3

 帰省シーズンの終盤、恭介は新潟駅の新幹線の乗り場に向かっていた。やはり上りのホームは混んでいた。彼はひょっとしたらという思いで、周りをキョロキョロした。しかし、真理子の姿はなかった。

 新幹線に乗ると、携帯電話を取り出して、真理子にメールを打った。

『こんにちは。まだ帰省中ですか? ぼくは今、東京に戻るところです。地元では海に行ったりして、リフレッシュしてきました。この前話したゴダールナイトですが、映画は23時からなので、映画の前に食事しませんか? 場所は、映画館が渋谷なので、渋谷でどうですか?』

 恭介は何度か書いたり消したりして、新幹線出発間際にようやくできた文面をメール送信した。

 返信が来るまでに、送信後三〇分もかからなかった。

『こんにちは(^^)わたしはもう東京ですよ。海ですか。いいですね。日焼けしたかな? ぜひ映画の前に食事しましょう』

 恭介はその返信に思わずニヤけた。真理子とのデートという近未来がはっきりと見えた瞬間だった。恭介がメールでお酒が飲めるかどうか、何かリクエストはないかと訊くと、お酒は日本酒以外ならOKで、特に苦手なものはないが、あまり高くない店でお願いします、という返信が今度は十分かそこらで返ってきた。

 恭介はここまでスムーズにメールが返ってくることが嬉しくて、ますます彼女とメールしたいと思った。そこでどうせ暇だからという理由で、普段しないことだったが、メールでトークを試みた。

『了解。明日までに店を決めてメールします。ところで、真理子さんは夏休みに旅行とかレジャーとか行かないの?』

『いや~、行かないですね。わたしはバイト三昧ですね。今はカラオケボックスでバイトしてるんですけど、結構忙しいです(ToT)』

 真理子からのメールはこれまでよりも遅かった。返信が来るまで一時間くらいかかった。

『そうなんだ。ぼくも書店でバイトしてるよ。そこまで忙しくはないけどね』

 新幹線が東京駅に着く頃だったのと、返信が予想したテンポではなかったので、もう疑問文を送らなかった。しかし、真理子からの一連の返信は、最高に近いものであり、恭介が再会に希望を抱くのに十分だった。最初のメールの返信がまだないという可能性もあったのだ。その場合でも、まだ希望を維持できただろうが、明らかに一時間前よりも希望は縮小しているだろう。そして、返信がないままさらに二四時間経てば、ジリジリとした焦燥感とともに希望はますます小さくなり、絶望が見えてくるだろう。

 恭介はそんなことを思いながら、新幹線を降りて、乗り換えの電車へと向かった。


   *


 暦はお盆を過ぎていたが、渋谷は相変わらず暑かった。

 恭介はモヤイ像前で真理子を待っていた。土曜の夜の渋谷には、肌を露出した若い女が目についた。

(渋谷ほどセックスに満ちた街はないのではないだろうか? ホテル街もあれば、性風俗店もあり、またデートスポットも充実している。まさに性欲の吸収体ような街だ)

 そして、ぼくもまたそんな性欲にまみれた男なのだ、と恭介は思った。ゴダールの映画という文化的なイベントが名目であっても、最終的に目指しているのはセックスだったりする。恭介は、ストリートミュージシャンの演奏を聞くともなく聞きながら、今夜のこれからの時間に漠とした期待を寄せていた。

 時間になり、携帯電話を開いて、真理子からのメールを確認しようとしていたときに、「こんばんは」と声をかけられた。黒のタイトなパンツに白地に黒のドットプリントのブラウス、足元はローテクスニーカーというシックな装いだった。真理子のキュートな笑顔に恭介は一瞬言葉を忘れた。

「……ああ、どうも。こんばんは。決まってるね。その格好。オシャレだけど、何と言うか……ロックテイストがあっていいね」

「フフ、『ロックテイスト』か。そう言われるとは思わなかったよ」

 恭介は真理子と並んで街を歩きながら、先日見た映画『出発』の中で街を歩くジャン=ピエール・レオとヒロインの女の子に自分たちをなぞらえていた。自分たちが結ばれるという予感は、ますます強まっていた。

「あ、ここだよ」

 恭介は予め決めておいた店の前で言った。そこは道玄坂の上にあるこじんまりとしたイタリアンバルだった。

 店に入ると、威勢の良い若い女性の店員に空いているテラス席に案内された。空調は効いてなかったが、風があったので、問題なかった。また、夜の街の動きを楽しめるところは店内の席にはないメリットだった。テーブルの上のキャンドルも趣を添えていた。

「雰囲気いいね」

 真理子は席に着くと言った。

「うん。実はこの店、来るのは初めてなんだけど、当たりだったようだね。まあ、まだ料理はわからないけど」

「こういう店はたいてい料理も美味しいよ」

 真理子はそう言うと、店の奥を見やった。

 まずはドリンクを注文し(二人とも生ビールだった)、乾杯した。最初に話題を振ったのは真理子のほうだった。

「帰省はどうだった?」

「帰省は……いつも通りというか。地元の友達と飲んだり、海に行ったり」

「佐渡の海、いいよね。わたし子どもの頃、一度行ったことあるんだ。二ツ亀だっけ。水、キレイだよね」

「そう、二ツ亀だよ。ぼくも子どもの頃、行ったことある。実家は南部のほうだから、普段はあの辺までは行かないんだ。南部は言うなれば、裏佐渡的な地域かな。一番開けてるのは佐和田さわたという北西部の地域なんだけど、そこから南部までは結構距離あるしね。山も越えなくてはならないし。観光資源も地元にはあまりないかな」

「へぇ~、南部か。その辺は行ったことないな」

「隣町の小木おぎは割りと観光資源があるんだけどね。たらい舟とか。でも、地元には海水浴場になっている砂浜がある。そこで泳いだよ」

「その割には焼けてないね」

「ああ、日焼け止めが仕事してくれたからね」

「なるほど……」

「日焼けはしないほうがいいよ。紫外線浴びていいことないし」

「うん。そうね。恭介くんは、色白だからなおさらそうよね」

「真理子さんも色白だよね。帰省はどうだったの?」

「わたしも恭介くんと似たような感じだよ。海には行かなかったけど。わたしの地元は下越の五泉ごせん市というところなんだ。まあ、典型的な田舎なんだけど。車で三〇分くらいのところに泳げる川があって、子どもの頃は、そこで泳いだよ」

「泳げる川か。それはいいね。佐渡にはないかな。地元、田舎なんだ。でも、新潟市に近いから佐渡とは違うか。ぼくの地元から新潟に行くのは一苦労だよ。まず港まで車で四〇分くらいかかるし。そこから船でさらに二時間半だからね。高速船に乗れば一時間だけど、料金が倍以上するからめったに使わないんだ」

「でも、佐渡は観光地だからいいじゃない。わたしの地元なんかよりはずっと有名だし」

「それは住んでいるときは意識しなかったな。でも、観光産業も衰退しているし、何も自慢できることはないと思うよ。まあ、それよりもぼくは新潟に近いほうがメリットだと思うけど。子どもの頃は新潟は都会のイメージがあって、新潟に行くたびにワクワクしたものだよ」

「確かに東京を知るまでは一番の都会だったな。じゃあ、恭介くんは都会派なんだ」

「う~ん、まあ、田舎の若者の大半は東京とか都会に出たがるよ。もうこっちに移住してから三年目だけど……、今ではある程度は楽しめてるかな。まあ、映画好きにはやっぱり東京は良いよね。……何か料理、注文しようか?」

 二人でメニューを検討して、生ハムとルッコラのサラダと茄子のアラビアータソースペンネを注文した。

「真理子さんは、東京での暮らし、どう思う?」

「……そうね。わたしも恭介くんと同じで、東京への憧れから上京した人なんだけど、実際、住んでみて、いろいろと楽しいこともあるけど、人が多すぎるのがストレスかな。あと、電車で移動しなきゃならないもの不便だよね。でも、地元に帰りたいとは思わないけど。わたしも今は東京のほうがいいかな。将来は田舎が良くなるかもしれないけど」

「せっかくこっちにいるんだから、夜遊び行きたいよね」

「夜遊び好きなの?」

「この前、初めてクラブ行ったよ。青山にあるクラブなんだけど、……あまり踊れなかった。何か気恥ずかしくて」

「音楽はどんな感じ? 混んでた?」

「音楽は、踊れる感じ。当然だけど。ダンスクラシックスというのかな。人は多かったよ。年齢層は、ぼくらよりも高め。二〇代後半くらい。今度行く?」

「そうだね。行ってみたいな」

 恭介はあまりにスムーズなOKにもう付き合える気になって、顔がニヤけてきた。今日、キスとかできるんじゃないだろうか、という気になった。

「暑いね」

 真理子はそう言うと、ブラウスの首元でリボンの形に結ばれたボウタイを緩めた。タイがだらりと垂れ、胸元が露わになった。露出した肌は、真理子の雰囲気をガラリと変えた。彼女の女としての面が香水の香りのように漂ってきた。それは、摂取したアルコールとキャンドルの灯りと相まって、よりいっそう恭介の脳髄を刺激した。

「鎖骨、セクシーだね」

「フフ、ありがとう。そんなこと言ってくれるの恭介くんだけだよ」

「それは信じられないな。絶対、モテそうだし」

「またまた……」

 真理子は自分をまともに見た。恭介は言葉を待ったが、彼女は次の瞬間眉をひそめた。

「……どうかした?」

「ううん。何でもない。次、何飲む?」

 彼女はそう言って笑顔を見せた。


 二人は十分に飲食した後、ゴダールナイトのために円山町にある映画館に向かった。恭介はホテル街を歩きながら、自分たちがこれからセックスをするか、すでにしたカップルとして見られることを意識した。お互いに無言だった。恭介は今夜ホテルに行けるような気がしたので、これから映画を見に行くのは、あまり魅力的な展開ではないように思えた。シネフィルを自認している恭介としては、そうしたセックスへの傾倒は、堕落であり、アイデンティティを脅かすものだったので、予定変更するわけには行かなかった。しかし、真理子の身体が気になって仕方がなかった。

 暑さがセックスへの傾倒を鼓舞しているのだ、と恭介は弁明を考えた。夏は人が一年で最も発情する季節だ。文化的なイベントとは反りが合わない。そんなことを考えていたとき、ポロシャツの裾が引っ張られるのを感じた。

「映画だけど、今度にしない?」

 恭介が振り向くと、真理子は言った。一瞬、恭介はその意味することがわからなかったが、真理子の視線がホテルの電光看板に動いたことでようやくその意味を理解した。

「う、うん。そうだね。そうしよう。ぼくも同じこと考えてた」

 恭介は声を上ずらせて、そう言うと、真理子の手をとった。湿った掌の感触を通して、彼女の身体にもっと触れたいという欲望が堰を切ったように高まった。


 ホテル「エーゲ海」の饐えた匂いのする狭い部屋で、恭介はベッドに座って、真理子がシャワーから出てくるのを待った。恭介は初めてのこの展開に落ち着かなかった。テレビを付けると、バラエティ番組をやっていた。そこでは女性グループのSPEEDがポケモンの歌を披露していた。家のテレビならそのまま見ていただろうが、ラブホのテレビには別のチャンネルがあった。アダルトチャンネルではセックスの最中で、有名なAV女優が騎乗位で腰を振っていた。真理子と会っていなければ、今頃こういうビデオを見てオナニーしていてもおかしくなかった。これから自分がこれと同じことをすることにまだ実感がわかなかった。

 真理子が体にバスタオルを巻いてシャワーから出てきた。恭介はバスタオルから覗く太ももを食い入るように見つめた。真理子は「見過ぎ」と言って、笑った。恭介は「ごめん」と謝ると、熱くなった股間を押さえて、入れ替わりにバスルームに入った。


 AVで日常的に見ているセックスだったが、いざ自分がやる段になると、恭介は行為に不慣れであることを強く意識した。似たような行為は、ピンサロで経験済みだったが、それとは別ものだと改めて感じた。挿入がないことを除き、確かにある程度は同じ行為をするが、相手との関係性がそれらの行為をまったく異なるものにしていた。風俗嬢との行為は、キスであれ、フェラであれ、単なる物理的行為であり、それ以上でもそれ以下でもない。それらの行為により、親密になることはない。そうとわかっていても、特にキスには違和感がつきまとう。親密になるという目的のないキスなどどこか転倒している。キスに限らず、形式的な性行為全般が転倒している。そうしたことは、今こうして真理子と接触して初めて身にしみてわかったことだった。相手が真理子であれば接触に安心できた。接触自体に快感があった。それは風俗嬢との接触では絶対に得られない感覚だった。

 激しいピストンの末に射精したとき、恭介は大いに満足感を覚えた。このような形で童貞を卒業できたことが嬉しかった。孝治に自慢したかった。また、麻子のことも忘れられると思った。

 行為の後、恭介は真理子を抱き寄せ、髪の中に顔を埋め、耳たぶにキスした。そして、真理子の肌の温もりを感じていた。こういった行為後のくつろぎは、ともすると性行為以上に憧れていたことだった。というのは、こればかりは風俗嬢相手にはできないことだったから。恭介は真理子もまた自分と同じように満足していることを確認しようとして、彼女の表情を伺った。真理子は目を瞑っていた。恭介は彼女の頬に掌を当てた。

「真理子」と恭介は呼んだが、彼女は目を開けなかった。恭介がもう一度呼ぼうとしたとき、指先に湿った感触があった。

「泣いてるの?」

 その感触が真理子の瞑った目から零れた涙によるものだとわかると、恭介は恐る恐る訊いた。彼女は数秒あってからようやく目を開いた。両目は涙で赤く充血していた。あるいは、歓喜の涙という可能性もなくはなかったが、いずれにしても泣くことは、ひどく場違いに思えた。真理子は何も答えず、恭介を見つめた。彼は不安に駆られて「どうした?」と訊いた。これまでの夢心地から覚めた気がした。

「何でも話してよ。俺たちもう……そういう仲なんだからさ」

 恭介はそう言ったが、何か引っかかるものがあった。記憶を手繰ると、新幹線で会ったときについた嘘を思い出した。すると、急に今夜のこれまでの出来事に水が差された気がした。彼は真理子から目をそらし、そのことについて考えた。話さなければ、交際できる気がしなかった。しかし、今、この場で話す勇気はなかった。

 恭介は真理子から体を離して、真理子に背を向けた。

「今日は恭介とこうなって嬉しかったよ。……でも、わたしのこと嫌いになったら、すぐに別れていいからね」

 背中越しに聞こえる真理子の声は沈んでいて、真理子が悲しんでいることは疑いの余地がなかった。

「どういうこと? どうしてそんなこと言うの?」

 恭介は真理子の方に向き直って訊いた。

「わたしたち、まだお互いのことよく知らないじゃない? だから」

「だからって、そんなこと言うのはおかしいよ。……でも、わかった。ただ、その言葉は、そのまま返すよ」

 恭介はそう言うと、真理子の髪を手で梳いた。


   *


 真理子との二度目のデートは、最初のデートから一週間後の九月の最初の土曜日で、彼女の家がその場所だった。その日は晴れたが、急に秋めいてきて、長袖を着ている人もちらほらいる涼しい日だった。待ち合わせ場所は、真理子の家の最寄り駅である国分寺駅だった。彼女の家に行くことは大いに楽しみであったが、それに勝る不安があり、恭介は朝から落ち着かなかった。

 真理子は待ち合わせ時間の午後七時ほぼちょうどに来た。先日とは打って変わって、ボーダーTシャツにジーンズというリラックスした服装だった。真理子のリラックスムードは恭介にも感染し、恭介はどこか楽観視できる気がした。

 南口を出て、コンビニに寄ってビールなどを買った。歩きながら、今日のこれまでの時間の過ごし方を話し合った。真理子は駅前のドトールで勉強していたことを話した。このところドトールで勉強するのが習慣になっているのだと言う。恭介は、大いに感心して、「勉強熱心なんだね」と褒めると、「勉強できるのは今のうちだけだからね」と至極まっとうなことを言われ、ちょっと面食らった。恭介は今日、履歴書を書いたり、就職情報誌を調べたりしていたが、そのことには触れず、ビデオで映画を見ていたことを話した。彼は遅ればせながら、就職活動を再開したのだった。

 真理子の家には一五分くらいで着いた。そこは二階建てアパートの二階の部屋だった。部屋は、1Kタイプで、ロフト付きだった。部屋の半分くらいを占めるベッド、スチールラック、小さな机と椅子、ガラステーブル、本棚が主な家具だった。狭いながらも、整理された室内は、居心地良さそうだった。また、抑えた照明もリラックスできる雰囲気を醸し出していた。

 恭介はガラステーブルとセットになっている華奢な折りたたみ椅子に腰掛けた。真理子はスチールラックに収まっているラジカセから音楽を流すと、「今、料理作っているところだから、ビール飲んで待ってて」と言って、キッチンに行った。恭介はさっきコンビニで買った缶ビールを飲みながら、音楽に耳を傾けた。ラジカセの表示によると、流れている曲は「ボニー・ピンク」だった。英語の歌詞で洋楽の影響を強く受けている曲だった。恭介は渋谷系と呼ばれている音楽を思い起こした。音楽も含めて、真理子の内面が色濃く反映された空間は、大いに刺激的であり、自分がここにいることは感動的でさえあった。

 恭介は本棚の前に来ると、本を調べた。小説、人文書、英語と仏語の語学関連の参考書・問題集が大半を占めていた。恭介はそこからモーパッサンの『女の一生(上)』の文庫本を取り出して、その紹介文を読んだり、ページを捲ったりした。そうしている間に、真理子が戻ってきて、恭介が手にしている本を見て、「それか」と笑った。「何となく惹かれたんだ」と恭介。「興味あったら、持って行ってもいいよ」と真理子は言ったので、恭介はそうすることにした。

 恭介が真理子の部屋で唯一気になったのは、一枚も写真が飾ってないことだった。女子の部屋と言えば、友達といっしょに撮った写真の一枚や二枚があるのが普通のように思っていたからだ。

 そのうちに夕食の準備ができた。ガラステーブルはやや狭かったが、そこに皿に取り分けられた料理と白米が盛られた茶碗が二人分配置された。料理は、鶏もも肉のトマトソース煮だった。見た目も匂いも大いに食欲をそそるものがあった。

 恭介が誰かの家で誰かといっしょに夕食を摂ることは、東京に出てきてから初めてのことで、普段の孤独な夕食に慣れた身には、何か照れくさいものがあった。結局、恭介にとって、真理子はまだよく知らない人だった。今まさにお互いに知り合う段階に着いたばかりと言っても言い過ぎではなかった。

 見た目にも色鮮やかな料理は味も抜群だった。せいぜい目玉焼きくらいしか作ったことのない恭介には、このような料理は異文化体験に等しかった。恭介は真理子に料理についていろいろと訊いた。

「多少料理やったことがあれば、これくらい普通作れるよ」と真理子。恭介は真理子といっしょに料理すれば、自分も多少は料理する習慣が身に付くのではないか、と妄想を膨れませたが、そのとき自分たちがまだ正式なカップルではないことを思い出した。今日は、本当のことを言うために会っているのだった。そのことを意識すると、恭介は無口になった。それは早々に言うべきことだったが、ひとたびそのあり得る帰結を考えると、口にするのは躊躇われた。

「この部屋どう?」

 真理子がそう言って沈黙を破った(正確には、曲が流れていたが)。

「いや~、いい感じだよ。あまり女の子っぽくないところが個人的には好みだね。本棚の本はぼくの部屋のと似ていて、親近感が湧いたよ」

「本当? そう言えば、小説書いてるんだよね?」

「うん、でも今は書いてないんだ。ちょっと忙しくなってね……」

「そうなんだ」

「……」

 真理子が自分に向ける視線を無視するわけにはいかなかった。恭介はこの機を捉えて、ついにまだ就職が決まってないことを話した。

「えっ、じゃあ、卒業後はどうするの?」

「まあ、決まらなければ、フリーターしかないかな」

「へぇ~、そっか。まあ、小説家目指してるなら、いいんじゃない」

「うん、まあ、それもあるけど、やっぱ今は迷ってて、何かしら就職しようとしてるんだ。もう遅いかもしれないけど」

「え~、でもやりたいことがあるんなら、就職しなくてもいいと思うよ」

「……そうかな。だけど、真理子はぼくの小説読んでないし」

「そうだけど。まあ、自信がないなら、止めたら」

「自信はないよ……」

「……まあ、どっちでもいいと思うよ。自分がより向いていると思う道に進めばいいんじゃないの」

「そうだね。ありがとう」

 恭介は真理子の反応に拍子抜けすると同時に、パッと光が差し込んだような気持ちになった。恭介は三分の一くらいビールが残っている彼女のグラスにビールを注いだ。

 真理子は視線を宙に彷徨わせて、何か考え事をしている様子だった。部屋には相変わらずボニー・ピンクの曲が流れていた。


  私の居場所なんてものは あなた次第なのに

  私が泳ぐプールに あなたが泳ぐ姿 幻


「でも、恭介が就職を目指すのもわかるよ」

 真理子は唐突に言った。

「そう?」

 恭介は鶏肉を挟んでいた箸を止めた。

「だって、やっぱりおカネの問題って大きいでしょ」

「そうだね」

「学生でも学費を払えなくて、大学辞めたり、ヤバいバイトしたりする人がいるじゃない」

「ああ、でも、自分の周りにはあまりいないかな。『ヤバいバイト』って例えばどんなの?」

「……風俗のバイトとか」

「ああ、なるほど。そう言えば、風俗嬢っぽい学生で溢れている短大があるんだってね。ちょっと見てみたい気がするよ」

「……大学行くために、風俗で働く子ってどう思う?」

 真理子は恭介の発言には触れず、視線を外して、絞り出すような声で言った。

「どうって……、それは……何と言うか……。あれ? どうしたの?」

 顔を上げた真理子の目には涙が浮かんでいた。

「なんで泣いてるの?」

 恭介は動揺を隠せなかった。

「わたしが……風俗で働いているとしたらどう思う?」

「真理子が……。まさか!? ……マジか! 嘘だろ?」

「嘘じゃないよ。残念ながら……。去年、父が失業したんだ。それで、学費が払えなくなるから、大学を諦めてくれないか、って親から相談されたの。でも、わたしは地元に帰るのが嫌だった。だから、自分でなんとかするって親に言って、何か稼げる仕事を探したんだ。だけど、そう都合良く稼げる仕事があるわけなくて……。結局、見つけたのが、ピンサロの仕事だった。ピンサロってわかる?」

「わかるよ」

「まあ、おかげで銀行口座の残高は順調に増えてるけど、ストレスが異常で、最初の頃は、自分が正気を保てるかどうか不安になるくらいだった。友達にも話したり、会ったりする気にもなれず、だんだんと疎遠になっていって、本当に独りになった」

「……親には話したの?」

「ううん。親には学費を出してくれてるパトロンが見つかったと話したけど、たぶん信じてないと思う。薄々は気付いているんじゃないかな。だけど、失業したことの負い目があるから、何も言えない」

「そっか」

「新幹線で恭介に声かけらたときは、嬉しかった。自分が普通の女の子として見てもらえたってことが……。わたしも恋愛できるって信じたかった」

 恭介は言うべき言葉を思い付かず、ただ、ビールを一気飲みするしかなかった。渋谷のピンサロで相手をしてくれた子のことを思い出した。ひっとしたら、そこで真理子に出会っていたかもしれなかった、とふと思った。


 その夜、恭介は真理子の家に泊まらなかった。真理子とヤることに抵抗を感じたためだった。

 恭介が「風俗の仕事を辞めて欲しい」と伝えると、真理子は「今年いっぱいで辞める」と言ったが、すぐに辞めて欲しかった。しかし、恭介が彼女の学費を肩代わりできるわけではないので、それは身勝手な要望だった。彼は国分寺駅まで帰り道、真理子との別れ際に悪いことをしたと反省した。別れるとき、真理子は不安げな眼差しで自分を見ていた。彼女にキスすべきだったが、できなかった。「汚らわしい」と思ってしまった。そんな自分が嫌だった。真理子は精一杯生きているのに。だが、彼女のせいでないとしても、とにかく悲しくて苦しかった。こればかりは、どうしようもなかった。

 国分寺駅に着いたが、恭介は家に帰るにはなれず、渋谷に向かった。

 渋谷に着いたのは、十時に十分前だった。渋谷駅前は、やはり人でごった返していた。この雑然とした雰囲気は、今の気分に合っていた。恭介は携帯電話を取り出して、メールを確認したが、真理子から連絡はなかった。

 これから何をするか? 恭介はクラブに行こうかと思ったが、まだゴダールナイトの上映期間であることを思い出し、映画館に行くことにした。(了)

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ゴダールナイト spin @spin

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