百合子side

90

 ーー東京、桜乃宮家ーー


 帰宅し部屋のドアを開くと、メイドの南が開け放たれた窓の前に立ち、パタパタと白いエプロンを揺らしていた。


「お、お帰りなさいませ。百合子お嬢様」


「あら、南ちゃんどうしたの?お部屋のお掃除は午前中に済ませたはず」


「はい。向日葵お嬢様からお届けものです」


「向日葵から?」


 私はドレッサーに近付く。

 微量ではあるが、甘い香りが鼻を擽る。


「南ちゃん、Christmas rose使ったの?」


 南の体はピョンピョンと兎のように跳ねる。その仕草に、怒りよりも笑みが漏れる。


 南はメイド服がとてもよく似合う愛らしい女性。ナチュラルメイクで幼く見えるが、年齢は蘭子姉さんと同じだ。


「百合子お嬢様!申し訳ございません!」


「くすっ、いいわよ。蘭子姉さんには秘密にしてあげる。南ちゃんはこの香水が好きなのね。確か……以前もこっそり使ったでしょう。部屋の残り香でこっそり使ってもすぐにわかるのよ」


「本当に申し訳ございません。もう致しません。お許し下さい」


 南は私に必死で頭を下げる。

 二つに束ねた長い黒髪が、そのたびにピョンピョン跳ねた。


「本当に困った人ね。この香水はお父様の形見、私達三姉妹にとって大切なものだから、南ちゃんに差しあげることは出来ないけど。赤い口紅と赤いマニキュアでよければ南ちゃんにあげるわ。ビューティーマリー化粧品からの頂き物だし、他にも同じ商品があるからいいよ」


「百合子お嬢様、本当ですか?」


「うん、南ちゃんは母の専属メイドだったし。それに、きっと私より赤が似合うと思うから」


 私は口紅のキャップを外し、南の唇に赤い口紅をつける。鏡に映る南は赤い紅を差しただけで、華やかで美しい女性へと変貌を遂げる。口紅の色を変えるだけで、女性は蝶にも花にもなれる。


「ほらね、よく似合ってる」


「百合子お嬢様、ありがとうございます。香水を勝手に使用し本当に申し訳ございませんでした」


 私はドレッサーの引き出しから取り出したChristmas roseを南の手首に吹き付けた。


「この香水は特別なものだから、これで我慢してね」


 室内は薔薇の花が咲いたような甘い香りに包まれる。


「滅相もございません。失礼致します。うわ、わ、」


 南は慌てて部屋を出ようとし、勢いよくドアを開けた途端、太陽とぶつかる。


「た、太陽様……!?」


「やぁ、南ちゃん。久しぶりだね。元気だった?あれ、この香り……。それに……その口紅……」


「百合子お嬢様、太陽様、お許し下さい。し、失礼致します!」


 南は慌てて部屋を飛び出した。


「口紅を変えただけで、女の子って印象が変わるんだな。あの南ちゃんが、いつもと違って見えたよ」


「そうだよね。南ちゃんは美人だからメイクすればきっと見違えるわ。それより、ねぇ、太陽見て。鈴蘭の花よ。向日葵が北海道から送ってくれたの」


「鈴蘭の花か、可愛いな」


 私はドレッサーの上に置かれた鈴蘭の鉢を手に取り出窓に置く。春のあたたかな風が花びらを優しく揺らす。


 明日、太陽は菊さんのお屋敷に引っ越しをする。私は来月桜乃宮家との養子離縁届を提出し、新たに柿麿家と養子縁組することとなっている。


 太陽は木村姓を貫いたが、祖母である菊さんのことが心配で、柿麿家に同居することとなった。


 菊さんは太陽を柿麿家の跡取りとすることを未だに目論んでいて、私の婿養子に迎えたいと張り切ってはいるが、私は結婚とか自分の姓とかさほど拘りはない。


 桜乃宮であろうと、柿麿であろうと、木村であろうと、私はわたし。


 結婚しても、結婚しなくても、私達の関係は変わりはしないのだから。


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