心をそそるような熟女モデル風に捉えた。

 世間の関心、というよりも記者の関心、それは読者のトレンドを反映したものであるが、地方企業の前田商事よりも武田加寿美に注がれた。


 この事態は私に好機をもたらした。

 騒動を鎮めるような記事を書いて欲しいと、加寿美から私に相談してきたのだ。

「あなたの記事がきっかけでこんな騒動になったのだから、あなたに後始末をお願いするわ。取材は受けるから」

「ありがとうございます。私でいいのですね」

「ええ、あなただけよ。子育ての大変さに触れてくれた(記事を書いた)のは」


 そこが彼女のツボだった。

 お金持ちだから、娘の教育費はいくらでもかけられるから、娘が最難関校に入って当然、財務省のキャリアになるのも当然、と世間はいうが、お金があれば皆が皆、競争に勝てるわけではない。

 資産家なら、財力を活用した、楽な選択肢は幾つもある。

 あえて、子を受験戦争にさらし、勝ち抜けたのは、親の教育、特に母親の力である。

 このことを私が暗喩で記述したのだが、そこを彼女は読み取ってくれた。


「前田商事の支援の話を持ってきたのはキャナリー・ファンドよ。

 ああ見えて、武田(奈津夫)は(地元経済界にとどまらず)結構顔が広いのよ。

 キャナリー・ファンドはそんな知り合いから紹介されたの。

 正確には、武田の知り合いが、武田にキャナリー・ファンドを紹介したのね」

「そのお知り合いの方とは?」

「私はよく知らないわ。

 でもキャナリー・ファンドは信頼に値するわ」

「いくら信頼できても、前田商事に三十億円も出すというのは無謀すぎませんか?」

「オフレコの約束、守れる?」


 彼女はどこまで私を信頼しているのか?

 オフレコとは公表しないことを意味する。

 私がオフレコを守ると信じていないなら、彼女は核心をいわないだろう。

「私が三十億円を出すことはないわ」

「見せ金ってことですか?」

「お金はあるわ。でもね、私の存在は呼び水になるのよ」

 オフレコと断りながらも、彼女がこのタイミングで私に語ってくれた理由が気になっていた。

 産休記者って見下す輩がいるが、私とて煮え湯を飲まされた経験は伊達じゃない。

 私だから話してくれると言われてしっぽを振るほど初心(うぶ)じゃない。


 呼び水、で納得した。

 彼女に代わる出資者の目途が立ったのだ。


「つまり、新しい出資者が登場したと?」

「さぁ、そんな話はキャナリーさんから聞いてないわ」

「では、例会の日にお尋ねした前田商事とのご関係は?」


「前田商事の先祖は廻船問屋。

 武田家は家老の家柄。

 そして武田家が仕えた八田藩もご多分に漏れず多額の借金をしていた」

「つまり、遠い昔、前田商事と武田家は取り引きがあったと」

「かつての、いみず屋よ」

「いみず屋との因縁が支援の動機ですか?」

「我が家に伝わる古文書の、先祖代々の申し送りよ。

 いみず屋の恩を忘れるなと」


 信じられない美談だ。

 今どき、遠い祖先の恩義を果たす日本人がいるなんて。

 美談を疑う私は、いつの間にか心が荒(すさ)んでいるらしい。

 私の本能が囁くようにこの因縁にまだ裏があるのか?

「オフレコで表に出せないなんて、もったいない話ですね」

「約束よ」


 武田加寿美と前田商事は繋がった。

 だが、前田商事がいみず屋であることを初めから知っていたのか?

 知っていたら、もっと早くに支援していたのではないか?

 加寿美はいみず屋が前田商事と知ったのは最近のことでないか?


 だが、キャナリー・ファンドは武田家と前田商事の関係を知っていて、加寿美をホワイトナイトに担ぐことに成功した。

 こういう情報力がファンドの実力というものだろう。

「せっかくですので、もう一つお聞きしたいのです。

 奈津夫氏の立候補断念の件ですが」

「それは武田に直接お聞きになって」


 加寿美が取り持ってくれたが、奈津夫は頑として私に会わない。

 また来ますと言って、武田家を後にした。

 帰路の新幹線で、御厨が隣の席に座り込んできた。

 ずっと後をつけていたのだろう。

「吉川さん、武田加寿美の取材をしたんだろう。情報交換しないか?」

「それって、会社を売るってことじゃないですか」

「違うね。

 世間が注目するスクープが取れれば、会社への貢献だ。

 そのための行為は会社への献身だ」


「献身の見返りが、その歳で現場、ですか?」

 御厨の表情がみるみる変わった。

 狙い撃ちした逆鱗に命中した。

「来週のスクープを見て、悔やむがいいさ。

 私の厚意を無にしたことを」

 相変わらずの虚勢と厚顔ぶりを発揮する御厨に、呆れるという感情は生まれない。呆れるとは期待を大きく下回ることだ。私にとって御厨は道化師だ。

 彼の本性に大日経済記者の肩書きが相乗的に働いて、卑屈な尊大さになるのだろう。

 塩を撒いて消臭剤を噴霧したいと思った自分を、大笑いしたい衝動に駆られた。

 怒り心頭の御厨を前に、笑いを抑えるのは拷問に等しい。


 息子寝かしつけてから飯山さんと情報交換した。

「何かあったか?」

「何ですか?藪から棒に」

「文ちゃん気づいてないのか?眉間の皺(しわ)」

 インターネット電話でカメラ機能がオンになっている。

 お互いの顔を見れば、声では伝わらないニュアンスも分かる。


「飯山さんはスマートフォンでしょ?

 よくそんなことまで分かりますね」

「そりゃあ、眉間を拡大したから」

「私、パソコンで見てますから、そこが(スナック)アスカだってこと、分かってますよ。

 いいんですか?そのお店。

 奥さんとの修羅場、ごめんですからね。

 今度は、取り持ちませんよ」

 アスカのカウンターレディーとの浮気がばれて、夫婦仲を取り持ったのは、育休中の私だ。

「彼女、店辞めたよ。だから大丈夫だ」


「飯山さん、おっしゃっていましたよね。

 やっと前田商事が破綻したと」

「結構、悪いことしてたんだ、あの会社」

「何を、ですか」

「密輸。電子機器を旧ソ連へ密輸してたんだ」

「(当時の)ココム違反ってことですか?」

「そうだ。当時の最先端のパソコン本体をソ連へ運び出したんだ。

 それとネットワーク機器や半導体だ」

「ごめんなさい。理解が追いつきません」


「昔は、こちらがトランジスタの時代に、向こうはまだ真空管を使っていたんだ。

 真空管って分かるか?」

「多分、トラン何とかの方が新しい技術なのでしょうが、それも分かりません」

「まぁ、いい。とにかくだ、軍事転用されそうな製品は輸出してはいけなかったんだ」

「今のワッセナー・アレンジメントですよね。分かります」

「摘発されたのが三回。つまり懲りずに密輸を続けていたのだ」

「極めて悪質、ってやつですね」

「その度に業績を落としてきた。

 三度目の違反をしたときは、これでおしまいと思ったんだが、まだ生きてたんだ」

「モラルの欠片もない会社なんですね」


「最初の摘発の時は、罪の意識が全くなかった。

 リベートとして先方が一番喜ぶものを選んだら、それが電子機器だったという訳だ。

 そして、材木の需要が減るにつれて会社の業績も落ちていった。

 その穴を埋めるために先方を通じて、旧ソ連への輸出を始めた。

 コンテナの中にはインボイスに載ってない品も含まれていた。

 ココム違反の品が」

「そして日本国内での信用を失って、経営破綻ということですか」

「そうともいえない。この経営破綻はM&Aの買い叩きのために仕組まれたのだ」


「買い手は誰です?」

 私の問いに飯山さんはにやりとした。


「ロシアの取引先だ。正確に言うと、その取引先を買収したファンドだ」

「目的は?」

「北洋材ビジネスの拡大が公式発表だ。

 ロシア政府から北洋材の輸出関税の特例が適用される予定で、安価な木材を日本に輸出する仕組みを作るとか、まことしやかな話が流れている」


 北洋材の輸入量が減少した最大の理由は、ロシア政府が北洋材の輸出に対して高い関税を課したことが理由だ。

 だから大手企業は木材の仕入れ先を北米やニュージーランドに切り替えたのだが、北陸の中小材木業者は製材設備を北米産などに切り替える設備投資も難しく、北洋材を扱い続けている。


「だが、誰の目から見ても、港の利権がらみだと睨んでいる。

 裏付けを取っているところだが、ロシア系ファンドのバックはマフィアとの噂もある」

「飯山さん、話が飛躍していませんか?」

「米国ファンドが日本人のホワイトナイトを立てたことを見ると、まんざらでもないと思うが」


「ところで、武田加寿美に白羽の矢を立てたのは誰だと思います?」

「キャナリー・ファンドの内部の者ではないだろう」

「米国人やそれに携わる日本人が、いみず屋と武田家の因縁を知っていたとは考えにくいですわ」

「キャナリー・ファンドと繋がりがあって、前田商事か武田家のどちらかの系譜に詳しい者ということだな。

 ごく少数の人物だと思うが、それが誰だか見当もつかない」

「これは、何の裏付けもない私の勘なのですが」

「女の勘というヤツか?」

「ふと、思い浮かんだ名前が、巫女レイコです」

「君が追っている都市伝説か。

 なかなか突拍子もないことをいうね」


 レイコの取材を他人事のように言うが、私が担当したのは飯山さん達三人が投げ出したからだ!

 そんなことで後ろめたさを引きずるようでは記者は務まらない。

「ロシアマフィアよりは納得できますわ。

 私の勘、これは記者としての勘ですが、巫女レイコは武田奈津夫と会ったことがあるはずです。

 だから、武田家のことを知っていてもおかしくない、でしょ?」

「なるほど、都市伝説から駒、か」

「そして、投資に携わる者は験(げん)を担ぐといいますよね。

 キャナリー・ファンドの関係者がレイコに会った可能性もありますよね」

「つまり、レイコが武田家とキャナリー・ファンドを仲介したと?

 可能性を否定しないが、偶然を求めすぎだね」


 翌日、キャナリー・ファンドに、いみず屋と武田家の情報源を探った。

 オフレコ情報として加寿美から提供されたことを告げると、その事実はあっさりと認めた。

「手前どもも情報で商売しておりまして、情報源を明かすことはできません」

 前田商事案件の担当者にとりつく島もなかったが、内部で調べあげた情報でないことは確信した。

 出所は外部の者だ。

 そんな彼らは巫女レイコとの関わりも否定した。


 二週連続して前田商事事件を大きく扱った週刊ダンテは、前田商事に関しては他誌に頭一つ抜きんでた。

 最新号が発売されたその日の朝に、加寿美から感謝の電話を受けた。

 加寿美に肩入れした内容ではないが、誹謗中傷に近い写真誌にウンザリしていた彼女には私の記事は大きな慰みになったようだ。

 そこに付け入るように取材の申し入れをすると、オフレコでよければ、と承諾してくれた。


 翌日、私の仮説を話して加寿美の反応を見た。

「そのレイコという女性は、なぜ当家の何代も前のことを知っているのですか?」

 レイコが武田家のことを詳しく知っているという仮説は、彼女には不満そうだった。

「奈津夫さんと面識がおありのようです。

 軽い気持ちで予言してもらったと思います。

 その際、武田家のことを話されたと思います」

「武田が、私も知らない当家の昔話を知っているとは思えません」

 これだけレイコという名前をインプットしておけば、加寿美は奈津夫に尋ねるはずだ。

 それで奈津夫に何らかの行動があれば狙い通りだ。

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