四 万里
付き合い出すと三枝(さえぐさ)万里の勘の鋭さに舌を巻く。
「だから一目見て美帆(みほ)がはまりやすいタイプって気がついたのよ」
占いにも詳しい。
「占い学校では初心者を装っているの。
お金さえ払えば何度でも同じコースを受講できるわ」
万里が占いに詳しいことを知ると、美帆にとって逢えない覚(かく)蓮(れん)に変わる存在になった。
時々、彼岸覚寺(ひがんかくじ)が話題に上る。
「それまで宗教に関心のない人がああいう場所で宗教心に目覚めるのは、ある意味、雰囲気に飲まれるってことだけど、生半可に知識のある人も、はまるのよね。
五体投地を見て、これぞチベット仏教と思い込んで入信する人、いるのよね。
日本の仏教だって、宗旨によっては、していることなのに」
万里の宗教談義は長崎の受け売りだ。
美帆のことがなければ、私は彼岸覚寺がそんなに悪いところだとは思わない。
「世の中には霊感商法で何百万、何千万と巻き上げる新興宗教団体は数え切れないし、彼岸覚寺はそこまであくどいとは思わないけど」
私が思うところを受けて、美帆は意地悪く万里を責める。
「長崎さんは、降霊術という一点で許せないんだ」
「その通り」
万里はあっさり認める。
「なぜ?」
「私は知らない方がいい、の一点張りよ」
我が家には解きたい疑問があった。
長崎なら分かるだろうか?
「ねぇ、本当に個人的なことだけど、ちょっと相談できる?」
「勿論よ。私で解決できる、できないは別にして、何でも相談してよ」
「うちの家系図に古文書が挿んであって、何が書いてあるのか知りたいのよ。
全然読めなくて。
調べようと思っているけど、手のつけようがなくて。
だって、こんな文字じゃあ、検索できないでしょ?」
両親が亡くなって、我が家の一切合切を貸し倉庫に移す際に見つけた。
家系図は父が新しく作り直したものだろう。
いかにもパソコンからプリンターで印刷したという鶯色のコピー用紙の家系図だ。
隷書体を使っているところなど凝り性の父らしい。
だが、古文書は違う。
和紙に書かれた毛筆は、多分、達筆なのだろう。
現代文学を専攻した私にはとうてい読めない。
この古文書は我が家に伝わる家系図の一部なのか、もともと挟まれていた物か、分からないが、父がそうしたのだろう。
こんな古文書が残っているにもかかわらず、家系図の原本はない。
だから、父がワープロで作ったのだろうが、その元資料がないのだ。
「これ、鷲塚って書いてあるけど、何かしら」
「あなた、古文書が読めるの?」
「書道というか、習字をやっていてね、草書も大丈夫よ。
でも昔の人の字と現代の草書は違うし、古文書固有の言葉遣いもよく知らないし」
万里の指摘に閃くものがあった。
家系図をめくっていくと、それがあった。
父に教えられたことがある。
うろ覚えだが加納を名乗る前の姓があったと。それが鷲塚だ。
「じゃあ、松平って何かしら?ひょっとして徳川家に連なるあの松平家のこと?」
「家系図には松平ってないわ。
少なくとも親戚じゃないみたい。
万里さんのいうとおり、お殿様かな?」
「ねぇ、本当に知りたいなら眞に見てもらうけど。
眞、こっち系にも詳しいから古文書も読めるのよ」
願ったり叶ったりだ。
コピーを万里に渡すと、早速、翌日、連絡があった。
「あの松平は地名だそうよ。
そこにあるお寺にまつわる記述らしくて、お寺がからむから眞は夢中よ。
解読したら会って説明したいって」
一週間後、静かな喫茶店で長崎の説明を受けた。
万里も一緒だ。
「あの文書は殿様から託された、秘密の品の隠し場所でした」
オタクって蘊蓄(うんちく)の前置きが長い、退屈な人達と私は思っていたが、長崎眞はそんな前置きもなく、即、結論を語った。
「秘密の品って?」
「それが何かは書かれてない。
万が一の時、誰かに隠し場所を伝えるための文書だったと思う」
「で、その場所は?」
長崎が古文書のコピーを広げた。
コピーのコピーらしく、古文書が黒ずんでいる。
そこにマーカーや走り書きがあって、熱心に取り組んでくれて、苦労した様子が偲(しの)ばれる。
八箇所の黄色いマーカーを指さした。
彼は八箇所の地名を現在の住所にまで調べ上げていた。
「隠し場所は八箇所。
きっと、七箇所は囮(おとり)。
一箇所が正解。
少なくとも一番目と二番目、八番目ではないと思う。
どれが正解か分かります?」
私に振られても分かるはずない。
暫く考えたが、三番も、四番も、五番も六番も、七番も正解に思えてしまう。
それだけじゃない。
一番や二番、八番も正しい可能性もあるんじゃないか。
でも探しやすいのは四番と六番と八番だ。
これらは加納家の土地だからだ。
「八箇所どれも、正しそうで、私には分からない。美帆はどう?」
美帆は首を横に振って、少し考えていった。
「一度間違えたらそれで終わりということでもないし。
勘の鋭い万里に決めてもらいましょう。
最初に行く所を」
美帆のいうとおり、八箇所全部調べればいいのだ。
現実的には私達の土地の三つしか探せないだろうけど。
「私の勘では六番目」
「ここって、うちの山林よ」
「えっ、山持ち?
うわぁ、二人ってセレブなんだ!」
その山林は、地元の森林組合に管理を委託し、入会権(いりあいけん)を設定してある。
組合員は加納家の土地に入って森林の伐採ができるし、キノコや落ち葉も採取できる。
年貢という訳ではないが、年に一回、松茸と筍、それに一俵分のお米を送ってくれる。
それに出来高で木材の代金だ。
父に連れられて一度だけ、その山に行ったことがある。
「にわかトレジャーハンターになってみませんか?」
眞の、手の込んだデートの申し込み?とも思った。
だが、この話に美帆が乗り気になった。
「面白そう!
佳央、一緒に行きましょ!
共同所有者なんだから」
両親が亡くなって、加納家の財産を相続したのだが、不動産はすべて美帆との共有にした。この山林もそうだ。
「現状を見ておきたいわね」
私はいずれ手放そうと思っている。
残念ながら振り込まれる材木の代金では固定資産税が賄えず、毎年持ち出しだと顧問税理士がいっていた。
共同名義なので美帆の同意が必要なのはいうまでもない。
「じゃあ、決まりね。
万里も一緒に行かない?
あの時のこと覚えているでしょ」
星空を見ながら三人揃えば最強の美人探偵といったあの夜のことだ。
すかさず万里も賛同してくれた。
「運転手(眞)も調達したし!」
昔とは様変わりしていた。あの怖かった薄暗くて凸凹した山道は、途中まで片側一車線の立派な林道になっていた。
しかしその先は切り出した丸太を運ぶトラックとすれ違うのに、最寄りの待機所までバックしたり、落ちれば谷底というガードレールにギリギリまで幅寄せしたりで、何度か絶叫した。
山を切り開いた広い作業場に着くと、離れていても熱気が伝わるほどの放熱をしている重機が止まっていた。
お昼休みなのだ。
私達の車に気づいたのだろう。車を駐める前に平屋建てのプレハブ事務所から男が出てきた。
ライトグレーの半袖の作業服は汚れておらず、すり切れてもない。
現業の人でないことは一目で分かる。
「加納さんですか?加納美帆さんと佳央さん」
そうです、と答えると佐藤と名乗って名刺を渡した。
この作業所の所長だ。
所長自ら案内するという。
事務所に戻ってリュックサックを背負い、コンテナボックスを両手に持ち、数本の杖を脇に挟んで来た。
コンテナボックスの中には長靴と無線機、地図が入っている。
「来客用の長靴です。履き替えて下さい。山歩きは裾が汚れますから」
二枚ある地図の一つは、コピーで、かなり昔に描かれた山林の境界を示す印が書き込まれているそうだ。
この境界がいまでも拠り所になっているという。
それを元に今の地図に記号が書き込まれている。
「いずれは、測量に基づいた杭打ちをして境界を正さなければなりません。
その時はご協力を宜しくお願いします」
そういって、丁寧に頭を下げた所長は、私の父より年上だろうか。
ここから先の移動には軽トラを使う。助手席に私が座り、美帆、万里、長崎は荷台に座った。
「ちゃんと腰をつけて座ってください」
荷台の三人に注意を促した。
軽トラが走るには十分な道幅だがゆっくりと走った。
荷台に座っている美帆達を気遣ってだ。
軽トラから降りると、皆に先端に鈴のついた杖を渡した。
「大丈夫と思いますが、念のための熊よけです」
所長は適宜、無線機で連絡を取りながら、私達を先導して山を登っていった。
「この切り株が、加納さんの山林の南西の端です。
正確には切り株の隣にある石杭の境界標ですが」
昔の地図には石柱の絵が描いてあるが、それが石杭に変わったのだ。
一旦林道に戻って軽トラで先に進んだ。
さっきから万里がセレブ、セレブとうるさい。
「えっ、ここまでが二人の山なの?すごい」
「すごいといっても、東西にたった八キロよ。
もっと大地主の人、たくさんいるわよ。ね、佐藤さん」
そう言う美帆は、まんざらでもない笑みを浮かべている。
「途中まで舗装してあった林道があったでしょう。
二車線になっているところ。
あそこまでは組合長の地所なんですよ。
山二つかな」
「ひぇぇ!上には上があるものねぇ」
加納家以上の山持ちは万里の想像を超えているらしい。
「でもね、この山は初めは加納家が全て所有していたと聞きますよ。
林業が衰退したからでしょうかね、この区画を残して全て手放したと聞いています」
「これって、聞いてはいけないことだったかしら?」
「万里さん、気にしなくていいのよ。
祖父の代のことだし、父は手放そうと思っていたらしいから」
美帆はさらっと口にするが、私は落ち武者のようで少し恥ずかしい。
「もし手放されるなら、組合が誠意を持って対応させてもらいますが、この区画は観音様がいるから手放せないと聞いたことがありますよ」
今、思いだした。
そうだ観音様があるんだ。
一度見ただけだからすっかり忘れていた。
「観音様?」
万里の眼が輝いた。
観音様が導いてくれたと万里はいいたいのだろうか、それとも彼女が観音様を探しあてたといいたいのか。
「さぁ、着きました。ここを登ると南東の端です」
やはり古い地図どおりだ。
切り株の傍に風化した地蔵菩薩が野ざらしで置かれていた。
「観音様はどこでしょう」と美帆が尋ねた。
佐藤は新しい地図を広げて印をつけた。
「ここを登っていくと、水平に進む道があります。
左に進んで下さい。
つまり加納家の地所を西に進むのですが、その道沿いに右手に観音様があります」
同行しようかという佐藤に、忙しそうだから結構というと、無線機を預けてくれた。
「兎に角、山を下りればこの道に出ます。
無線で呼んでください。
迎えに来ますから。
男性がいらっしゃるから私も安心して戻れます。
くれぐれも無理しないでくださいね。
それから三十分ごとに連絡してくださいね。
何かあったらすぐ連絡くださいね」
佐藤の指示どおりに歩くこと三十分。
可愛い観音像に出会えた。
斜面に天井と側面、床が石の板で囲まれた横穴がある。縦横五十センチといったところか。
石の板はもともとなのか、風化によるものか、表面はごつごつしている。
奥行き1メートルほどの横穴の奥に観音像が鎮座している。
大きな観音様だったように覚えていたが、実物は四十センチほどだ。
御影石で作られているのだが、風化したのか、元々の意匠なのか、顔はのっぺりしているし、指先がない。
ひょっとして、意図的に削られたのかも知れない。
私の知る観音像は細身の女性だが、この観音様はふくよかで肢体は短く太い。
「ちゃんと面倒を見てもらっていたんだ」と長崎がつぶやいた。
「多分、山林の下草を刈るついでに観音像の周りも丁寧に草を刈ったり、落ち葉や泥を取り除いたりしていたんだ。
さすがに山火事は怖いから、線香や蝋燭はお供えしなかっただろうけど」
長崎の想像だが、私はそこまで思いが及ばないことが恥ずかしい。
公園の銅像や石像だって掃除する人がいるから綺麗な姿でいられるのだ。
ましてや山の中の観音像なら、ツタや雑草に覆われ、誰も観音像に気づかなくなるのにそれほどの時間はかからないかもしれない。
「最強の美女達の仕事はここまで。ここからはトレジャーハンターの仕事だ」
そういって、長崎はタブレット端末を取り出した。
「この道沿いに地蔵菩薩があるはずだけど」
長崎は私達のことを忘れたかのように黙って歩き出した。
「ちょっと、私達を置き去りにするつもり?」万里が怒った。
「僕たちの捜し物は観音菩薩でなく、地蔵菩薩。
小さなお地蔵さんだから観音像を目印に探すんだ。
この近くにあるはずだ」
四人いれば気強いが、歩き疲れて置いてきぼりになると、迷子になった気持ちになった。
お地蔵さんがある目的地に着けない。
これって、本当に迷子ってことだろうか?
山で迷子になることを遭難というと誰かから聞いた。
よくある、山菜採りで遭難するってやつだ。
そして私は美帆や万里からも離されている。
「ちょっと待って!私、一人になったら遭難しちゃうから!」
私は渾身の力で叫んだら、長崎は振り返ってくれた。
私が追いついて四人揃ったらまた歩き出す。
辛い思いする私とは裏腹に、美帆は森林の行軍がまんざらでもなさそうだ。
いつの間にか万里に代わって長崎とくっつくように立っている。
二人並んで歩くには狭い道だが、私には感じる。
長崎に近づきたいオーラが美帆から出まくっていることを。
上下の斜面にも気を配りながら歩いたが、それらしい石像を見つけることなく、西の境界まで来てしまった。
「私達、頑張ったわね、こんな長靴で」
美帆は自分の頑張りをさりげなく長崎にアピールする。
「長崎さんも私達のペースに合わせて歩いてくれて嬉しいわ」
更に長崎への感謝まで口にする。
「皆さんはここで待っていてくれませんか。
僕はもう一度戻って、探してみます」
長崎は佐藤から預かった無線機を美帆に渡したが、美帆はそれを私に渡して長崎にいう。
「私も一緒に行っていいですか?」
「いや、山歩きに慣れていないと大変な思いをしますから、ここで待っていて欲しいんです」
「でも、ここは私の山林よ。
私が一緒の方が何かと都合がいいと思います。
特に探しものをするときは」
引き下がらない美帆に根負けして、長崎は美帆と一緒に来た道を戻っていった。
万里と私はこの場に残ることにした。
「万里さん、いいの?」
「何が?」
「美帆が長崎さんに接近しすぎているから」
「だからぁ、私達、そんな間柄じゃないって!」
「じゃぁ、どんな関係?」
「前にもいったでしょ、私の運転手。
時には私がトレジャーハンターのアシスタントということもあるけど。
それだけよ」
「それだけの関係って、なかなか親密じゃない」
「会社の上司と部下の役を交代し合っているだけのことよ。
上司と部下の不倫って小説になるし、恋愛ドラマの定番だけど、世の中の上司と部下が皆不倫しているんじゃないのと同じよ。私達の間柄は」
「説得力、無い」
「どうして?」
「二人だけの時間も長いんでしょう?」
「それほどでもないわよ。
例えば、今日。
佳央さん達を送り届ければ、それで私もさよならよ」
「食事とか、その後のこととか」
「ない、ない!」
「万里さんにそのつもりがなくても、長崎さんは気があったりして」
「それもないわ。
それより、いいの?
美帆さんが眞に近寄って。
不釣り合いな気がするけど。
セレブのお嬢様と眞じゃ、不釣り合いだわ」
「だから、セレブじゃないって!」
万里に悪気はないと分かっているが、セレブといわれることに抵抗がある。
私が考えるセレブと私達では天地の違いがある。
セレブでも社会勉強として会社勤めするだろうが、彼女達はコネで入社する。
キャリア志向だとしても、就活とは無縁だ。
そして配属先も、営業や製造でなく、受付や秘書を担う部署だろう。
一方、私達は就職試験で内定を勝ち取った。
戦績は三勝十二敗、二十不戦敗、つまり内定三社、試験オチ十二社、門前払い二十社だ。ちなみに美帆は、一勝二十敗だ。
配属先は試験の成績や適正だろうか、私は経理、美帆は人事だ。
現代文学を学んだ私の希望は広報や宣伝、経営学を学んだ美帆は営業だった。
万里は?と振ると、彼女の方がお嬢様だ。
「佳央さんの前では恥ずかしいけど、私、コネ入社。裏口組よ」
「すごい!じゃぁ、エントリーシートなんて書いてないんだ」
「書いたわよ。コネでもスタートラインは同じよ!」
「で、今のお仕事は」
「嫌わないでね。秘書室勤務、まだ担当する役員はなくて、役員秘書の下働きよ」
役員秘書って自分は選ばれた人間という気位の高さを感じるが、万里にその気負いはない。そこに好感が持てた。
「だから残業も休出もなくて、有休はいつでも取れるから、トレジャーハンターの真似事ができるのよ」
度々の残業、四半期ごとの決算期は休日返上で働き、その間は有休も取れない私とは全然違う。
「秘書室勤務だと男性社員の見る目が違うんじゃない?」
少なくとも私の会社や美帆の会社ではそうだ。
「どうかしら?
私なんて役員秘書の召使いのようなものよ。
役員からの届け物を渡すために社内中走り回っているわ」
電子メールで送れない物、社内便には託せない物の運び屋さんなのだ。
「そう、そう、この前、セクハラぎりぎりのことがあったのよ!聞いてくれる?」
役員秘書の話題に深入りして欲しくないのか、万里は話題を変えた。
「私で良かったら、話して」
「結構なお爺さんがね、『まりさんか、僕の恋人だった娘と同じ名前だね』って切り出すのよ」
「若い愛人ってこと?」
「そう、実の娘よりもずっと若い十九歳の学生アルバイトの娘(こ)だそうよ」
「まぁ、お盛んね」
「それが聞いたら笑っちゃうのよ。
片想いで相手にされなかったみたいなの」
「何、それ?」
「その娘は、よく行くスーパーのアルバイトで、何度もその娘のレジを通るうちに話すようになって、お茶に誘うようになったの」
「それで?」
「服でも、バッグでも欲しいものを買ってやる、って迫ったそうよ」
「下心丸出しね」
「でも、その学生は何も要求せず、一年後には卒業して、アルバイトも辞めて、それっきりだそうよ」
「そのお爺さんは相手にする価値もなかったのかしら?」
「悲しいけど、容姿がね。御免被りたいわ」
「そうなの?」
「服だけは高そうなもの着ているのよ」
「じゃぁ、お金、持ってるんだ」
「でも初対面の私に、こんな話をしてくるなんて!
私に愛人の誘いをしているようなものじゃない!」
「そうなの?」
「だって、その後で、『万里さん、あなたもその権利があるんだよ』って」
「権利?」
「だから、服やバッグを買ってやるという」
「あっ!」
「ねっ、セクハラでしょ」
「私なら、食事くらい一緒しても良いけどなぁ。バッグと引き換えに」
「佳央さんって、意外と悪女なんだ」
「経理にいるとね、叩き込まれるのよ、コスパ、コストパフォーマンスということを」
「爺殺しの、費用対効果ってこと?」
「あら、詳しいわね」
コスパが費用対効果だと知っていた万里を見直した。
「秘書室ってね、勉強できるのよ、役員会の資料で」
「万里さん、結構やり手なのね」
「現役の経理ウーマン、佳央さんの足下にも及ばなくてよ」
「うまいわねぇ」
そんなお互いの仕事の状況や職場の人間関係の愚痴をいいあっていたら、長崎と美帆が戻ってきた。
「残念だけど、見つからなかった」
その割りに長崎の表情はさばさばしていた。歩き疲れたのか、疲労と痛みで顔の歪んだ美帆とは対照的だ。
私は無線で佐藤に連絡して迎えを頼んだ。
事務所で長靴を脱ぐと美帆が痛がる理由が分かった。
ストッキングは赤黒く汚れ、血がにじんでいる。
マメができて、破れたのだ。
長崎の前では痛いともいわず堪えていたのだ。
こんな健気な姉を見たのは久しぶりだ。
家に着いてから美帆に問いただすと、顛末を語り出した。
私達がセクハラ談義に花を咲かせている間、二人は一時間半歩き詰めだったそうだ。
長崎は美帆の足のことに気づき、長靴を脱がせて足を見ようとしたが、美帆は汚い足を見られたくなくて、頑なに拒んだそうだ。
長崎に悟られまいと、気丈に振る舞った結果が血まみれの足だ。
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