百合子side
20
朝から調子が狂う。
アイツの顔を見ると、気分を害し苛立つ。
木村太陽、一体何者なの?
菊さんが家賃さえ受け取っていなければ、初日に追い出せたのに。
蘭子姉さんと平気でキスをしたり、ヘラヘラしているかと思えばいきなり偉そうに。私をフランスパンに喩え感情を逆なでし、最後にあんなオチをつけるなんて。
巧みな話術に、私は騙されたりしない。
そう思っていたのに……。
不思議なんだ。
アイツの澄んだ瞳に見つめられ、一瞬言葉を失った。
不覚にも、トクンと鼓動が音を鳴らす。
あの瞳……
何処かで見たような……。
木村太陽……
誰かに……似てる?
そんなわけない。
こんな無作法なヤツ、今まで一度も逢ったことないし知らないよ。
私達は誰もが羨む桜乃宮財閥の令嬢だ。
居候のくせに、家政夫のくせに、態度がデカイんだよ。
気分を害し、ダイニングルームから立ち去ろうとした時……
「向日葵さん、どうぞ召し上がれ」
アイツは凝りもせず向日葵の前に、フレンチトーストの器を置いた。
器には苺とバニラアイスを添えデコレーションし、まるでシェフ気取りだ。
器の可愛らしさに視覚を刺激され、思わずフレンチトーストに視線が向く。
甘いスイーツはあまり好んで食べないが、空腹の胃袋が意に反して反応する。
「百合子さんも椅子に座りませんか?朝食を抜くと体によくないですよ。美肌を保ちたいなら、栄養バランスの取れた朝食を摂取するべきです。苛々するのは、カルシウム不足かな。それとも最近恋をしてないのかな」
「フンッ」
アイツに恋をしていないと言われ、私はプイッとそっぽを向く。
何故なら、図星だったからだ。
でも、ひとつだけ間違えている。
恋をしていないから苛々しているわけじゃない。私を苛つかせているのが、自分だってことわかんないのかな。
アイツはそんな私を見て、余裕の笑みを浮かべた。今まで見たこともないくらい、憎らしい笑みだ。
向日葵は目の前に置かれたフレンチトーストを、フォークとナイフで丁寧に切り分け小さな口に運んだ。
お父様の死後、感情を心に封じ込め、笑顔を無くした向日葵が視線をゆっくり上げアイツを見つめた。
「……とても美味しいです」
向日葵の瞳の奥に一筋の光が戻る。
あの無表情だった向日葵が、瞳を輝かせ口元に優しい笑みを浮かべた。
向日葵が……
笑った?
まさか……
目の錯覚だよね?
笑ったように見えただけ。
私の勘違いに過ぎない。
私は蘭子姉さんに同意を求める。
蘭子姉さんも驚きのあまり、私に目で同意を求めてる。
菊さんは満足そうに微笑みながら、アイツと向日葵を見ていた。呆然としている私の背中を押し戻し、着席するように促す。
「百合子さんも立ってないでお座りなさい」
向日葵は幸せそうに目を輝かせ、フレンチトーストを食べ続けた。頑なに心を閉ざしていた向日葵が、わずか二日でアイツに気を許すなんて……。
私達がどんなに優しく接しても笑わなかったのに。私達への当てつけなの?
私は……
アイツに騙されたりしない。
アイツに私達の気持ちなんて、わかるはずがないんだから。
「はい、蘭子さんも百合子さんも召し上がれ」
いらないと言ったのに、アイツは私と蘭子姉さんにもフレンチトーストを差し出した。
「こんなもの、いらない」
フンと顔を背けお皿を遠ざけたと同時に、お腹の虫がキューッと鳴る。
「こ、これは条件反射であって、あなたのフレンチトーストを食べたいからじゃないわ」
アイツは勝ち誇ったように、意地悪な笑みを浮かべた。
「俺は何も言ってませんよ」
「庶民の食べ物は、私達の口には合わないのよ」
「フレンチトーストが庶民の食べ物ですか?だったら社会勉強の為に一口いかがですか?夜は一流ホテルのシェフのお料理ばかり、シンプルな家庭の味もたまにはいいでしょう」
「社会勉強……。そこまで言うのなら仕方がないわね。一口だけ食べてあげるわ」
向日葵があまりにも美味しそうに食べているから、どんな味がするのかちょっと興味があった。
でもアイツの手料理だ。
絶対、口に合うはずはない。
私の好きな味は……
母の作るフレンチトースト。
資産家令嬢の母を持つ蘭子姉さんとは異なり、幼少期は貧しい家庭で育った私。社会勉強なんて今更必要はない。
母が銀座のホステスをしてた時、私は狭いアパートの一室で、一人でカップラーメンを啜って空腹を凌いでいた。
フレンチトーストは母が休日の朝に、いつも作ってくれた。だから、庶民の味なんかじゃない。私には特別な朝に食べる、スペシャルメニューだった。
アイツの作ったフレンチトーストを一切れ口に入れる。甘さを控えた優しいが口の中にふわっと広がる。
美味しい……。
隣に視線を向けると、蘭子姉さんはフレンチトーストを食してはいない。目の前に置かれたフレンチトーストを無視し、珈琲を飲んでいる。
断固拒否の態度を崩さない蘭子姉さんを目の当たりにし、私も一口でフォークを置く。
「百合子さん、如何ですか?」
「下げて。こんなもの口に合わないわ」
本当は……すごく美味しかった。
母のフレンチトーストと同じ味がした。
だけど、向日葵みたいに素直になれなかった。『美味しい』と認めることで、アイツに負けた気がして、素直になれなかった……。
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