lesson 4

蘭子side

16

 ーーいたたっ……。


 全身が二日酔いのような不快感。頭がずしりと重く、時折鐘を突くようにガンガンと痛む。


 重い瞼を開くと、自分のベッドの中だった。

 でも、ネグリジェではなく洋服のままだ。


「……また飲みすぎたかな?」


 昨夜仕事を終えた私は、一人で銀座のバーに行きカクテルとウィスキーを数杯飲んだ。


 それから……

 迎えの車を呼び、帰宅したことは覚えている。

 帰宅後、飲み足りなくてリビングでワインを二本空けた。リビングで飲むお酒は、自宅という安堵感から深酒になる。


 その先のことは……覚えていない。


 フランス製の置き時計に視線を向けると、深夜二時。

 自分で部屋に戻った記憶も、誰かに介抱された記憶もない。あるのは妹の前で醜態を晒したのではないかという羞恥心。


「……最悪かも」


 ベッドから起き上がり、室内にある化粧ルームに入る。この屋敷の各個室はホテルのスイートルームのように広さも十分あり、トイレも浴室も化粧ルームも完備している。


 まだ若干お酒は残っているが、メイクを落とし浴室でシャワーを浴びる。


 重い殻を脱ぎ捨てた脱力感……。

 この部屋にいる時だけ、私が私に戻れる。


 鏡に映る私。唇に残る違和感。

 その微かな感触を確かめるために、唇に指を這わせた。


 私……

 誰かとキスを……?


 無くした記憶を手繰り寄せるが、やはり何も思い出せない。


 ーーお父様が亡くなり二年、様々な重圧に押し潰されそうな自分を解放する為に、毎晩のようにお酒を飲んだ。


 酔っている時だけ……

 自分が桜乃宮財閥創業家の長女ではなく、一人の女性に戻れるから。


 桜乃宮財閥、現在桜乃宮グループの傘下は拡大し、グループ企業はありとあらゆる分野に広がっている。主なものは金融、石油、通信、金属、自動車、等々。


 若輩者の私に、グループ企業の逆風は根強いが、『三人の娘に桜乃宮財閥を託する』というお父様の遺言により、現在は第一後継者として会長に就任した。


 だけど、桜乃宮財閥を継ぐ正当な後継者は、実子である向日葵ただ一人だ。


 向日葵が大学を卒業したあかつきには、由緒ある家柄のご子息と結婚させ、自分は会長を退き向日葵を桜乃宮財閥の後継者として、会長に任命するつもりだ。


 お父様も、そのつもりで向日葵を引き取ったはず。


 それまでは、私が頑張るから……。


 ねぇお父様……

 それでいいのでしょう。


 ふと、幼き日の光景が……脳裏に蘇る。


 ◇◇


 ーー十五年前ーー


『蘭子。蘭子はお母様と一緒に行ってもいいんだよ』


『いやだ。蘭子はいかない。蘭子はお父様がいい』


 お父様にしがみつき離れない私を、母は冷やかな眼差しで見つめ、残酷な言葉を吐き捨てた。


『蘭子、あなたは生まれるべきではなかったのよ。あなたのせいで、私の人生は閉ざされた。恨むならお父様を恨みなさい』


 母の言葉は十歳の私にはショックだった。でも不思議と涙は出なかった。何故なら、今まで母の愛情を感じたことは一度もなかったからだ。私は母ではなく乳母に育てられた。


 資産家令嬢だった母は、許されない恋をし私を身篭もったまま政略結婚で桜乃宮家に嫁いだ。お父様は母の胎内に宿る私を承知で結婚し、我が子として育てると約束した。


 気位が高く、生まれた我が子を抱くことも授乳することもしなかった母。家庭の温もりはお父様が全て与えてくれた。


 だから……

 私は実母よりお父様を選んだ。


 両親が離婚し、暫くして一組の親子が屋敷に越してきた。母を追い出した女性とその娘だった。私にとって憎むべき相手だったが、何故か憎めなかった。


『はじめまして、蘭子ちゃん。宜しくお願いします』


『こんにちわ。百合子です。宜しくお願いします』


 お父様の再婚相手は、派手で我が儘な母とは対照的な、清楚で控えめな優しい女性だった。その女性の傍らには元気で人懐こい女の子がいた。


 私の義母となる百合子の母親、桃花ももかさんと幼い百合子だった。


 桃花さんは、実母以上に私に愛情を注いでくれた。

 でも私は素直に甘えることは出来なかった。桃花さんには百合子がいる。甘えていいのは百合子だけ。

 幼な心に母に捨てられた寂しさが募った。


 ◇◇


 複雑な家庭。

 世間から見れば、セレブで何不自由ない暮らし。


 お父様の死後、三人の心は殺伐とし決して満たされる事はなかった。


 それでも私達は桜乃宮創士の娘であることを誇りに、桜乃宮財閥の名を汚さぬように生きてきた。両親がいなくても、私達は立派に成長し、桜乃宮財閥を担うことが出来るのだと、財閥関係者やグループ企業に虚勢を張って生きてきた。


 ーー幼くして、学んだのだ。


 人は……裏切る。


 血を分けた親も……子を裏切る。


 愛とは、幻に過ぎない。


 結婚とは、子孫を残すための契約に過ぎないと……。

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