lesson 12
太陽side
74
一月二十四日。
新しいアパートの契約を済ませ、中古品を扱うリサイクルショップで家電品も買い揃え、俺は引っ越しの日を迎えた。
俺の荷物は、ここに来た時に持参した二つのボストンバッグと、錆びついた古い自転車だけ。
引っ越し当日、玄関には三姉妹と松平さん、屋敷に仕えるメイド達が一列に並び俺を見送ってくれた。
たったこれだけの荷物なのに、松平さんは引っ越し業者を手配してくれた。軽トラックの荷台には一台の自転車と二つのボストンバッグ。南ちゃんや礼花ちゃんから花束を貰い、思わず笑みが零れる。
「皆さん、短い間でしたが色々お世話になりました」
俺はみんなに深々と頭を下げる。
「太陽さん、いつでもここにいらしてね。ここはあなたの家なのだから」
「……はい」
「また近い内に、桜乃宮財閥の今後について話し合いましょう。それまでゆっくり考えて下さいね」
「蘭子さんそれはご辞退申し上げます。桜乃宮財閥の会長は蘭子さんです。桜乃宮家の後継者は蘭子さんしかいない」
「あなたまだそんなこと言ってるの。もう少し賢い人だと思っていたけれど呆れるわね。あなたが当家の正当な後継者なのよ、辞任するのは私の方だわ」
「困ったな。どう説明すればわかってもらえるんだろう……」
困り果てた俺は右手で顎を触る。これは幼い時からの癖だ。
「やだ、お父様と同じ癖」
「えっ?」
「一緒に暮らしていなくても、親子の血は争えないね」
百合子が俺を真似て顎を触り、クスクスと笑った。じゃじゃ馬で男勝り、生意気な女だと思っていた百合子の笑顔。
百合子がこんな風に笑うなんて、初めて知った。
百合子の怒った顔と泣き顔しか印象になかった俺は、百合子の明るい笑顔に思わず見とれる。
虚勢を張り生きてきた百合子。その百合子をほんの一瞬でも可愛いと思うなんて、俺もどうかしている。
ーーあの日……
病室で百合子の涙に触れ……
百合子の唇に触れ……
俺の中で何かが変わり始めていた。
それが何なのか……
自分で認めてしまうことが怖い。
だから、ここを出て行くと決めたんだ。
「じゃあ、蘭子さん、百合子さん、向日葵さん、どうかお元気で……」
「はい。太陽さんもお元気で」
滝口さんがリムジンのドアを開いた。俺には不釣り合いだが、蘭子が用意してくれたもの。その好意に甘え、花束を抱えたまま俺は後部座席に乗り込む。
車の中から三姉妹に視線を向ける。
向日葵はぽろぽろと涙を零し、気の強い百合子の目にも、ツンとすました蘭子の目にも涙が光る。
親の財力に胡坐を掻き、のうのうと生きてきた桜乃宮財閥の令嬢。その概念は、今の俺にはない。
ここに立っているのは、運命に翻弄されながらも、悲しみを心の奥底に抱え強く生きる三姉妹だ。
最後に、ずっと抱いていた疑念を晴らすためにある言葉を口にする。
「……鈴蘭、二月二十三日。神戸のバーで待ってるよ。必ず来てくれ」
「……鈴蘭?」
三人が顔を見合せた。この中に、この言葉の意味がわかる人物がいるはずだ。メイドがざわつき、松平さんが「静かに」と、注意する。
「滝口さん、車を出して下さい」
「もう宜しいのですか?」
「もう話は終わりました。車を出して下さい」
「はい。畏まりました」
キョトンとした三人の目の前で車のドアが閉まる。呆然と立ち竦む三姉妹を残し、リムジンは豪邸を後にした。
ーーこれで……謎が解ける。
鈴蘭なら、俺の言葉の意味が理解できるはずだ。
二月二十三日、俺達が出逢った神戸のバーに現れた女性が、一夜を共にした鈴蘭。
きっと彼女は現れる。
俺はそう信じて疑わなかった。
◇
勤務先ひだまり印刷会社から徒歩数分の三階建てマンション。
1LDK。築二十年。一階の部屋にはバルコニーの代わりに小さな庭がついている。と言っても、庭の広さは三畳くらいだが、これでも俺には贅沢な物件。以前住んでいたアパートよりは少しだけ出世した。
「滝口さん、マンションまで送って下さりありがとうございました。色々お世話になりました」
「太陽様、ご用の際はいつでもこの滝口にお申し付け下さい。蘭子様からもそのように指示を受けておりますから。これは私の連絡先です」
滝口さんは俺に名刺を差し出す。
俺はその名刺を受け取らず、礼を述べる。
「ありがとう。でも、このマンションにリムジンは似合わないよ。それに自転車さえあれば、何処にでも行ける」
滝口さんはニッコリ微笑み、「そう仰有らずに、受け取って下さらないと蘭子様に叱られてしまいます」と、半ば強引に名刺を手渡した。
「ありがとうございます。滝口さんは俺の命の恩人だから、お守り代わりに財布に入れておきますね」
「命の恩人だなんて、光栄でございます。太陽様、お元気で。またお屋敷に戻られる日を楽しみにお待ちしております」
「滝口さんもお元気で」
リムジンの後から着いてきた軽トラックの荷台から、自転車が降ろされる。俺の愛車だ。
滝口さんは運転席から降り、後部座席のドアを開く。リムジンから一歩足を踏み出す。
ーーこれでもう魔法は解ける。
夢の世界から現実世界へと、俺は降り立つ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます