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 コンクリート打ちっぱなしの無機質な講義棟の地下の一角にある、ベンチと、ドリンクだけでなく、パンも売っている自販機群が配置されたスポットで、恭介は島田孝治しまだたかはると話し合っていた。二人の他には、男子学生が数人いるだけだった。恭介はここで、こうして二日連続で昼休みに孝治と会っていた。恭介はこの場所が好きだった。この秘密基地めいた雰囲気には高揚するものがあった。しかし、今日のような秋晴れの日に、昼休みをここで過ごすのは不健全な気がした。

「よし、決めた。今度のコンペのテーマは、『友情』で行こう。ベタだけど、避ける理由もないしな」

 二人は、文芸サークルでのコンペのテーマを何にするか、話し合っていたのだった。「初恋」や「女性一人称」などいろいろな案が出ては消えた。「友情」ならば、お互いに書ける気がしたのだろう。結論に達したところで、背後から声が聞こえた。

「あの」

 振り向くと、黒のセルフレームの眼鏡をかけた、黒髪のもっさりした野郎が立っていた。

「あの、小説の話ですか?」

「そうだけど」

「ああ、やっぱり」彼はそう言うと満面の笑みを浮かべた。「実はぼくも小説を書いているんですが、仲間が欲しくて。ぼくは小林悟こばやしさとると言います」

 悟は三年から文学部に編入してきて、ほとんど友達がいないということだった。

「へぇ~、じゃあ、サークルのたまり場に顔出しなよ。今日はどう?」

 孝治は悟に大いに興味を惹かれた様子で、彼をマジマジと見て言った。


 その日の五コマ目が終わったあと、悟は学食の特定のテーブルにあるサークルのたまり場に来た。孝治が悟にサークルが発行した同人誌を渡すと、悟は熱心にページを捲った。どれほど書けるのだろう、という期待感と警戒感を胸に恭介は悟の真剣な顔を眺めた。

 孝治から活動内容、部員数などサークルについての説明があった。悟は目を輝かせて興味深げに訊いていた。孝治が今度のコンペへの参加を打診すると、悟は快諾した。

「いや~、嬉しいですね。小説について話せる人さえいなかったんで。ましてや執筆仲間など望むべくもなかった」

「まあ、なかなかいないよね。ウチの大学には」と孝治。

「ぼくらも嬉しいよ。入部希望者なんてめったにいないんでね」と恭介。

「今日は、祝杯でもあげようか?」と孝治。

「いいね」

 それから三人で学食の中で最も高級な店である「楓」に向かった。「楓」では、瓶ビールが注文できるのも魅了だった。

 話題は尽きなかった。「楓」の閉店時間である午後十時まで、三人でビールを飲みながら話した。悟のこれまでのことが主な話題となった。悟は地方の国立大学の法学部卒業後、C大学の文学部に編入してきたという経歴を話した。大学四年生になって進路に悩んだとき、小説の執筆こそが自分が熱くなれる唯一のことだと発見した。そこでは自分を解放でき、また成長もできる。そんなことは他の学問分野では望めない。たとえば、どれだけ法律に詳しくなっても、それが小説のような作品に結実するわけでない。小説とはパーソナルなもので、そこに自分のすべてを注ぐことができる。それが魅力だ。

 悟はそういう主旨の話をした。恭介は悟の話に大いに共感できたが、進路は恭介の理解を超えていた。法学部を卒業してから落ちこぼれ色の強い文学部に編入学するのは、エキセントリックという他なかった。文学などそこまでして学ぶ価値があるものなのか。文学部は役に立たないことで悪名高い学部なのに、と恭介は思った。いずれにしても、積極的に文学部を選択した恭介は、悟のような人がいることに自尊心をくすぐられた。恭介は悟の上気した顔色に、部員数四人のこの弱小サークルが実は非常な魅力を備えているように思えた。


   *


「悟の小説、読んだか?」

「ああ」

 悟のコンペ用の原稿を受け取った翌日、恭介と孝治が共通して受講している映画史の講義の前に二人が交わした最初の会話だった。恭介は孝治の生真面目な顔つきに自分の表情を読み取った。恭介は悟の小説に圧倒された。植物状態になった男性の主人公が恋人の夢を操作し、恋人を主人公の親友に恋させるという話だったが、ストーリー・文章・構成のすべてにおいてサークルの仲間の誰よりもはるかに上を行っていた。

「どう思う?」

 恭介は孝治に訊いた。

「よく書けてると思うよ。断トツだな」

「……そうだな。技術的にも、内容的にも。しかし、ここまで書ける奴だったとはな」

「ああ」

 二人ともそれっきり黙りこんだ。お互いにショックを受けていたのだ。二人とも悟の才能を喜ぶほどの器はなかった。


 その日の五コマ目が終わった後、恭介と孝治はたまり場で悟と会った。

「おめでとう。今回は断トツで君の優勝だよ」

 悟から感想を訊かれた孝治は言った。

「またまた。かつぐ気?」

 悟は笑う。

「いや、本当に」

 孝治はそう言うと恭介を見た。

「ああ、本当だよ。このサークルにはあれほど書ける奴はいないよ」と恭介。

「そんな。三上さんまで」

「とにかくぼくも孝治も脱帽したよ」

「……本当なら嬉しいです。まあ、自分でも良くできたほうだとは思いましたけどね」

 恭介は比喩の精確さや展開の巧みさなど具体的に悟の短編小説「黄昏の二人」の長所を挙げた。

「ラストがすごくよかった」と孝治。

 ラストは、夢を操作されていることに気づいた恋人との別れの場面だった。主人公の男は恋人から自分と付き合っていたという記憶を消して、親友との恋愛を成就させるのだった。恭介はその自己抹消の美学に感動した。また、自分には絶対にできないことだと思った。

「ありがとうございます。ぼくも皆さんの小説を読んで感想を書きますので、少々お待ちください」

 恭介は自分の小説を読まれるのが恥ずかしかった。今回は不参加と行きたかったが、その場合、部員としての面子が立たなかった。せめて酷評して欲しかった。悟からならそれ以外にありえなかった。

「遠慮なく酷評してくれよ」と恭介が言うと、「俺のも」と孝治。

「ハハハ、わかりました。だけど、同人誌のお二人の小説を読ませてもらいましたが、酷評に値するような作品ではなかったですよ」

「……そんな、お世辞はいいよ。君の今回の作品はすごいよ。これは確かだ。読む方も相当な実力と見た。読書会を仕切ってもらいたいくらいだ」

「それは今までどおり持ち回り制で行きましょうよ」

 悟はそう言うと煙草に火を点けた。


   *


 コンペ以来、悟はサークルの主力メンバーになり、また恭介と孝治の共通の友達になった。恭介は悟を尊敬し、悟の話に出る本を必死になって読み、悟が傾倒している哲学者の本も借りた(最後まで読めた本はなかったが)。悟は常に話題の中心にいた。恭介は悟と友達になれたことを幸運なことだと考え、アプリシエイトしていた。しかし一方で、悟の才能に嫉妬し、たとえば服のセンスでは悟に勝っているなどと自分に言い聞かせ、どこかで悟に勝る自分を確保しようとしていた。勝ち負けを気にしないのは勝っている側だけだろう。負けている側は、どこかで帳尻を合わせないと、友人関係を維持することができない。しかし、服のセンス云々は恭介の気休めでしかなかった。それは小説における圧倒的な格差から目をそらすための自己欺瞞だった。恭介が無意識的であれ、どうにかして守ろうとしたプライドは、魅力的な女の子が悟を好きになったことで、脆くも崩れた。


「はじめまして。辻麻子つじあさこと言います。どうぞよろしく」

 前日の晩に、女の子が入部を希望している、と孝治から電話があり、今日初めてたまり場でその女子と孝治といっしょに会ったのだが、その子のルックスは、恭介の予想を大きく上回っていた。色白、華奢な体格、涼しげな目元といった特徴から「かわいい」というよりは、「クールビューティ」と形容できそうだった。いずれにしても、文学サークルにはまったく不似合いなルックスだった。恭介は孝治に予想以上だという意味を込めて笑顔を向けた。

「サークルの同人誌を読んだ、という話を聞いたけど」

 恭介は孝治から聞いたことを確認した。

「はい」

「どの作品が一番よかったですか?」

「どれもおもしろく読めましたけど、一番心を動かされたのは『黄昏の二人』でした」

 恭介は孝治と顔を見合わせた。

「そうですか。僕らもあの作品は抜きん出ていると思っています。ちなみに作者は僕らのどちらでもありません。作者は、明日はたまり場に来ると思いますよ」

「えっ、本当ですか?」

 麻子の表情がパッと明るくなった。


「あ~あ、やっぱあいつは別格なのかな」

 孝治が言う。恭介と孝治は、大学の最寄り駅までの道のりを歩いていた。キャンパスが郊外の山奥にあるため、その道のりは、山道で実におもしろみがなかった。季節は十一月に入っていて、秋風が冷たかった。

「少なくとも、作品に関してはそうだな」

「それは悟が別格ということだろ? 才能があれば、麻子さんのような女の子も寄ってくる」

「……おかげで俺たちもあんなきれいな子と接点を持てたんだから、悟に感謝しないとな」

「それもそうだ。だけど、彼女は入部するだろうか? まだ小説を仕上げたことはないって言ってたし」

「どうかな。そうなることを願うだけだ」

 麻子が入部すれば、もっと創作への意欲が湧くに違いない、と恭介は思った。

「今夜、悟に電話しておくよ」孝治は言った。「それにしても、あいつが彼女に対してどんな反応を示すか、見ものだな」

 恭介は悟が女の子としゃべってるところを一度も見たことないことに気づき、ハッとした。

「興味深いな」

 しかし、その様子を客観的に観察することはできそうもなかった。恭介は何らかの不首尾――端的に言えば、麻子の悟に対する失望――を願わずにはいられなかった。


 翌日の夕方、恭介と悟と孝治が三人でたまり場にいるときに麻子が来た。「はじめまして」の挨拶のとき、恭介は麻子の目の輝きに気づいた。また服装も黒でまとめたシックな装いだった。麻子は、名の売れている作家の作品を引き合いに出して、悟の小説を褒めたり、悟の小説執筆の方法などについて訊いたりした。麻子の熱心さが伝わってきた。そうした彼女の態度については予想の範囲内だった。しかし、悟の態度はそうではなかった。悟は麻子を前にしてまったく浮ついた様子がなかったのだ。恭介には考えられないことだった。麻子からあんな風に褒められたら、絶対にニヤけたり、もっと感情的になるだろう。絶対に悟のように、微笑を返すだけではいられないだろう。明らかに麻子の方が浮ついていた。恭介は内心驚嘆していた。ひょっとしたら悟の小説を読んだとき以上のショックかもしれなかった。

 その後、四人で「楓」に食事に行くと、悟はほとんど麻子の存在を忘れたかのように、自分や孝治を相手に会話した。しかし、恭介は麻子のことが気になり、会話に乗れなかった。対面にいる麻子の笑顔を見たかった。麻子は、悟の興味を惹くことができなかったことに失望しているように見えた。恭介は、自分が何もできないことが歯痒かった。悟はなぜもっと浮かれた様子をしないのか。麻子から興味を持たれて嬉しくないのか、女に興味がないのか、と訊きたかった。

 孝治が悟のプロ野球観戦に行った話を遮り、映画の話題を麻子に振ったが、最近はあまり見てない、ということだった。

「『ガタカ』は見てない?」

 悟が麻子に訊いた。

「ああ、見てないです。いいらしいですよね。ユマ・サーマンにイーサン・ホークが出てるんでしたっけ」

「それに、ジュード・ロウという超美形の俳優が出てる。ストーリーも良かったけど、独特の世界観でね。美的センスには目を見張るものがあったよ」

「へぇ~、ビデオになったら見てみます。わたし、イーサン・ホーク好きなんですよ」

「イーサン・ホーク、渋いよね。『リアリティ・バイツ』の役は、意外と素なのかもね。あまり社会に溶け込めそうもない感じがする。小説書いてる人ってだいだいそんな感じだよ。俺たちもね」

 恭介は自嘲半分、自慢半分で言った。

「文学部の学生は、相対的に社会に溶け込めない率が高いとは思うけど。文学部で就職に役立つ知識を教えてくれるわけではないし。まあ、ここの文学部の学生の大半が、目的意識があって志望したわけではなくて、大卒の資格のために妥協して文学部を選んでいるか、女子の場合は、なんとなく文学部という人も少なくないわけで……。だから、俺たちのように文学に熱心な奴らは、よりいっそう社会から浮く可能性が高いよね」

 孝治はそう言ってビールを煽った。

「芸術家は、そういう風に社会と距離を置くことが必要だと思う。自分が当事者になるのではなくて」と恭介。

「『芸術家』とは大きく出たね。まあ、言っていることはその通りだと思うけど、芸術家っていうのは、むしろ社会の当事者になれなくて、そうなるしかない人じゃないかな」と悟。

「じゃあ、俺は芸術家気質なのかも。俺なんて本当に、会社で働ける気がしないから」

 恭介は心底思っていることを吐露した。

「学生は皆、そんなもんだろ。だけど、俺たちもやっぱり後しばらくしたらリクルートスーツを着て、会社訪問とか行くんだろうな。悟は小説で食ってく道を目指すのもありだと思うけどさ」

 孝治がフォローした。

「小説、書けるってだけですごいことですよ。皆さんにはずっと書き続けて欲しいですね」

 麻子が言った。

「麻子さんも書いたらいいじゃないですか。皆、そんなにうまいわけではないって、わかったでしょ」

「そうですね。いずれは書きたいとは思ってますけどね」

「ただ、小説執筆が単に技術の問題だけではないということを忘れてはならないです。小説では、何もかも書かなくてはならない。日常では誰にも晒さないようなことでも。たとえるなら、汚物の付いた生理用品を見せるようなものなんです」

 悟が言った。麻子は「いやだ!」と声を上げると、俯いた。

「君は何を言っているんだ。レディーの前で」

 孝治が悟をたしなめた。

「だけど、本当のことなんだよ。それくらい何もかもさらけ出さないとならないから、厚顔無恥でないとおもしろい小説は書けないってことが言いたかったんだ」

「悟が言うと説得力があるな。しかし、使用済みの生理用品を例に出さなくても良かっただろ」

「いや、適切な例だったと思うが」

「……そうかな」

「言っていることはよくわかります。ある女性の作家が小説を読まれるのは、裸を見られるよりも恥ずかしい、と言っていたことを思い出しました。確かにわたしはそこまでオープンにはなれないかもしれませんね」

「俺たちはどうなのかな。そこまでオープンになれているか、どうか。ぼくは一時期オナニーとか性欲のことばかり書いていたけど、それは自分をさらけ出すことへの挑戦だったんだと思う」

「だけど、それはそれで紋切り型というか。そういう下世話なことを書いただけでは、自分をさらけ出したことにはならない。それに男がいくらセックスをさらけ出したところで、あまりインパクトはないし。やっぱり、痛みを伴うようなことまで踏み込んで書かないとならないんだと思う。つまり、自分にとって限界を超えるようなことを。それが小説執筆の難所の一つであり、またやりがいのあるところではないかな」

「まあ、それはいわゆる純文学に限ってのことだろうけど、同意するよ。確かに小説内でしか追求できないことがあるから、小説執筆は冒険だし、おもしろいとは思うよ。まあ、ぼくはまだそこまで進む馬力がないのかもしれないし、それにそこまで小説執筆に集中できないかもしれないけど……」

 恭介は言い淀むと、麻子を見た。麻子なら小説執筆以上に集中できそうに思えたが、そうしたことをこの場で口にすることはできなかった。麻子は無表情だった。

「麻子さんは、読書や映画以外に趣味はないの?」

 恭介は思わず麻子に訊いた。

「そうですね。自転車かな。クロスバイクで近所を走ったりしてるんです。楽しいですよ」

「活動的な趣味だね。俺たちは誰もそういう趣味を持ってないな」

「フフフ、運動も大切ですよ。きっと小説執筆にもいい影響を及ぼすと思いますよ」

 恭介はクロスバイクというものが何かわからず、「スポーツタイプの自転車でドロップハンドルではないもの」と言われてもあまりピンと来なかった。しかし、自転車ならば真似できると考えて、今はまだまったく遠い存在である麻子が多少身近に感じられた。


   *


 麻子が入部してから、恭介はよりいっそう熱心に創作に取り組んだが、執筆中の小説は壁にぶち当たっていた。書きたいという思いはあったが、駄作への道を進んでいるように思えて書き進める気になれなかった。そういう辛い状況にさらに追い打ちをかけたのが、麻子と悟とのカップリングだった。恭介は、最初の悟の態度からその可能性は低いと考えていただけに、これはいっそうショックだった。

 四人でいつものようにたまり場で話しているとき、悟は唐突にそのことに触れた。その口ぶりは、まるでプロ野球の話や天気の話をするときのようだった。二人は並んで座っていたが、そのような間柄であるとは想像だにしなかった(もっともそう言われれば、確かに麻子の悟を見る眼差しにはどこか通常とは違うものがあるように思えたが)。恭介は二人を見比べて、孝治に続いて「おめでとう」と言った。麻子は「ありがとう」と笑顔を見せたが、悟は頷いただけだった。悟がデレデレしていれば、嫉妬しながらも、まだ共感できたかもしれない。しかし、悟が相変わらず冷静で、嬉しそうな様子を見せないことが、恭介はどうにも理解できず、悟に対する反感が吹き荒れた。


 それ以来、恭介は悟を追いかけるのを止めて、ちんぷんかんぷんの思想書を読むのも止めた。彼は彼、俺は俺、と自分に言い聞かせた。麻子についてももうアプローチできなかった。恭介は、久しぶりにゲームセンターで格闘ゲームをやったりして、彼なりに荒れた生活を一時期過ごした。

 麻子の件から一ヵ月近く経ち、恭介が落ち着きを取り戻した頃、学校からの帰りに偶然悟といっしょになった。小雨の降る薄ら寒い晩秋の日だったが、悟はツイードジャケットを着ていた。悟にしてはお洒落で麻子の影響が現れているように思えた。悟が「せっかくだから、ちょっとお茶でもしていこう」と提案した。

 大学は多摩地区にあり、最寄り駅はT駅だったが、T駅から歩いてすぐの昔ながらの喫茶店「あんず」に行くことになった。線路沿いの小路にあるビルの一階にある「あんず」の店内は薄暗く、本棚には漫画がぎっしり詰まっていて、学生の憩いの場所になっていた。

 二人は入口近くの窓際の席に着き、顔なじみの中年のマスターにコーヒーを頼むと、お互いの執筆中の小説について話した。悟は公募向けの原稿用紙百枚程度の小説を書いている、とのことだった。今回はまったく作風を変えている。完成したら、是非読んで欲しいが、内容については今のところ秘密だ、と自信ありげな笑みを浮かべて言った。それは初めて見る表情で、悟が別人に見えた。それほどの自信があるからには、相当なものだろう、と恭介は順調な執筆を大いに羨ましく思った。

 恭介は、頓挫している小説について話した。陳腐な話になりそうで、筆を進める気になれなくなっていた。青春がテーマだったが、恋愛と挫折と死というありがちな話に収斂しそうだった。恭介はそうした悩みを話した。

「とにかく書くことなんじゃないかな? 小説なんてまず設計図ありきじゃないでしょ? 書いているうちに話が転がることもあるし、思わぬ展開が見えてくることもある。そこがおもしろいところだよね」

「しかし、詰まらないものを書くほど辛いことはない」

「でも、何も書かないよりはいいと思うよ」

 悟に言われるとそういうものか、と思う。

「悟は書けなくなったりすることはないの?」

「今のところない。もう習慣になってるからね。……最初に小説を書いたときの昂奮は今でも覚えているよ。自分で話をつくることは、ゲームなんかよりもずっとおもしろいとそのとき感じたんだ。恭介もそうでしょ?」

「まあ、そうかもしれない。ただ、ぼくはそんなにさくさく書けないし、アイデアも貧弱だから、悟が羨ましいよ」

「恭介の小説を読む限りでは、どんどん書き続ければいいと思うよ」

「そう? 本当にそう思う?」

「うん」

 恭介は嬉しかった。そわそわしてきて、外に目を向けた。店の前にはメニューを検討しているカップルがいた。恭介は俄に麻子のことが気になった。普段なら屈折した気持ちから訊けなかったかもしれないが、今は強気になれた。

「麻子さんとはどう?」

「ああ、別に問題ないよ」

「……彼女のこと好きなの?」

「わからない。嫌いじゃないよ」

「それなのに付き合ってるのか……」

「うん」

 悟は笑ったが、恭介は内心穏やかではなかった。

「今まで好きになった女の子はいるの?」

「いるよ。ここしばらくはいないけど」

「……正直、麻子さんのことを好きにならない、というのがぼくにはわからないよ。あんなにいい子はそういないんじゃないかな」

「まあ、そうかもしれないけど。ぼくはどこかインスパイアされる相手がいいんだ。小説の糧になるような」

「麻子さんではインスパイアされないのかよ」

「そうだな。彼女との時間を小説にすることはあり得るからインスパイアされないとは言えないが、たとえば、サルトルとボーヴォワールのように相手から直接インスパイアされることはないかな」

「なるほど、それはなかなかハードルが高いね」

 恭介にはまるで雲の上のような話だった。たぶん麻子のほうがボーヴォワールよりもずっと美人だし、そんな関係を目指すこと自体が恭介の理解を超えていた。

「まあ、いずれは別れるかもだ」

「……そうか」

 恭介はまた外に視線を移した。小路の向こうには人の疎らな殺風景な駅のプラットホームが見えるだけだった。


   *


 年が明けて最初の登校日、恭介はセールで二万五千円で買ったダッフルコートを着て、雪が降りそうな寒さの中、大学へと向かった。

 久しぶりに友人と会うことは、期待が高まる反面、これまでのような友人関係を見い出せるかどうか、という不安も伴う。

 恭介が抱いていた不安は残念ながら、的中した。夕方、孝治と悟と恭介の三人でたまり場に集まっているとき、就職活動の話題になった。孝治は三十社近くにエントリーしたとか、SPI(総合適性検査)に向けた勉強をしているなどと話した。悟は高校教師の免状を取る予定ということだった。そして恭介はと言えば、何のビジョンもなかったし、何の活動もしてなかった。孝治から「卒業したらどうすんだよ?」と真顔で訊かれた。恭介は「今のところ、小説の執筆で忙しくて考えられない」と答えた。「小説で食っていく自信があるんなら、それでもいいが、俺は友人として就活するか、進学するか、何らかの進路を考えることを勧めるよ」と考治。

 悟も孝治の意見に頷いた。確かに孝治の言うとおりだ、と恭介も思った。しかし、恭介はそのとき小説のことしか考えられなかった。頓挫していた小説が動き出したのだ。創作にこれほどの充実感を感じたのは初めてだった。

 その日、帰宅途中T駅のホームで、孝治と別れて、悟と恭介の二人きりになったとき、悟は不意に麻子の話をした。

「もう麻子とは会うの止めようと思ってる」

「どうして?」

 恭介は驚いた。

「……性格の不一致というのかな。彼女はいつもいっしょにいたいと言うけど、俺は毎週会うのも嫌なんだ。それにクリスマスとか莫迦莫迦しいし」

 恭介には理解できなかった。いっしょにいるのが嫌だと? あんなにかわいい子と?

「君は幸福を手に入れたんだぞ。それをみすみす捨てるというのか?」

「君も女の子と付き合えばわかるよ。女の子がどれだけ俗物かってことが」

 恭介はもう我慢できなかった。

「お前は何様のつもりだよ!」

「性格の不一致はどうしようもない」

「そんな……バカな」

 恭介はそれから十分間くらい悟と別れるまでずっと口をきかなかった。

 恭介はアパートの最寄り駅に着くと、自宅までの帰り道にあるコンビニで煙草を買って、家に着くとすぐに吸った。夏に帰省したときに地元の友達と飲んだとき以来の煙草だった。一口吸い込んだだけで咽た。「セイカクノフイッチ」と悟の言葉を舌先で転がした。女の子と付き合ったことのない恭介にはその意味するところは、現代思想の抽象的な概念と同じく理解不能だった。あの子の微笑み、眼差し、身体、そのすべてが自分に向けられているとしたら、それほど嬉しいことはない。それなのに悟は……。そうだ! これはチャンスだ。もう悟に遠慮はいらない。煙草の火を空き缶で消すと、手を打つべく、恭介は考えを巡らせた。

 恭介は夜になってから悟の家に電話した。

「恭介だけど、さっきはごめん」

「別に気にしてないよ」

 悟は静かに言った。

「……今日言ってたこと、麻子さんには言ったの?」

「まだだよ。でも、今度会ったときに言うつもり」

「そうか。……実は、俺、前から麻子さんに興味があったんだ」

「ああ、そうなんだ。だったら、電話番号教えるよ」

「あっ、ありがとう……」

 十桁の数字を眺めながら、恭介は高揚感が湧いてくるのを感じた。すぐにでも電話したくてうずうずした。悟が麻子に話してからのほうがいいか。しかし、いずれにしても、自然な形で電話できるわけではない。恭介は結局、今すぐ電話する方を選んだ。というか、待てなかった。

「はい」

 麻子は三コール目で出た。恭介は悟から電話番号を訊いたことを話し、突然の電話を詫びた。麻子は恭介の名前を聞いて、驚いた声を上げたが、どこか元気なさそうな声色だった。お互いに近況を話した。麻子は間近に迫っている試験の勉強で忙しいと言う。

「悟くん、わたしのこと何か言ってた?」

 恭介が今日、悟と会ったことを話すと麻子は訊いてきた。

「……いや、別に」

 恭介は正直に言うべきかどうか躊躇った末、言わないことにした。

「本当に?」

 麻子は不安げな声を出した。恭介は良心が痛んだが、嘘を通すしかなかった。

「ところで、今度、お茶しない?」

 恭介は言ってみた。

「えっ、いいけど……」

 日にちを決めると、恭介は礼を言って、受話器を置いた。アポを取れたのに嬉しくなかった。やはり時間を置くしかないのだろうか? 恭介はその日二本目の煙草に火を点けた。


 恭介は試験期間中に学校で麻子と会ったが、挨拶を交わしただけだった。麻子は表情が暗く、悟とのことが尾を引いていることが見て取れた。

 それから約一週間後、バレンタインデーを翌週に控えた土曜日の夕方、恭介は麻子と渋谷で会った。麻子はいつものベージュのコートにジーンズというスタイルだった。

 渋谷の街は普段以上にカップルが目に付いた。恭介は、麻子と行くためのカフェをリサーチ済みだったが、麻子が「安い店がいい」と言って、ドトールコーヒーを提案したので、そこに行くことになった。ビルの二階にある宇田川町のドトールは、混んでいたが、ちょうど空いた窓際の席を取ることができた。二人はお互いのドリンクを注文すると、その席に着いた。席からは、通りを行き交う大勢の若者が見て取れた。

 会話はスロースタートだった。麻子はあまり視線を合わせてくれず、どこか緊張しているようにも見えた。ブツ切れの会話がしばらく続いた。

「わたし、服飾の専門学校に入りは直そうかと思ってる」

 麻子はしばらく沈黙が続いた後、唐突に打ち明けるように声を潜めて言った。麻子は悟を好きになった理由が、彼の才能のためであることを話した。でも、自分には悟の才能に見合うものがない。それが問題だ、と彼女は続けた。

「このままじゃあ、一生何者にもなれずに終わりそうで怖いの。自分で人生を切り開いて行かないとダメだと思ったの。今までは周りに流されてきたけど」

「……麻子さんにそんな悩みがあったとは。古臭い言い回しかもしれないけど、『女の幸福』は労せずして得られそうだけど、それでは満足できないんだ」

「それって要するに結婚・出産ってことでしょ。恭介くんって意外と古臭いんだね。それって昔のステレオタイプじゃない。わたし、こう見えてもフェミニズムの本読んでるの。男に頼る生き方なんてしたくない」

「逞しいね。ぼくはそんな女の子、好きだよ」

 麻子はウフフと笑った。恭介はその笑窪に魅せられた。何としても彼女をものにしたい――。

「ぼくも麻子さんの気持ちわかるよ。ぼくにも同じような焦燥感があるから。まあ、ぼくは小説を書いているけど、だからといって、自分の道が正しいかどうかなんて、わからない。何かをやるということは何かをやらないということだし。つまり、小説を書いてなかったら、他に何かができるわけだ。小説を書くことが自分にとってベストなのかどうか、正直確信が持てない」

「そうなんだ」

「うん、でも他に何もないから、たぶん書くしかないと思う」

「なんだ。結局、迷いはないんじゃない」

「そうかも」

「……わたしも小説が書けたらなあ~」

「書けるよ。そんなに難しいことじゃない」

「そうかな?」

「でも、お薦めしないな。麻子さんには別の道のほうが向いてると思うよ。その美しいルックスを活かした仕事、たとえば通訳とかいいんじゃないかな」

 恭介はそう言うと、麻子の反応を伺った。麻子はフッと笑った。そこにゴー・サインを見出した恭介は、ついに麻子への思いを口走った。

「あのさ、ぼく、麻子さんのこと好きなんだ。これまで悟と付き合ってたから言えなかったけど、ぼくと付き合ってもらえないかな?」

 麻子は驚いた表情で自分を見ている。恭介は「ダメかな?」と押した。

「……悪いけど、わたし今は恋愛は考えらないんだ」

「……そっか」

 まあ、そうだよな、と恭介は麻子の反応を当然だと思った。ショックよりも清々しさが勝った。それは本人を前にして言うべきことを言えたためだった。

「まだ、悟のことが忘れられないよな。ぼくは彼の代わりにはならないし。ぼくにも彼のような才能があればな」

「……どうかな。悟くんは教員を目指すようだし、恭介くんが小説を書き続けるのなら、それはすごいことだと思うよ。才能なんて後からついてくることなんじゃないかな。悟くんだって、生活に追われて書かなくなったら、いくら才能があっても、ないと同じことだよ。それに悟くんのことを忘れられない、というよりは、自分の未熟さを思い知らされたことにわたしは落ち込んでるんだ。チヤホヤされることもあったけど、それに乗っかてたことを反省してるの。悟くんは決してこれまでの人のようにわたしのことをチヤホヤしなかった。それがわたしにとっては良かったと思ってる。恋愛よりも大切なことがあるってことを思い出させてくれたから」

「『恋愛よりも大切なこと』か。ぼくにはわからないな。ぼくは女の子と付き合ったことないし。まあ、確かに小説執筆も大切だけど、どちらがより大切かなんて、選べない。恋愛は次元が違うというか」

「言っていることはよくわかるよ。わたしもそう思う。ただ、人生の状況によっては、恋愛以外のことに集中しなきゃならないときもあるんじゃないかって思うの。よく女子は恋愛がすべてみたいな風潮があるけどさ。そういう風潮に乗せられると後で痛い目みるんじゃないかな。まあ、誰かさんの言うように女は存在で生きて行くことができるのだけど。女は子どもを産む性だからね。女にとっては、子どもを産んで育てることが男の仕事と同じ意味を持っていたのよ。これまでは」

「まあ、確かに恋愛がすべてっていうのはどうかと思うよ。仮にそういう子から言い寄られても付き合いたくないね。ただ、女子は、恋愛に多くの時間と労力を費やさざるを得ないと思うよ。特に麻子さんのようなモテるタイプは。誰かと付き合っていても、勉強や仕事が手に付かない、ということはないんじゃないかな。それよりも、お互いの存在が勉強や仕事にプラスになる面が大きいと思うけど」

「そうだね。そういう関係でないと付き合う価値ないよ。ただ、今は進路のことを冬の間にしっかり考えないと、って思ってるんだ。最悪、大学辞めることになるかもしれないし」


 ドトールを出たときは午後六時半頃ですでに暗くなっていた。食事するには良い時間だった。恭介が「何か食べよう」と言うと、麻子は、道玄坂にあるパスタ店を提案した。

 道中にいかがわしい店があった。口にするのも憚られるその店名を見たとき、恭介にいかがわしさが感染した。この際、付き合うことは無理としてもセックスできないか、と思ったのだ。麻子は最初のセックスの相手として申し分なかった。その顔も身体も高い性的魅力を備えていた。恭介は、悟の別れの理由を思い出し、胸が悪くなった。いったい悟は、彼女のビジュアルを評価しなかったのだろうか? それに彼女の性格のどこに欠点があるのか想像もできない。付き合ってみれば、見えてくるのかもしれないが、付き合うことを拒否されたら、それまでだ。だとしたら、せめて付き合うことに伴う最大の恩恵だけでも、と考えてしまう。恭介は、彼女の顔や首、服の下の身体が麻子という人格を超えてアピールしているのを感じていた。

 しかし、実際にセックスに持ち込むことは非常に難易度が高いだろう、と恭介は考えた。麻子にしてみれば、いっしょに歩いているとしても、自分はサークルの仲間でしかないのだから、セックスなどありえないはずだ。

 パスタ店は、納豆パスタを始めとした、日本人向けにアレンジしたメニューが並んでいる庶民的な店だった。音楽は邦楽が流れていた。

 店内にはカップルもいたが、あまりデート向きの店ではなかった。麻子はそもそもデートという認識ではなかったのだろうし、そのことを店の選択で示そうとしたのかもしれない。もうこれは敗戦処理的な食事なのだ、と恭介は改めて思った。

 しかし、こうしてせっかく二人でいる以上は一分足りとも無駄にしたくなかった。恭介は今の状況で自分はどういう行動を取るべきか考えた。あるいは、麻子が自分のことを恋人候補として検討するかもしれない。その可能性がないとは言えない。

「この店はよく来るの?」

 恭介はお互いに注文を終えた後、訊いた。

「ううん、前に一度来たことあるだけ」

「パスタ好きなんだ?」

「そうだね」

「……家でよくパスタ作るの?」

「作るよ……。恭介くんは料理とかする?」

「ほとんどしたことないよ。学食か、近所の中華料理屋でよく食べてる」

「そっか。でも、料理くらいしたほうがいいよ」

「前にしようとしたことがあったけど、挫折した。そもそも調味料がないし、いちいち買わないとならないのはね」

「まあ、学食安いしね」

「うん……」

 恭介は水を飲んだ。どうも会話が弾みそうな気がしない。いったい何を話したら良いのか。チクタクと秒針の音が聞こえてきそうだ。沈黙が刻一刻と麻子との間の潜在的なつながりを蝕んでいくような気がした。

「ところで、最近何か映画見た?」

 結局、映画の話が恭介が真っ先に思いつくことだった。

「いや、見てないよ。試験だったから」

「ぼくは試験終わってから見たよ。『ベティー・ブルー』という昔のフランス映画」

「ああ、ポスターが有名なヤツね。見たことないけど、あのポスターだけは知ってる。部屋に貼ってあると、おしゃれ度上がりそうな感じ」

「その映画見て、麻子さんと悟のことを思ったよ。小説書きの男に献身的な愛を捧げる少女の話なんだ」

「へぇ~、そうなんだ。それは……見たかったな。もう少し前に」

「今からでも遅くないよ。いい映画は、どういう状況でも見るに値するから。それに主演女優のベアトリス・ダルを真似するのは無理だろうし。タイプ的には全然麻子さんと共通点はないと思うよ。気性が荒くてね。正直、ぼくなら付き合って行けないと思うよ」

「じゃあ、その女優のどこが魅力なの?」

「それは……やはりそういう激しさだと思うんだ。たとえば、恋人の職場を燃やしてしまうんだ。だけど、それは恋人が小説執筆に専念できるように日々の労働で消耗するのを防ぐためなんだ。まあ、理由はどうあれ、実際にやられたら怒ると思うけど」

「へぇ~、そりゃ真似できないわ。でも、おもしろそう。今度見てみるよ」

 麻子の笑顔が輝いた。その瞬間、恭介の胸に希望の光が差した。

「……わたしには悟くんをインスパイアできるようなところはないのだと思う。悟くんのような人と付き合うには、何かエキセントリックなところが必要なんじゃないかって思うの。さっきも言ったけど、わたしは今まで、どちらかと言うと、流されて生きてきた気がする。本当に自分の意志で生きてきたかって言われると、疑問なんだ。そういうところが、欠点というか、魅力に欠けると思われたんじゃないかな」

「自分の意志で生きるってそう簡単なことじゃないと思うよ。まあ、ぼくらは学生だから、まだ経済的に自立してないし、その分際でどうこう言えないかもしれないけど。仮に社会人になって、どこかの会社に就職したとしても、それが本当に望んだ職場という人は少ないんじゃないかな」

「うん、そうだね。しっかりと自分がどうしたいか、というのがないと、いくら就活マニュアルを読んで小手先の対策をしても、最終的にはうまく行かない気がする。まあ、普通にOLになって結婚するのが目標という人もいるけどね」

「……そもそも会社に就職すること自体が向いてない人もいると思うんだ。ぼくは自分がそういう人だと思うんだよ。仮に間違って会社に就職したところで、組織の論理を受け入れることができるかどうか大いに疑問だよ」

「組織の論理か。実際に自分が組織の一員になれば、内面も変わってくるんじゃないのかな」

「そうかな? ぼくはとてもそうなるとは思えないし、またそうなりたいとも思えない。ぼくは自分が会社のために何ができるのか、大いに疑問だよ。ぼくには専門知識などないし、営業職しかないのだろうけど、営業はやりたくないし」

「そういう人は多いよ。でも、そうだね。確かに恭介くんに営業は向いてないかもね」

 そこでお互いのパスタが来た。


 パスタ店を出たとき、時間は八時前だった。徐々に深さを増すこれからの数時間は、カップルとって最高の時間帯だ。恭介は麻子を飲みに誘った。

「……そうね。今日は止めとこうかな。また今度」

 それが麻子の反応だった。視線を宙に泳がせ迷うそぶりを見せただけに、拒否はいっそう深く恭介を落胆させた。恭介は麻子と渋谷駅で別れると、桜丘町にある店に向かった。そこは渋谷では珍しい洒落っ気のない立ち飲み屋だった。コの字のカウンターに陣取っている客は、半分以上がソロの中年男性で、渋谷パルコ周辺の人口層とはまったく違っていた。恭介は一人で瓶ビールをコップに注いで飲み、枝豆を食べた。彼は敗残者の気分を味わいながらも、同時に解放感も感じていた。ソロの男の世界は居心地が良かった。何よりも自由が。もっとも、それは孤独と言う名の消極的自由だったが。そうは言っても、自由であるのは確かで、会話につきもののプレッシャーも相手への気遣いも必要なく、一人の時間に浸ることができた。

 一人になると、徐々に麻子に振られたことがそれ相応の重みとともに恭介の胸に染み渡ってきた。それは一つ大きな節目になり得ることだった。それは確かに残念なことではあったが、それでも最悪なことではなかった。最悪なことは、アプローチの機会すら得られないか、または機会があってもアプローチしないことだった。そう考えると、そこには一定の達成感もあった。それは戦場で戦いながら死にゆく兵士のような気分なのかもしれなかった。

 また、麻子に振られたことは、小説執筆にとって非常に有益であると思われた。それに伴う痛みや絶望は、執筆の大きなエネルギー源になりそうだった。恭介は、麻子と交わした眼差しや偶然手が触れた瞬間を思い起こした。それらの瞬間瞬間が別の可能性を秘めていたかもしれなかったのに、そうした可能性を解き放つことができなかった、と考えると、痛みや絶望が弥増した。

 今、男性が大半を占める立ち飲み屋に自分がいることには、象徴的な意味があるように思えた。オナニーという手軽ではあるが消極的な性行為しかないありふれた日常がぽっかりと口を開けていた。

(仮にセックスの相手がいてもセックスが日常に占める時間は相対的にわずかであろう。しかし、それがそれ以外の日常に与える影響は計り知れない。セックスとは生活の最も深い部分に組み込まれた、昼の日常を駆動するエンジンのようなものではないだろうか。セックスしている人と、していない人とではまるで違ったランドスケープが広がっているのではないだろうか)

 かつてないほど強烈なセックスへの飢餓感が恭介を襲った。童貞のまま死ぬわけにはいかない。願わくば、好きな女とヤりたかったが、こうなった以上は、いよいよ俺も性風俗の世話になるしかないか、と彼はぼんやりと考えた。

 恭介はビールの大瓶を空けて、酔っ払った状態で、道玄坂に戻った。時間はまだ九時過ぎだった。

「お兄さん、ヌキのほうどうですか?」と声を掛けてきたアジア系の女性の案内で、狭い路地にある雑居ビルに入った。そこはいわゆるピンサロだった。恭介は受付で指名料なしで六千円を支払った。店内は非常に暗く、昔流行ったユーロビートの音楽が大音量で流れていた。入り口を入ってすぐの場所には、恭介以外に二人ほど先客が座って自分の番を待っていた。パーティションで仕切られた店内の様子を伺うことはできなかったが、暗闇と異様な音楽が性の狂乱を暗示していた。

 ブースに案内されるまで一五分くらい待たされたが、それからさらにしばらく待って、恭介はようやくセーラー服姿の女の子と対面した。

「こんばんは~。レイカと言います。お客さんはこの店初めて?」

 レイカは恭介の隣に座ると言った。レイカは、色黒だったが、胸が大きく、目もぱっちりで、甘い匂いがした。彼女のそうした特長は、良い意味で彼の期待を上回っていた。また、レイカの明るい声は、恭介を安堵させた。

「うん、初めて。というか、こういう店自体初めて」

「えっ! そうなんだ。風俗初めてのお客さん、今日二人目だ」

「まあ、やることはわかってるつもりだけど。ところで、レイカちゃん、かわいいね」

「ありがとう。嬉しい。お兄さんもカッコいいね」

「お世辞でもありがとう」

「お世辞じゃないよ。そのメガネ似合ってるし。何か頭良さそう」

「……実は良くないけどね」

「わたしよりはいいよ。間違いなく。……渋谷にはよく来るの?」

「まあまあかな。今日は、実は好きな子と会ってたんだ。さっき振られたけど」

「え~、そうなんだ。残念だったね。それで風俗に来たの?」

「まあ、そんなところだけど。それって、失礼だね。ごめん」

「謝ることないよ。むしろ、そういう人のほうがやる気になるかも。だって、ただ女の体で遊びたいだけの人よりもロマンチックじゃない?」

「……う~ん、変わらないよ」

「わたしのこと触っていいよ」

 レイカはそう言うと恭介の手を掴み、自分の胸に持って行った。恭介はレイカの胸を揉みながら、どこか悪いことをしているような気がした。知らない女の子の身体を弄っているのだから、当然の感覚なのだろう、と恭介は思った。しかし、そのような女遊びに不慣れな男にありがちな気後れも、ボディタッチが進み、お互いに脱衣するときには、高まる欲望によりかき消されていた。

 時間がかかったが、恭介は何とか射精することができた。恭介はその点には満足した。射精できなかったらレイカに悪いような気がしたからだ。

「じゃあ、またよかったら遊びに来てね」と帰りにレイカは言うと、恭介にお客様用のカードを手渡した。そこには手書きで、「今日はいっしょに過ごせて楽しかったよ♥」などと書いてあった。

 恭介は駅まで歩きながら、レイカのアソコが全然濡れてなかったことを思い起こし、やっぱり風俗は楽しめそうもないか、と思った。


   *


 桜の花の季節が過ぎ、四年生になった恭介は孤独な日々を送っていた。彼は三月から遅ればせながら、就活を始めたが、二度ほど合同説明会に足を運んだだけで、やる気を失った。まずもって、文系の学生にとって一般的な職種である営業職に就ける気がしなかった。出版関係にしても、編集という仕事には興味が持てなかった。リクルートスーツには違和感しかなかった。新卒というカードを捨てるのはもったいない、という話は知っていたが、恭介は新卒に価値を見出す企業に疑問を感じていた。いずれにしても、待ったなしで、将来のことを考えなければならない段階に来ていた。企業に就職しない道は、茨の道に違いなかった。しかしながら一方で、フリーターという身分の気楽さには惹かれるものもあった。恭介は就活中に電車で都心を移動しているときに、勤め人に混じって座っていた、無精髭に薄汚れた服装のいかにも無職っぽい三十絡みの男に大いに愛着を覚えている自分を発見したのだった。

 恭介は卒論というさしあたりの課題に精を出した。卒論執筆は、知的課題に満ちており、アマチュア作家としての自負心を大いに刺激した。彼は同級生が就活に必死になっている時期にスコット・フィッツジェラルドの作品や関連する論文を読んだり、書店でバイトしたりする日々を送った。それはジレッタントとして満たされた生活だった。しかし、モラトリアムにもやがては終わりが来ることはわかっており、そのことが不安要素としてわだかまっていた。また、孤独もときには辛くなった。サークルのたまり場には何カ月も行ってなかった。麻子の一件が影響していたのは確かだった。孝治は就活に苦戦しているようだったが、六月末にようやく内定が出たという連絡があった。


   *


 梅雨の合間の晴れ日となった七月最初の土曜の夜は、普段以上に人出が多く、恭介は人混みに辟易した。待ち合わせ場所のモヤイ像前に着くと、すでに孝治は来ていた。よく着ている黄と青のチェックのシャツにチノパンという服装だった。孝治は恭介に気づくと、イヤフォンを外した。「おう」と挨拶する孝治の表情はどこか暗く、意外だった。

「どうかしたの? 内定決まった割に嬉しそうじゃないけど」

「嬉しいというより、ホッとしてるけど。俺のことよりも君はどうなんだよ?」

「俺は就活してないよ」

「じゃあ、卒業後はどうするんだよ?」

「……とりあえず、店に入ろうか」

 渋谷の街を歩きながら、孝治は「最近、何か映画見た?」と映画の話を振ってきた。恭介はリバイバル上映で見たヌーヴェル・ヴァーグの映画のタイトルを挙げた。

「相変わらず、偏ってるね。俺、今日『バッファロー'66』という映画見て来たよ。良かった」

「それ知らないわ」

「インディー系の映画で、ヴィンセント・ギャロという三十男が監督かつ主演で、クリスティーナ・リッチがヒロイン役のボーイ・ミーツ・ガールものの変わった映画なんだけどさ。何というか、味があって良かったよ。たぶん恭介も好きだと思うよ」

 孝治の話しぶりから、彼が大いに楽しんだことがわかった。

「じゃあ、今度見てみるわ」

 恭介はそう言うと、最近の自分がいかに世間に疎かったか気づいた。

 二人は宇田川町のKirin-Cityに入った。そこは普段行く安居酒屋よりも多少高級な店だった。若い女性の店員に奥のテーブル席に案内された。隣のテーブルには学生風の女子の二人組が着いていた。恭介は自分の視界に入る女子をチラ見したが、見た目のレベルで言えば中の中だった。強いて言えばボーダーTシャツのシルエットが示唆する豊満な胸が魅力だった。

 二人はパイントのビールで乾杯した。

「内定おめでとう!」

「ありがとう。就活はもう勘弁って感じかな。まあ、でも逃げるわけには行かないしな。俺らもいつまでも学生やってるわけにはいかないから」

「そうだな。……俺も考えないとな」

「そんな悠長なこと言っている場合か。待ったなしだぞ。いまからでも遅くない。就活しなよ」

「まあ、俺も合同会社説明会には行ったよ。でも、やる気が起きないんだ。面接でも志望動機なんて言えないし。卒業後は、何か仕事するつもりだけどさ。バイトからでいいかな」

「俺も志望動機には矛盾を感じてるけどな。就活とはそういうものと割り切ってやったよ。学生から社会人になるのは大きなギャップがあるけど、それを超えないことには自立できないだろ。それに新卒でフリーターになると後々大変だって言うしな。それくらい恭介も知ってるよな?」

「知ってるよ」

「……まあ、新卒で就職にこだわらないなら、それでもいいかもな。ただ親が許すか?」

「それは……許さないだろうけど。俺の人生だから」

「そうは言っても、学費は誰が出してるんだよ」

「孝治の言いたいことはわかるよ。だけど、俺らが学んでることって、産業界で役に立つことじゃないだろ。だからさ、しっかり勉強しても就職できないのは、仕方がないことなんだよ」

「まあ、文学部卒が一番フリーター率高いだろうね。出版系もあまり明るい未来はないしね。これからはインターネットの時代だからな」

「インターネットか。孝治はやってるの?」

「まあな。最近パソコン買ったんだ。Windowsの。インターネットにも接続してるよ」

 今や就活でもインターネットのサイトからの登録がますます増えていた。世間ではインターネットの話題で持ちきりで、その勢いにはすさまじいものを感じていた。恭介は孝治にインターネットについて根掘り葉掘り訊いた。孝治はエロ画像をダウンロードしている話をした。インターネットでは、無修正画像をダウンロードできるのだという。しかも違法ではないそうだ。恭介は近々、孝治の家に訪問する約束を取り付けた。


 ホウレン草のサラダとフィッシュ&チップスを食べ終わり、お互いに二杯目のビールを空けて、恭介はほろ酔い気分になった。二人は追加でピザとCITYポテトをオーダーした。

「そういえば、麻子さんは悟と別れたらしくて、もうたまり場にも来なくなったらしい。まあ、俺も行ってないからよく知らないんだけど」

「うん、知ってる。実は――」

 恭介は麻子に振られた話をした。話す内にキリキリと胸が締め付けられる思いがした。

「なるほど。そんなことがあったんだ。それは残念だったな。でも、俺は何もないしな。振られても、何もないよりはいいよ」

「まあ、それはそうかもしれない」

「……お互いに寂しい身なわけだし、どうかな、隣の二人組に声を掛けるというのは?」

 孝治は恭介のほうに身を乗り出して、声を潜めて言った。

 隣の二人組の会話は嫌でも聞こえてきた。さっきから恭介と同じ通路側に座っている子が恋愛の話をしていた。インカレサークルの人からデートに誘われているが、他に同じサークルで狙っている人がいるから、断るべきか悩んでいるという主旨の話だった。恭介のほうからその子の顔はよく見えなかったが、孝治がナンパを提案するくらいだからかわいいのだろう、と恭介は考えた。

「いいね。じゃあ、言い出した孝治が声かけろよ」

 そう言うと、孝治は「えっ」という顔をしたが、「わかった」と言って、隣の巨乳の子に照準を合わせた。彼は席を立って、徐ろに隣の子に近づいた。孝治の行動に気づき、話を止めた子の視線の動きで、巨乳の子が孝治のほうを見た。

「あっ、お話し中、すみません。ぼくら大学生なんですけど、お姉さんたちも学生ですよね」

「はい、そうですけど」

「良かったらぼくらとお話ししませんか?」

 二人は顔を見合わせて、笑った。

「ここで会ったのも何かの縁ですし」と恭介も立ち上がって、隣の子に言った。その子は、中の上くらいでなかなかの上玉だった。

 二人は顔を近づけて、ごにょごにょと話した後、「あの、私たちそろそろ別の店に移動しようと思ってたところなんですけど、そこで飲みませんか?」と恭介の隣の子が言った。

「いいですね」と恭介と孝治は口を揃えた。


 二人に連れて来られた店は、スペイン坂にあるビルの二階のカフェだった。シャンデリアの照明や欧風の内装は、いかにも女子ウケしそうだった。客層はやはり若い女性が多かった。恭介は引け目を感じながらも、二人の後に続いた。四人はしばらく待たされた後、入り口近くのテーブル席に案内された。

 男女が対面する形の席順になったのは残念だったが、恭介はこうして初対面の女の子といっしょに小洒落たカフェに来る展開になったことに大いに昂奮していた。めいめいが好きなドリンクを頼み、さらに巨乳のミクがフライドポテトを頼んだ。

「ここのフライドポテト、ボリュームがすごくて美味しんですよ」とミク。カフェまでの道中での簡単な自己紹介によると巨乳の子がミク、上玉の子がアリサで、二人は都内の同じ女子大の仏文科の同級生ということだった。

 同じ大学生で同じ文学部であることから話は弾んだ。小説の話も出たが、二人が読むという小説はバルザックやスタンダールなどの超有名な作家で、恭介が大いに感銘を受けたジェラール・ド・ネルヴァルの『火の娘』やジュリアン・グラックの『陰鬱な美青年』も知らなかったため、文学にそこまで深い興味があるようには思えなかった。実際、筋金入りの文学少女ならインカレサークルなど入らないだろう。恭介は「さっきチラッと聞こえてきたんだけど」と前置きして、「インカレサークル入ってるんでしょ?」と訊いた。M大学とのインカレサークルに入っていること、男女比は半々くらいであること、夏はテニス合宿、冬はスキー合宿をやっていることを一連の質問に答えてアリサが話した。恭介には縁遠い世界だった。恭介はテニスもスキーもやったことがなかったし、今後もやる予定はなかった。本格的なものではないということだったが、特にスキーは嵩張るスキー用具を買わなければならないことに加えて、寒い場所に行くのも億劫に感じられた。孝治が「まあ、M大生と知り合うにはもってこいのサークルだよね」と言うと、二人は顔を見合わせて笑った。「それで、どんな感じなの? 出会いはあったんでしょ?」と孝治が訊くと、「それは秘密です」とアリサ。注文していたフライドポテトが届いた。確かに揚げたてのポテトが大皿に山盛りになっていた。

 恭介がトイレに立って、戻ると、孝治は就活の話をしていた。

「もう何社も受けて、落とされることが続いてね。ほんとぼくにとっては大変だったよ。内定先は主に教材を手がけている出版社なんだけど、なんとか引っかかってよかったよ。まだ悪戦苦闘している人も少なくないしね。もしかしたら、大学生活で一番大変なイベントかもね。大学の勉強って何とかなるでしょ。まあ、最悪、教授に頼んで単位もらうというのもありだしね。それに引き換え、就活では大学とは別のロジックが働いているからね。つまり、シビアに比較され、何か光るものを示さないと容赦なく落とされるんだ」

 孝治が就活について語り、二人が質問を挟む形だったが、恭介は蚊帳の外だった。ひとしきり孝治の話が終わると「三上さんは就活、どうでしたか?」とアリサから質問された。

「ぼくは早々にやめたよ」恭介は話した。「ぼくは、自分が就職に明らかに向いてないと思ったんだ。だからと言って、生活の当てはないんだけど。……将来的には、何か書く仕事ができればとは思ってる。書くことが好きだから」

 恭介がそう言うと、「それは……茨の道ですね」とミクは心配そうな顔をした。

「いや~、ぼくは就活したほうがいいと思うんだけどね。まあ、人の人生だからぼくがとやかく言うことではないんだけど」

「ぼくから言わせてもらうと、就職がすべてだとは思わないほうがいいよ。就職活動しなかった世代もいるんだから。要するに学生運動をしてた世代だよ」

「時代が違うだろ」

「時代が違っても、一定の割合で既存の社会の枠組みに反発する層はいるよ」

「それはそうだが……しかし現実問題――」

「その話は止めようか」

 恭介はそう言うと、対面に向き直って、二人に「よく渋谷で遊ぶの?」と訊いた。


 恭介と孝治は、二人と別れた後、恭介が先日行った立ち飲み屋に入った。相変わらずの客層だったが、今日は、先日とは状況が違っていたため、周りのオヤジたちから自分たちが浮いているように思えた。

「いや~、今日はラッキーだったね」と言うと、孝治は瓶ビールが注がれたグラスを恭介のグラスに当てた。

「ああ、こんなことは初めてだよ」

「声かけてみるものだね」

「うん」

「で、恭介はどっちの子狙い?」

「……まあ、ぼくはどっちでもいいけど」

「そっか。じゃあぼくはアリサちゃんかな」

「彼女はかわいいよね」

「うん。胸はミクちゃんの勝ちだけど」

 孝治はそう言うとニヤニヤと笑みを浮かべた。二人との出会いは嬉しかったが、恭介にはわだかまりがあった。原因は、進路が決まってないことを話したときに、アリサが見せた表情だった。女の子と付き合うことは、もちろん今でも熱望して止まないが、彼女の表情は、今の自分の身分を受け入れられないことを物語っているように見えた。二人のさっきの態度を思い出しても、どこか自分によそよそしいように感じられなくもなかった。たとえば、別れ際、自分にも一瞥はしたが、明らかに二人は孝治により長くアイコンタクトしていた。そうしたリアルな反応は、孝治からの説得よりもはるかに深く恭介の胸に刺さった。

(結局、カネの問題は、女をゲットできるかどうかにも大きく影響する。悟でさえ、就職しようとしているのに。彼よりもはるかに実力で劣る自分が小説家を目指すというのはほとんど自殺的な進路なのかもしれない。自分は赤貧に甘んじることができるとしても果たして女はどうだろうか?)

 一瞬考えたが、やはり恭介は自分が就活をやるとは考えられなかった。それほど会社員は水が合わないと感じられた。恭介は最悪、女ができなくても、もうマンコに触ったのだから未練はないか、と考えた。

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