14

 急に蘭子の唇が離れ、次の瞬間、顔面に衝撃が走る。

 バシッという音がし、ベシャと水飛沫が飛ぶ。


「い、いてて……」


 何が起きたのか把握出来ず目を見開くと、そこにはモップを振り上げた菊さんが凄い形相で立っていた。


「……き……菊さんっ、違うんだ。これはその……」


 必死で言い訳をする俺に、菊さんは薄気味悪い笑みを浮かべた。


「木村さん、お仕事ですよ」


「あ、はいはい……」


 ズボンからはみ出したカッターシャツを、ズボンの中に押し込みながら、俺はベッドから飛び降りる。蘭子はクリスマスの夜同様、フローリングの床に転がり爆睡している。


「蘭子さん、蘭子さん」


 菊さんに体を揺すられても、蘭子は動じず眠ったままだ。


「木村さん、お嬢様のお世話までは頼んでませんよ」


「……すみません。帰宅したら蘭子さんが俺のベッドに……。蘭子さんって、毎晩泥酔してるんですか?お言葉ですが、酒癖悪いですよね」


「色々お仕事でストレスが溜まってるのよ。重責から現実逃避したくなる気持ちも分からなくもないわ。まだ若いのに桜乃宮財閥の頂点に立っているのだから。だけど、あなたが酔っぱらいの誘惑に、いとも簡単に落ちるなんてねぇ……。蚊取り線香で落ちる蚊よりも瞬殺だなんて、想定外だったわ。もっと理性のある方だと思っていました」


 菊さんが横目で俺をチラッと見た。

『オラオラ』といわんばかりに、俺の鼻先を濡れたモップでつつく。


「木村さんって、タワシ?」


「タワシ?」


 モップの次は、タワシ?

 なんのことだ?


「オンナタワシかと聞いてるのよ。今風に言えばチャラ男かしら?簡単にそういうことするの?」


「それを言うなら、オンナタラシですよ。それに、俺は女たらしでもチャラ男でもありません。俺が蘭子さんに押し倒されたんです」


 本当は、女たらしを否定できない。一夜の恋人は掃いて捨てるほどいる。

 それに蘭子は美人だしスタイル抜群、豊満な肉体を目の前に晒されたら、男なら誰でも食いつくさ。


「今回の件は不慮の事故って事で執行猶予にするわ。蘭子さんをお部屋に連れて行ってちょうだい。そのあとでいいから、お屋敷のお掃除をお願いしますね」


「はい……」


 不慮の事故に、執行猶予?俺は被害者なんだけど。


 菊さんに指示され、仕方なく蘭子を背中におぶり二階の部屋に連れて行く。

 蘭子の部屋のドアノブを掴むとほぼ同時に、隣室のドアが開き百合子と目が合う。


「やだ、また蘭子姉さんあなたの部屋に忍び込んだの?」


「はい……」


 百合子が蘭子のはだけた胸元に視線を落とし、呆れたように俺を見た。


「まさか……ヤってないでしょうね?」


「ヤってねーよ」


「本当かな。怪しいものね」


 百合子は横目で俺を睨む。まるで俺の心を読み解くかのような鋭い眼差しだ。


「俺はヤってません!俺が蘭子さんに襲われたんだよ」


「まあどっちでもいいけど。この家を引っ掻き回すことだけは止めてよね」


「引っ掻き回す?俺は何もしてねーだろ。俺は被害者だよ」


「被害者ねぇ。被害者なんだか、加害者なんだか、わかったものじゃないわ。どうせキス魔の蘭子姉さんにされるがままだったんでしょう。そもそもこの屋敷に住み込むなんて、下心ありありなんだから。

 ひとつだけ忠告しておくけど、例え蘭子姉さんと何か間違いがあったとしても、それは泥酔した上でのこと。大人のお遊びだから勘違いしないでよね」


「勘違い?」


 俺は蘭子を背負ったまま、百合子に視線を向ける。


「はっきり言わないとわからない?あなたと蘭子姉さんが一線を越えたとしても、恋愛とか結婚とかに発展する可能性はゼロだから。財産目当てで恋仲になっても無理だからね」


 百合子の言葉に、内心ドキッとした。

 俺の心に潜む悪魔がもくろむ悪事を、百合子に見透かされた気がした。


「……財産目当て?何言ってんだか」


「ほら、動揺してる。私達に近づく男は、みんな桜乃宮財閥の財産目当て。愛してないのに、馬鹿のひとつ覚えみたいに、みんな『愛してる』って囁くのよ。街灯に群がる夜光虫みたいに、みんな桜乃宮財閥の財力に群がる害虫なんだよ」


「そういう百合子さんも、桜乃宮財閥の財力に物言わせて、のうのうと生きてんじゃねぇの。自分は無力なのに、親の残した財力と親が築き上げた富や名声に胡坐掻いてるだけだろう。何不自由ない環境で育ったくせに、他人のことをとやかく言えないだろう」


「私達のこと何も知らないくせに。アンタみたいな庶民には何もわかんないんだよ。両親を同時に亡くした悲しみや辛さなんて、わかんないくせに!」


「両親を同時に亡くした悲しみ?……わかってるよ。百合子さんよりよっぽどわかってる。金に苦労した事もねぇお嬢様が、偉そうにほざくな」


 俺は百合子に背中を向け、蘭子の部屋に入る。三十畳以上ある広い部屋。豪華な家具や絵画に囲まれてはいるが、器ばかりが目立ち、ここで暮らす者の気配が感じられず、虚しさすら感じる。


 蘭子はきっと……孤独なんだ。

 誰にも悩みを打ち明けられず、弱いくせに虚勢を張って生きている。


 酒に溺れた時だけが、自分を解放できる唯一の時間。


 広い室内の中央に置かれたキングサイズのベッドに、蘭子を寝かせ布団を掛ける。


 蘭子が囈言のように……呟いた。


「……お父様」


 閉じられた瞼から、一筋の涙が零れ落ちた。



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