ゴダールナイト

spin

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 東京駅のホームの空気は人混みで淀んでいた。汗ばんだ肌にTシャツがくっつき不快だった。

 お盆の帰省シーズンの真っ只中、三上恭介みかみきょうすけは新幹線の列に並んでいた。早く空調の効いた車内に入りたかった。長蛇の列ができていたが、恭介の位置は列の先端に比較的近く、座れると踏んでいた。

 キビキビとした仕事で定評のある車内清掃のおじさん・おばさんが車内から出ると、ようやく乗り込みが開始した。恭介は一階の二人がけの窓際の席にどうにか座れた。その直後に「ここ空いてますか?」と訊いてきたのは、同世代と思われる女子だった。おでこを出したボブカットの髪型、胸の開いた白と黒のボーターTシャツが目についた。彼女が隣に座ると、フレグランスの香りか、甘くさわやかな香りが漂ってきた。

 恭介はこの巡り合わせを嬉しく思い、話しかけたい気持ちになり、また話しかけるしかないと思ったが、そうしたことに不慣れなため、プレッシャーを感じた。

「今日は帰省ですか?」

 恭介がそう言って、話しかけたのは、東京駅から新幹線が出発した直後だった。

「はい。あなたも?」

 彼女は意外にも笑顔で答えてくれた。恭介はその対応に気を良くした。

「ぼくもです。さすがにこの時期は、混んでますね。座れて良かったです」

「ですね。ところで、それは何の本ですか?」

 彼女は、恭介がテーブルに出しておいた文庫本に目を留めた。恭介は恐々として、アルベルト・モラヴィアの『軽蔑』の文庫本にかかっているカバーを外してみせた。あまり話の種になりそうにない本だったから。

「……あっ、それ映画になってる? 確かブリジット・バルドーが出てた」

「ぼくは見たことないけど、映画になってるという話は聞いたことがあります」

 恭介は、意外な反応にテンションが上がった。

「映画もおすすめですよ。音楽が印象的だったかな。わたしも小説、読んでみようかな」

「……小説、読み終わったら貸しましょうか?」

「いいの? ありがとう」

 恭介はこの流れに昂奮した。

「ゴダールとか見てるんだ」

「まだそんなに見てない。見始めたところ。『気狂いピエロ』と『軽蔑』とあと何だったかな……」

「シネフィルだね」

「きっかけは学校の授業なんだけど、昔の映画もおもしろいよね。……あなたも昔のフランス映画とか見るんでしょ?」

「あっ、ぼくは三上恭介と言います」

小嶋真理子こじままりこです」

「真理子さん……、よろしく」

 恭介はそう言うと、東京で暮らすようになって映画にはまり、ビデオ屋でビデオを借りまくっていたこと、次第にハリウッド映画は見なくなっていったことを話した。

「ハリウッド映画は所詮娯楽作品だから、予定調和で失望することが多いけど、ヌーヴェル・ヴァーグの映画は、より芸術的というか、人間にフォーカスしているように思えて、興味深いんだ。ゴダールには、独自のアプローチがあるけど、ゴダールの映画へのアプローチはハリウッドのそれとはまったく異なるものだと思うよ。まあ、ゴダールも年代によって、作風が違うけど。でも、ゴダールは、一貫して文学・思想の知識を映画に投入しているよね。だから、文学思想系の人はハマること間違いないよ」

 恭介はそう語ったが、どこか上滑りの話になった。結局、恭介には映画を語れるほど映画に関する知識はなかった。真理子は一瞬、眉間にしわを寄せて、困ったような顔した。

「なるほど。恭介くんは文学思想系なんだ。将来は作家か映画監督でも目指しているの?」

 将来のことを訊かれて、恭介は焦った。というのも、大学生活も残すところ半年になっていたが、進路が決まっていないことに劣等感を感じていたからだ。

「……趣味で小説書いてるけど。作家デビューは難しいでしょ」

「へぇ~、すごいね。どんな小説書いてるの?」

「恋愛ものとか、いろいろだよ。今はもう活動してないんだけど、一応文学サークルに入ってて、そこで決められたテーマで書くことが多かった」

「文学サークルか。文学作品について話し合ったりしてるイメージがあるけど、どうなの?」

「まあ、そうだね。創作以外では皆で決めた作品を読んで来て、感想を言い合う、というような活動をしてたよ」

「なるほど。おもしろそうだね」

「真理子さんは、何かサークル入ってるの?」

「ううん。何も。バイトと授業で明け暮れる大学生活だよ。わたし今、三年なんだけど、この冬からは就活が始まるし、ほんと大学生活ってあっという間だわね」

「……そうだね。ほんとにね」

「恭介くんは、今何年生?」

「四年」

「えっ、じゃあ、就活は終わったの?」

「うん。……ゴールデンウィーク前に終わった。語学系の出版社に決まったよ」

「そうなんだ。良かったね。大変だったでしょ? 何社くらい回ったの?」

 恭介は「十社以上」と適当に答えた。嘘をつくことに後ろめたさを感じたが、この場でまだ何も決まってない、というのはどうにも決まりが悪いような気がした。面接を受けたこともなしに早々に止めたなどと言ったら、会話も凍り付くかもしれない。

「そっかー、じゃあ後は残りの大学生活を楽しむだけの身分なんだ。羨ましい」

「後は、卒論があるけどね。まあ、これまでで一番暇になるかな」

「じゃあ、何して過ごすの?」

「映画とか読書とか。あとはバイト。まあ、これといって予定はないんだけど。そう言えば、今度ゴダールナイトというのがあるんだけどさ、それ見に行こうかと思ってる。オールナイトでゴダールの映画をやるんだ」

「へぇ、おもしろそう」

「いっしょに行く?」

「そうね。行こうかな」

「今月末の土曜だよ」

「わかった。空けておく」

 そう言うと、真理子はポシェットから手帳を取り出して、メモした。恭介は女子と出会えて、あっという間に会う約束まで取り付けたことに何か奇跡的なものを感じていた。たとえば、取り出した本が『軽蔑』ではなく、他に持ってきたロジェ・カイヨワの『遊びと人間』だったらどうなっただろうか? 会話はまったく違った方向に進んだかもしれない。

 それからも会話は続き、お互いのことをいろいろと話した。恭介は非常に強い「引き」を感じていた。これまでゴダールの映画の話をした異性はいなかったが、真理子もまた同じだったのかもしれない。

 このときばかりは、新幹線のスピードはまったくのおせっかいで、何かアクシデントでも起きないかな、と思ったほどだったが、新幹線は律儀に飛ばしに飛ばして、予定通りに二人を目的地へと運んだ。終点の新潟駅に着くと、恭介は新潟港行きのバスに、真理子は在来線の電車に乗るために二人は駅構内で別れた。「また二週間後に」と恭介が言うと、「そうね。良い旅を!」と真理子は笑顔を見せた。

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