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 滝口さんを見送った後、ボストンバッグを掴みマンションのドアを開けた。まだリサイクルショップから家財道具は届いてはいない。


 ガランとした部屋。室内は綺麗にリフォームされ塗装の匂いが微かに残っている。


 ここに決めた理由は会社から近いこともあるが、リビングに面したこの小さな庭。庭には以前住んでいた住人が植えたパンジーやノースポールが風に揺れていた。花を愛でるなんて俺のガラではないが、風に揺れる色鮮やかな花を見ていると桜乃宮家の三姉妹を思い出す。


 リビングの窓を開けると、冷たい風が部屋に吹き込んだ。全室冷暖房完備の桜乃宮家とは異なり、この部屋にはエアコンがひとつ設置してあるだけ。


 エアコンもない貧しい暮らしをしていた俺が、ここまで這い上がった。


 いや、待て、これも贅沢だったかな。

 僅か、一ケ月で俺も金銭感覚が若干麻痺してしまったようだ。


 資金、礼金、前家賃。中古の家具を数点購入したため、かなりの出費をした。


 明日から、また節約生活だな。


 ◇


 ーー翌日、俺は職場復帰する。

 事務所で社長と麻里に挨拶をする。


「おはようございます。長い間お休みをいただきありがとうございました」


「木村、もう大丈夫か。木村がいなくて大変だったんだよ。なあ、麻里ちゃん」


「はい。社長が営業したんですよ。あまり成果はありませんでしたけど」


「麻里ちゃん、そりゃないよ」


 社長は俺が休んでいた間、営業も兼任していたらしく、麻里に突っ込まれ苦笑いしている。その言葉に奮起したのか、「得意先を回ってくるよ。今日こそは新規獲得だな」と言い残し事務所を出た。


 俺は自分のデスクに視線を向ける。

 麻里が事前に掃除してくれたのか、デスクの上は綺麗に整理整頓されていた。


「太陽、お帰りなさい。もう……傷は痛まない?あの時……私を助けてくれて本当にありがとう。太陽の指示どおり、来月の二十四日は有給休暇にしてあるけど、その他の有給は全部消化したから、今日からガンガン働いてね」


「麻里ちゃん、もうこき使うのか。麻里ちゃんには敵わないな」


 麻里は以前と変わらぬ明るい笑顔を俺に向けた。浩介に傷つけられた心の傷は、月日とともに癒えたようだ。


「太陽……私ね。君島さんと三月に結婚するの」


「そうか、正式に決まったんだ。麻里ちゃんおめでとう。あっ、麻里ちゃんこれ新しい住所なんだ。従業員名簿修正しておいて」


 俺は新しい住所が書かれたメモを渡す。麻里はそのメモに視線を落とした。


「太陽、桜乃宮財閥のお宅を出たの?」


「ああ、お嬢様のお世話は俺の性に合わないからね。ここが一番落ち着くよ。麻里ちゃん、また宜しくね」


「私……三月末で退職するの。君島さんと結婚したら、四国に引っ越すのよ」


「四国?」


「君島さんの祖父母と名乗る人が、突然会社に訪ねてきたの。事件を知り自分の孫ではないかと警察に名乗り出たのよ。娘さんが養護施設に預けた赤ちゃんの行方をずっと捜していたらしく、施設に残っていた遺留品とお守りから祖父母であることが判明したの。お祖父さんはみかん農家をしているらしくて、君島さんのお母さんもすでに亡くなり後継者もなく、君島さんがみかん農家を継ぐ事になったの」


「みかん農家?君島に肉親が現れたのか、それはよかったな」


 まるで、俺みたいだ。

 今更親族だと名乗られても、幼少期に苦労し貧しい暮らしを強いられた君島も複雑な心境だろう。


「大都会は私達には身分不相応だったのよ。事件のことも早く忘れたいから、心機一転人生をやり直すことにしたの」


「そうか、二人で頑張れよな」


「うん。太陽……。今まで本当にありがとう。私……太陽の事、一生忘れないから」


「よせよ。俺の事なんか綺麗サッパリ忘れろ。君島と幸せになれよ」


「……そうだね。忘れるよ。太陽の事は綺麗サッパリ忘れる。だから太陽も私のことは綺麗さっぱり忘れて」


 麻里は涙を浮かべ、俺に笑顔を向けた。

 俺には麻里の笑顔が眩しかった。

 麻里の幸せが眩しかった。


 麻里が笑顔を取り戻せたのは、君島が傍にいてくれたから。







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