lesson 8

蘭子side

45

 その日の夕方、松平さんが屋敷に到着した。

 私は松平さんと顔を合わせたくなくて、部屋にずっと隠っていたが、廊下に響く微かな物音にもビクビクし室内にいても落ち着かない。


 車の走り去る音が聞こえ、暫くして、階段を上る靴音がした。その靴音は私の部屋の前で止まる。


 ドアをノックする音に、私の体はビクンと反応する。緊張から握り締めた掌にじんわりと汗が滲む。


「お嬢様、松平です。ご挨拶に参りました」


 鼓膜に馴染む低音ボイス……

 とても落ち着いた声……。


 どうしてそんなに、落ち着いていられるの。

 私はこんなにも動揺しているのに。


「……どう……ぞ。入りなさい」


 直ぐさまドアが開いたが、彼の顔を正視出来ず背を向ける。


「お嬢様、お久しぶりです。わたくしのようなものにまたお声を掛けていただき、恐縮至極に存じます。本日より執事としてお世話になります。宜しくお願い申し上げます」


「……これは菊さんの決めた事。私の本意ではないわ。勘違いしないで」


「存じております。先日の強盗事件、テレビでニュースを拝見致しました。腕に軽症を負われたとか、お怪我はもう大丈夫ですか?」


 松平さんの優しい言葉に胸が詰まる。

 動揺している姿を見られたくなくて、私は背を向けたまま話を続ける。


「……心配しなくても大丈夫です。マスコミが大袈裟なだけ。たいしたことはなくてよ」


「お嬢様……」


 松平さんの靴音が近づく。

 一歩ずつ近付く靴音に、胸が張り裂けそうだ。


「それ以上、近づかないで。私はどんなことがあろうと平気なの。お母様が私を捨てた時も、お父様が亡くなった時も、あなたが……この屋敷から出て行った時も、私は困りはしなかった」


「お嬢様……」


 松平さんの足が止まる。

 感情が昂ぶり、堪えていた涙が溢れ出す。


「それなのに、どうして平然とここに戻って来るのよ!何で戻って来るのよ!私はあなたなんか必要ないのに!」


「……蘭子」


「……こないで。部屋から出て行って。私に執事は必要ありません。どうしてもこの桜乃宮家で仕えたいのなら、百合子や向日葵の執事になればいいわ」


「……お嬢様。……退職後も、わたくしはずっと蘭子お嬢様の事だけを考えておりました。強盗事件をテレビのニュースで知り、いてもたってもいられなくなり、柿麿様に連絡しました。わたくしは蘭子お嬢様のお側にお仕えしたい。……生涯、あなたをお守りしたい」


「……やめて下さい。迷惑だわ」


 背後から強く抱き締められた。


 背中に感じる厚い胸板。

 私の体を包み込む逞しい腕。

 全身を包み込む懐かしい……ぬくもり。


「……松平、下がりなさい」


 本当は……

 このままずっと……抱き締めていて欲しいのに……。


 素直でない私は、心にもない事を口走る。


 私と松平さんは、桜乃宮財閥創業家の娘と執事。

 私達が愛し合うことは、桜乃宮家の親族や財閥関係者に、決して認められるはずはない。


「蘭子……」


「下がりなさいと言ってるのに、私の命令が聞けないの。私には……結婚前提で交際している人がいるの。二年前と今では状況が違うのよ」


「……結婚前提で交際?どちらの御曹司ですか?」


「……それは」


 結婚前提で交際している人なんていない。

 これは口からの出任せだ。


 松平さんはお父様の元執事。

 政財界や大企業の御曹司は、全て脳内に記憶されている。


 嘘の名前を上げたところで、すぐにわかってしまう。困惑している私。思わず言葉を濁す。


「……それは」


 ーーその時、ノックもせず部屋のドアが開いた。


「蘭子さん、この間、俺の部屋にイヤリング落としてましたよ。おっと、これは……失礼致しました」


 ドアを開けたのは、木村太陽。

 木村さんの右手には私のイヤリング。ダイヤのついた高価なイヤリングを、右手の指で摘まみ振り子のようにブラブラさせながら、木村さんは部屋の入り口に突っ立っている。


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