2、椅子に座る男


 椅子に座る男。

 シンプルなタイトルが、シンプルな白い長四角のプレートに書き込まれ、豪勢な額縁の下に鎮座している。

「本当、座っているだけね」

 そんな感想をぽつりと漏らしたのは、私と手をつなぐ9歳の姪。來未の、少女らしい小鳥の様なソプラノボイスだった。

「彼が好んだ題材だ」

 私が応えると、來未は首をかしげる。

「どうして好きってわかるの?」

「これから分かるよ」

 來未の手を引いて、業者が2、3人で絵を運んでいる、開催前の展示室を歩く。姪っ子は興味深そうにあたりを見回しては、ふんふんと可愛らしく頷き、もっともらしく私に言った。

「確かに、この人、椅子に座る男が大好きなのね」

「そうだよ。彼はそれで、有名になったんだ」

「そればっかり描くから?」

「理由の一つは、それだね」

 こげ茶の奥深い目をぱちぱちとさせて、來未は一つの絵の前で立ち止まった。その絵は、会場の中で浮いていた。

 金髪、もしくは白髪。ともかく、色素の薄い色の髪をした男だった。

 着ているのは、黒のタキシード。蝶ネクタイに、白いシャツ。神経質そうで、しかし何かを問いかけるまっすぐな目。その男は、椅子の後ろに立っている。

 男は椅子に、腰かけていない。

 なんの変哲もない木製の椅子の後ろに、静かに立っている。

「この人、座ってないわね」

 とてつもない発見をしたように、來未はどこか興奮して、私の手を引いた。

「ああ、この絵は、彼の作品の中でも有名なんだ」

「座っていないから?」

「その通り。……椅子と、男の絵を、山のように描いた彼は、ほんの数点だけ椅子と男の絵を描いている」

 謎かけのようになってしまった私の言葉を、聡明な來未はすぐさま理解してくれた。へぇ、と声を上げて、

「そのいくつか以外は、みんな、椅子に座っているのね!」

 面白そうに言った。

 全くもってその通りで、この展示会の主題たる男は、椅子に腰かけた男ばかりを描いた。描いて、描いて、描き続けて、気が付けば見事な西洋画家として、日本の画壇に華々しく登場した。

 その華々しいも、月下美人に負けず劣らずの早さだったが。

 男は、気が付けば、転落の一途をたどり、今はどこかの刑務所にいる。その刑務所の中でなお男が、一心不乱に描いた作品。人が評価されずとも、絵だけが評価された結果、今回の展示会が開かれた。

 男は、そのことを知らないだろう。

 つい先日、とうとう、死刑執行が為されたから。

 最終日にはオークションが開かれ、売り上げはすべて寄付に回る。

「ねえ叔父様」

 気取った調子で、來未が言う。外出先で私のことを、叔父様、と呼ぶのが最近のブームらしい。

 おじちゃん、という舌足らずな響きも可愛らしいが、このませた様子も可愛らしかった。

「うん」

「この人、悲しいように見える顔をしているわね」

 來未はじーっと絵を見つめて、そしてちょこり、と首を傾げた。

「それとも、怖いのかしら」

「どうしてそう思ったんだい」

「……私ね、怖い話とか、テレビでやってると、そこを見ていないと落ち着かないの」

 怖いものをじっと見つめる、のは、それが自分に何をしてくるものか見極めるため。或いは、視線を外した直後を恐れるためだ。

 恐れの気持ちは子供のほうが強かろう、大人はただ、”にぶちん”になっているだけだろうが。

「だから、怖い?」

「この絵の人、は、ううん。作者さんのこと、椅子に座ってたりしてる方々は、みんな怖がっていたんじゃないかしら」

 來未に見上げられ、私はうん、と小さく頷いた。來未は私の手を、しっかりと握りしめる。そしてその利発そうな顔立ちに驚きを乗せて、叔父様、と声を上げて、慌ててポシェットへ手を入れた。

 握られていたのは、ピンクのハンドタオルだ。

「叔父様、ほら、これを使って」

「……ありがとう、來未」

 それから。

 それから私は、目から落ちる涙を來未のハンドタオルで拭きながら、搬入作業をベンチに腰かけて來未と一緒に眺めることにした。來未は私のことを思いやるように、じっと手をつないでくれている。心優しい子に育ったものだ、あの兄の子なのだから、当然なのだが。

 その兄が、來未を迎えに来た。にっこりと笑い、パパ! 、と元気に飛びつく來未を抱き上げる。

 私はその姿を、とても誇らしくおもいながら見上げた。

「大加瀬イサクの作品がこんなに並ぶのも、これきりだろうなぁ」

 そう言った兄に、うん、と頷く。

「前評判、かなり良いぞ。特に若い世代に人気で、前売り券もだいぶ売れてる。流石だな」

「大げさだよ、兄さん」

「そうでもないだろう。しかしどこにそんなつてがあったんだ? お前が、名うての美術商だってのは、その、よく理解しているけれど」

 不思議そうな兄に、秘密だ、と唇を押さえてみせる。

「何、そう、複雑でもないさ」

「そうかぁ? 世間を騒がせた幻の画家、そして誘拐と監禁という罪にまみれた犯罪者。それもあって、今でも好事家は高嶺で買取するんだぞ。その一大オークションだ、海外からも問い合わせが殺到している」

 來未と兄が、手をつなぐ。私は楽し気にそれを眺めて、やはり秘密だから、とくすくすと笑った。

 兄は私が答える気がない、と気づいてくれたらしい。まあいいさ、と肩をすくめて、言う。

「昼飯の用意ができてるんだ。搬入作業も一通り終わったし、明日に向けて腹ごしらえしようじゃないか」

 いい匂いが、確かにしてきていた。あとは細かいところを、午後に詰めればいいだろう。運び入れていた業者に、声をかける。

「皆さん、昼食を用意しましたから、休憩入れましょうか」

 嬉しそうな声が返ってきて、ぞろぞろと、においのほうへ向かう。ミートソース、チーズ。パンの焼ける香ばしさ、パセリのさわやかな風味。コーヒー、紅茶に、來未のための安直なオレンジジュース。

 私は席に着く、來未が飛びつくように隣に来たので、椅子に座らせてやった。

 ある程度のものが集まったところで、兄が言う。

「それじゃあ、展示会の成功と、一端の用意完了を祝って……我が弟に……乾杯の音頭を取ってもらいましょうか」

 立ち上がらされて、私は思わず兄を困ったような睨み方をした。兄は笑っていて、私は許すほかない。

 私は椅子の前に、経っている。

 私はこれから、椅子に、座る。

 そう。

 椅子の男は、私だ。

 天国でもきっと、私を眺めているだろう男のことをふと考えて、私は來未の頭を撫でる。私は、男に拉致されて、椅子に座らされ監禁された。それが何の目的だったのかは、今も分からない。わからないからこそ、あらゆる手を使い、私は男を死刑に追い込んだ。

 その間も、男から、手紙の代わりに送られてきたのが、この絵だった。

 椅子に座る男。

 それが、彼の、唯一の表現方法だったのだろう。ただの一度、まじまじと見ることとなった、私という人間を通した彼の叫び。だからこそ、人々は、彼の絵を讃えたのだ。

「それでは、大加瀬イサク展の成功を願って」

 大加瀬イサク。それが、彼の名だ。

 大加瀬遺作展。それが、展示会の名の、意味だ。

 私は椅子に、座っている。真実に蓋をするために。今日の昼食を、取るために。

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