033 竜の愛し子 (ドラグーンのいとしご)

 イルスが駆け戻ると、敵兵に押し寄せられた陣の防衛線は、天幕の間近まで後退していた。味方の兵力はごくわずかだったが、魔法を振るうスィグルに助けられ、意外なほどの健闘を見せているようだった。景気良く吹き飛ばされた甲冑の敵兵たちを、味方の兵が始末していく。どう見ても、まともな戦法とは思えない。

 森から駆け出して、陣を横切り、イルスは剣を構えてスィグルの横に並んだ。

 気配に気づいたスィグルが、脅された猫のように、ひどく機敏に振り向く。引きつった表情のままイルスの目をのぞき込んだスィグルの、針のようだった瞳が、落ちかかるイルスの影のせいで、すうっと丸く開くのが見えた。

「イルス……この、ウスノロッ!! 餓鬼の使いじゃあるまいし、楽しく道草食ってきてる場合か!?」

 憔悴してクマの浮いた顔で、スィグルがわめき散らした。

 乱戦で疲れきったスィグルの顔は、まるで死霊のように青ざめている。それでも、横目で敵の動きを追う様子には、戦い慣れた者に独特の気配と、不思議な余裕があった。イルスは意外な気分でそれを眺めた。

「シュレーは?」

 イルスが早口に問いただすと、スィグルは天幕のほうを顎で示した。

「猊下はご休養中だよッ。いいご身分だ!!」

 首を振って、スィグルが叫ぶ。

 押し寄せてきた敵兵を始末しようと、イルスが踏み込みかけると、目の前に迫っていた山エルフの兵が、ありもしない突風に吹き飛ばされるように後ろへと弾き飛ばされた。獲物を失って、イルスは失速した。

「首級は!?」

 詰問する声に呼びとめられて振り返ると、肩で息をついているスィグルが、吹き飛ばされた敵兵たちに向けて手をかざしたまま、こちらを見ていた。

「捕って来た」

「天幕へ持っていってやって」

 スィグルが天幕のほうをちらちらと不安げに見やる。

「ここは大丈夫か!?」

「大丈夫なもんか! 僕はもう倒れそうだよッ」

 次々と悪態をつきながら、再び押し寄せてきた敵兵を吹き飛ばそうとして、スィグルが手をかざした。敵兵が吹き飛ぶ瞬間、横に立っているだけでも、イルスには、どん、と胸を叩かれるような衝撃が感じられた。

「しまった…」

 舌打ちして後ずさる途中で、スィグルが、何も無い地面に踵をとられて倒れこんだ。肩で息をつくスィグルは、ほんとうにもう疲れきっているように見えた。

 イルスが視線をもどすと、魔法が打ちもらした兵が二人、防衛線を突破してきた。姿勢を低くして走り出し、イルスはそれを迎え撃った。

 戦斧を振りかざして突進してくる歩兵の間合いに飛び込み、イルスは対戦者の胸当ての壷を剣先でなぎ払った。素焼きの壷が大きな弧を描いて飛んでいくのを背後の気配として感じ取りながら、イルスはもう一人の敵の戦斧と向き合う。

 敵兵は気合をこめた声でわめき、イルスに襲い掛かってきた。ふりおろされる戦斧の銀色の切っ先を、ごくわずかに避け、それが肩をかすめて振り下ろされるまでの間に、イルスは敵兵の胸当てにある壷を剣の柄で叩き割った。

 敗北した敵兵を押しのけ、その向こうにいた数人と睨み合う。すると、イルスの剣にひるんだ敵の歩兵たちが、戦斧を構えなおしながら、じわじわと後ずさった。

「ひるむな! 倒せ! 魔道士はもう使い物にならん。決闘の不名誉を雪げるぞ」

 斬り込みかねている敵兵達のうちの一人が、声高に言い、イルスに挑んできた。それに続くように、最後に残った5人の敵兵が、一挙に押し寄せてくる。味方の山エルフたちが、助力にかけつける気配はなかった。だれもが、たった一人の相手にかかりきりになっている。それでなくても、連中には助太刀する気などないように感じられた。

 息をつき、かわいた唇を舐め、イルスは敵を迎え撃つための助走に入った。耳元を行過ぎる風が高く鳴る。地面を蹴って跳ぶと、敵兵たちは釘づけになったように立ち止まって、襲いかかるイルスを見上げた。

 狙ったのは2番目の兵だった。自分が先に交戦するとは予想していなかったのか、イルスの切っ先を受けとめる歩兵の戦斧には、まるで力がこもっていなかった。勢いに押され、海辺の長剣が歩兵の兜をけたたましく掻いた。

 すぐに、とびのいて、イルスは相手が姿勢を立てなおす前に、胸の壷を割った。駆け戻ってきていた先頭のひとりに振り返り、戦斧の回旋攻撃を飛び越えて、胸当てに剣を叩きつけると、乾き始めた黒い血が飛び散った。

「あと3人!」

 イルスが向き直って剣を構えると、残る3人は先鋒を譲り合ってためらった。それを待つのがじれったく、イルスは真中の兵を選んで斬りかかった。

 ひどくゆっくりに見える動きで、3人の兵が、跳びかかってくるイルスを振り仰いだ。跳躍をうけとめた兵は、足場をぐらつかせて倒れこんだ。壷を叩き割ろうとしたイルスの剣を、横にいた兵が突き出した戦斧が遮る。その瞬間の、言いようのない激しい怒りに突き動かされ、イルスは邪魔立てした兵の戦斧を踏みつけた。武器を押さえられて、歩兵はうろたえた。胸当ての壷をめがけて振り下ろされるイルスの剣を見開いた目で追うだけで、敵は、戦斧から手を離すことができないまま、敗残者の列に加わった。

「イルス!」

 枯れた声で、スィグルが叫ぶのが聞こえた。

 気配を感じてイルスがふりかえると、地面に倒れていた一人と、無傷だったもう一人が、同時に襲いかかってきていた。

 舌打ちして、イルスは剣を構えた。助走をつける暇がなく、ただ二人分の攻撃を受けとめるほかにない。押し返した兵は、再び、まったく同時に打ちかかってきた。時をずらせなかったことに、イルスは軽い衝撃を覚えた。しくじったのだ。

 ふたつの戦斧を避け、イルスは後退した。また、同時に攻撃をしかけてくる二人のうちの、背の低いほうに狙いを定め、イルスは相手の懐に飛び込んだ。間合いをつめられて、敵兵はなすすべもなく、イルスの攻撃を受け入れた。

 イルスは急いで姿勢を立てなおしたが、そのときにはもう、風を切る戦斧の切っ先が、自分の胸めがけて振り下ろされてるのが、間近に見えた。走るためにろくな装備をつけていない。だが、力を解放したばかりで、にわかには足が動かなかった。

 イルスは無表情なまま、急速に近づいてくる銀の切っ先を見つめた。半ば無意識の動きで、剣を握りなおしはしたが、間に合わないという確信があった。ほんの刹那のうちに、敵の戦斧が自分の肋骨にめりこむ瞬間が脳裏にうかんだ。不思議と、それを恐ろしいと思わない。

 甲高く風が鳴り、戦斧の切っ先とともに、敵兵の姿が目の前から消えた。

 わけがわからず、イルスは周りを見まわした。疲れて座り込んでいる敗残兵たちの中に、たったいま転がり込んだ一人の姿が見えた。胸当ての壷が割れて、そこから垂れた血が、地面に滴り落ちている。

「僕だよ、僕!」

 恩着せがましいスィグルの声に振り返らされてから、イルスはやっと合点がいった。スィグルが魔法を使ったのだ。

「余計なことを…」

 イルスはとっさに呟いていた。

「なんだって? 助けなかったら大怪我してたよ!」

 顔をしかめて鋭く叫ぶスィグルの言葉に、イルスはため息をついて頷いた。

「そうだな。助かった」

 礼を言うと、戦いの昂揚感が急激にひいていく。

「君が、敵陣でもっと数を減らしてきていれば、僕がこんな苦労しなくて済んだんだ」

 スィグルが、のろのろと立ちあがりながら、文句を言った。

 あたりを見まわすと、そこに生き残っていたのは、味方の兵たちだけだった。

「全部お前がやったのか?」

 感心して、イルスは尋ねた。

「まあ、大半はね」

 胸を張って、スィグルが答える。

「すごいな」

 イルスは本心から、高慢ちきな黒エルフの魔道士を尊敬した。口ほどのことはある。

「当然だよ」

 疲れた顔のまま、スィグルがにっこりと笑った。

 イルスは思わず笑い返そうとした。だが、その笑みは驚きに吸い取られて消えた。 地面が揺れている。イルスは表情を強張らせた。

 かすかな揺れが起こり、それに続いて、ファーーーンと遠くの何かを呼ぶような音が聞こえ始めた。その声が大きく聞こえ始めたころ、どん、と突き上げる激しい揺れがイルスの足元を掬っていったた。

 巨大な何かが、地面の下から体当たりを食らわせてくるような衝撃が、地面から湧きあがってくる。よろめいた姿勢をなんとか立てなおしながら、イルスは汗の流れ落ちる顔をあげた。

 その場にいた誰もが、おびえて立ちあがっている。地面に足をつけているのが恐ろしく感じられた。目を見開いたスィグルが、おろおろと辺りを見まわしている。

「イルス、竜(ドラグーン)だ…!」

 ゆれる地面に足を取られながら、スィグルが駆け寄ってきた。

 竜の声は、狂ったような激しさで、山の空気を振るわせつづけている。

 イルスはとっさに、ベルトに結び付けてあった首級に手をやった。

「天幕は?」

 イルスはスィグルの顔をのぞき込んだ。どん、と激しい揺れが立て続けに襲いかかってきて、ふたりは山の地面に倒れこんだ。もろい岩に、稲妻のような亀裂が走ってゆく。

「まずいよ……戻ろう」

 地面に手をついたまま、スィグルが天幕を振り返った。イルスは頷き、たよりなく揺れている天幕へ向かった。



  * * * * * *



 天幕の中には、血にそまった白い翼が充満していた。その血の匂いと、鮮やかな色を見て、イルスは目を見開いた。

 自分の翼にくるまれるようにして、シュレーは地面に倒れていた。腹を押さえている指が、血で真っ赤に染まっている。体を丸め、横たわる体には、力が感じられなかった。

「猊下、起きろ! 勝たせてやったぞ」

 スィグルがシュレーのそばに膝をつき、蒼白になっている頬を、はたはたと叩いた。

 イルスは少し遅れてから、天幕の入り口をしっかりと覆い、揺れる柱を気にしながら、スィグルと向き合う場所に片膝をついて姿勢をおとした。天幕の床に、おびただしい血のあとがある。これを全部こいつが吐いたのか、と思いながら、イルスはシュレーの顔をのぞき込んだ。

 シュレーは目を閉じていなかった。うっすらと半眼にひらいた目から、灰色がかった暗い緑の目が、どこか一点を眺めたまま止まっている。その正面にある自分のことを、シュレーが見ていないのを感じた瞬間、イルスの心臓がどきんと激しい鼓動を打った。

「こいつ、息をしてない」

 イルスが誰にともなく呟くと、スィグルががばっと顔をあげ、イルスの顔を凝視した。イルスは、ごく短い間、スィグルの金色の目と睨み合った。

 はりつめた視線の糸を断ち切って、スィグルがかすかな悲鳴のような声をもらし、シュレーの口元を掴んだ。スィグルの端整な無表情が、おそろしくゆっくりと、苦痛の表情にすりかわっていく。スィグルが手に息が触れるはずの呼吸の気配を、必死で探しているのがわかった。

「息を、してない」

 スィグルがぽつりと告げる。

「…………死んでる」

 イルスは、自分を見つめるスィグルの視線が、ふっとどこか遠くへ行こうとするのに気づいた。

 イルスは、スィグルの手をどけさせて、シュレーの顔を見下ろした。白い顔には苦悶を押し殺した表情だけが残っていた。ぼんやりと何も見ていない視線には、不思議となんの表情もない。

「おい…シュレー?」

 軽く叩くと、頬はすでに冷たい。

「死んでるんだよ」

 頭を抱えて、スィグルがうめいた。

「死んでる、死んでるよ……もう息をしてないんだよ! 誰が確かめたって同じだ…ッ」

「うるさい!! 黙れ!」

 うずくまってわめくスィグルを、イルスは怒鳴りつけた。

 肩を揺すろうとして触れると、そこを覆う白い翼だけが、異様に熱かった。

 ファーーーーン、と慟哭する声が、真下から聞こえた。それはただの音ではなく、地を震わす激しい振動として、天幕の床を突き上げてきた。

 その慟哭が耳を突く瞬間、シュレーの翼が確かな脈を打つのを、イルスは感じた。その熱さに弾かれる思いがして、イルスは悲鳴をあげ、手を離した。

「翼が……生きてる…」

 イルスの言葉に答えるように、地底から、竜(ドラグーン)の引き絞られた慟哭が、するどく立て続けに聞こえはじめた。

 天幕の入り口が開くのを感じて、イルスは振り返った。外の光に縁取られ、泥まみれになったシェルが、箱を抱えて立っていた。

「ライラル殿下、待ってください」

 天幕の中に走りこんできたシェルは、うずくまっているスィグルの横に座ると、箱を置き、なんのためらいもなく、シュレーの翼に手をかけ、それを押し開いた。

「なにを……なにをノロノロしてやがったんだよッ、お前は!!」

 スィグルが顔を上げ、蒼白になってシェルに食ってかかった。イルスはただ、それを見ていた。

「この、のろま!! お前がもたもたしてるから、こいつは死んだんだッ!! なんでもっと早く来ない! なんでだよ……っ」

「やめろっ、シェルが悪いんじゃない。こいつはちゃんと急いでた」

 シェルの胸倉に掴みかかろうとするスィグルの手を、イルスは鷲づかみにした。

 スィグルが引きつった顔でイルスを睨みつけ、すぐに手を振り払った。スィグルの骨ばった細い腕は、まるで自分も死んでいるように冷え切って、細かく震えていた。

 シェルはそのやりとりに気を取られていない様子で、すぐにシュレーのほうに向き直った。シュレーの力の抜けた腕をとり、イルスの胸につきつけてくる。

「な…なんだ……?」

「手を握ってあげてください!」

 言われるまま、イルスは冷えはじめているシュレーの手を握った。ぬめりのある血の感触がする。シェルが、手甲で覆われたシュレーの左腕から、不器用な手つきでなんとか防具をはずしだす。

「レイラス殿下も!」

 素肌になったシュレーの左手を、横にいるスィグルの顔の前にもっていって、シェルが強い声で促した。しかし、スィグルは激しく首を振って抵抗した。

「いやだ!! 死体なんか…触りたくないッ」

「まだ生きてます、死体じゃありません!」

 食いつくような勢いで、シェルが訴えた。しかし、イルスは自分が握っている手が、もう生きていないのを感じていた。はるか昔、海都の屋敷で握った母の手と同じ、命の残り火のようなほの温さのほかには何も無い、つめたく強張った感触だ。

「だって…ライラル殿下の心をまだ感じます、まだ、死んだわけじゃないです」

 シェルの言葉を追うように、竜が哭(な)いた。激しい揺れとともに、シュレーの翼がかすかに動いた。翼は、なにかを探ろうとするように、ざわりと地面を掃いていく。

 それを避けようと、イルスは思わず立ちあがりかけた。しかし、シュレーの手を離すのが悪いことのように思えて、膝に白い翼が触れるのを、そのままにしておくしかなかった。

「手を握ってあげてください!」

 シェルが、スィグルに詰めよって、命令に近い口調で言った。スィグルは座り込んだまま、怯えた顔でシェルを見上げ、尽きつけられた冷たい手を、まるで刃物でも握り締めるような気配で握った。

「死なないでって、言ってあげてください。心の中でだけでいいんです。助けてあげてください」

 スィグルは、すっかり混乱していて、シェルから何を言われているのか理解していないように見えた。瞳の開いた金色の目が、シェルの顔を食い入るように見ている。

「こんなふうに殺されるなんて、あんまりです。レイラス殿下も、そう思ってください。助けたいって……今だけでいいんです。今だけでも………卵の色のことは、忘れてください。自分の家族なんだと思ってください」

 シェルの強い視線で見つめられ、スィグルが、かすかに頷く。

 シェルは突然イルスのほうに向き直った。

「イルスも」

「助けられるのか?」

「絶対に」

 シェルはきっぱりとした声で即答した。

「絶対に助けます。力を貸してください、お願いです」

 強い意思を顕わした表情のまま、シェルは、大きな緑の目から、ぽたぽたと涙を流した。イルスは目を細めてそれを見た。

「助けてくれ」

 イルスは口を衝いて出た自分の言葉が不思議だった。

「ライラル殿下がいたほうがいいって、言ってあげてください。何度も」

 念を押すように言ってから、シェルは視線をはずした。シェルが、聖刻のあるシュレーの額に手をおいた。目を閉じ、深く息を吸い込んで押し黙るシェルの姿に、スィグルが不安げな視線を向けている。

「助かるわけないよ……だって……もう、死んでるんだぞ」

 スィグルが震える声で呟く。イルスは動揺しているスィグルを落ち着けさせたい気持ちで、黒エルフの少年の顔を見つめた。

「こいつは、竜(ドラグーン)の末裔だ。竜が奇跡を起こして、こいつを助けるかもしれない。見捨てるな」

「そんなわけないよ。そんなわけない、奇跡なんて、起こるわけない……。こいつは天使でも、竜の末裔でも、なんでもない。そんな力なんてない………そんな、力が、あったら…どうして、僕らを救ってくれなかったんだよ!! 僕だって祈ったぞ、闇の中で、こいつに祈ったんだ、ブラン・アムリネスに!!」

 スィグルが泣きそうな顔で眉を寄せ、うつむいた。

「シュレーの力になってやろう。こいつには誰も、頼れる相手がいないんだ」

 イルスは静かに言った。

「いやだ!! 僕はいやだ!!」

 悲鳴のような声で、スィグルが拒否した。だが、スィグルはそれでも、シュレーの手を握り締めているのに、イルスは気づいた。

「誰も僕らを助けてくれなかった! たった二人だけで、闇のなかを這いまわったんだ!! こいつもそうすればいい。弱いから殺されるんだッ!! 自分のせいじゃないか…!! なのに、どうしてこいつだけ、都合よく助けてもらえるんだよッ。なんで僕が……なんで………助けてやれなんて……。こんなやつ死ねばいい…白いやつらなんか、みんな、いくらでも死ねばいい!! 死ねばいいんだッ!!!」

 シュレーの白い手を両手で握ったまま、スィグルは地面にうずくまって絶叫した。イルスは、スィグルが目に見えない血を吐いているように思えた。

「じゃあ、もう、お前は出て行ってもいい」

 イルスが言うと、スィグルは青ざめた顔をあげた。

「……いやだ」

 スィグルの憔悴した顔をイルスは黙って見つめた。

 また、激しく竜(ドラグーン)が哭いた。地面が揺れ、天幕の柱が揺れる。

「…追いついた」

 目を閉じたまま、シェルが顔をあげ、ぽつりと告げた。

 地殻を押し上げようとして竜(ドラグーン)が暴れているように、地面は時折激しく振動している。そのたびに、シュレーの翼が脈を打ち、白い燐光を強くした。

 イルスは冷たくなったシュレーの手を強く握ってやった。その指が、かすかに動いたように思えて、イルスは握った白い手に目をうばわれた。ざわざわと漣(さざなみ)のような微かな震えが、シュレーの腕を行過ぎる。なにかが、体の中を走り回っているように見え、イルスは自分の目を疑った。

 突如、白い翼が激しい光を発して、天幕の天井まで伸びた。鼓膜を打ちぬきそうな激しい竜(ドラグーン)の声と、音にならない不思議な声が、天幕の中に充満し、イルスの脳髄に突き刺さった。

 翼が、急激に縮みはじめ、白い光を放ちながら、シュレーの背中に戻っていく。ずしん、と重いもので背中を叩かれたような勢いで、動かないはずのシュレーの背中が仰け反った。

 長い潜水から浮きあがってきた者がそうするように、シュレーの口が開き、喉をそらして、大きく息を吸い込むのを、イルスは信じられない思いで見下ろした。シュレーの見開かれた緑の目が、恐怖のような、深い動揺のような表情を浮かべている。

「よかった!」

 シェルが叫び、シュレーの額から手を離した。

「そんな……そんなばかな………」

 蘇生の緊張で引きつっている白い手を握ったまま、スィグルがシュレーの顔を覗き込もうと身を乗り出す。

 つい先刻まで、力なくだらりとしていたシュレーの手が、とりあえずそこにあったものを掴む気配で、イルスの手を強く握ってきた。骨をきしませるような手加減のない握力を感じ取り、イルスは安堵の息をついた。

 じょじょに緊張の抜ける体を横たえて、シュレーは不思議そうに天幕の天井を眺め、それから、目だけを動かして、ちらりとイルスのほうに視線をむけた。今はじめて見たのであれば、寝ぼけているのだと思うような、なにげない無表情だった。

「………フォルデス」

 かすれた小声で、シュレーがつぶやいた。

「首級…は?」

 真面目な顔で尋ねてくるシュレーを、イルスはあっけにとられて見下ろした。

「な……なに言ってんだよ、こいつは………」

 わなわなと震えながら、スィグルがうめき、握っていた手を放り出した。

 ファーーーンと竜が声高く鳴いた。顔をめぐらせて、シュレーが耳を地面におしつけ、目を細めてその音を聞いた。

「竜(ドラグーン)だ………」

 地底から響く声と、突き上げるような揺れが、急速に遠のいていき、天幕のなかに静寂が戻ってきた。

「おい…大丈夫なのか、シュレー」

 イルスは、半眼のまま、どことも知れないところを見つめているシュレーに、遠慮がちに呼びかけた。

「……一度死んで、生きかえったような気分だけどね」

 イルスの目を見上げて、シュレーは真顔で答えた。

 イルスはしばらくその意味がわからず、シュレーの顔を見たままじっとしていた。そして、それが冗談だと気づいて、呆れ果て、ため息をついた。

「首級だ」

 ベルトにつけていた革袋から、黒大理石の球を取り出して、イルスはそれをシュレーの手に握らせた。シュレーが首をかたむけて、自分の右手が握っている球に目をやる。

「オルファンは、どうだった」

「お前は卑怯だと言っていた」

「……私が?」

 力なく、シュレーは喉を鳴らして笑った。

「さあ……あとは、凱旋(がいせん)だ。オルファンに、白羽の軍旗が翻るのを見せてやらなければ」

 体を起こそうとするシュレーに驚いて、シェルが手を貸した。

「起きて歩くなんて無茶じゃないですか?」

「マイオス、私の身には何も起こらなかった。私は、ただ戦って、勝っただけだ。立って歩けない理由がない」

 シェルが気まずそうにうつむく。スィグルが憤然と立ちあがった。

「馬鹿馬鹿しい。あんたには、付き合いきれないよ」

 顔を強張らせて言い、スィグルは大またで天幕を出て行った。

「彼はなにを怒っているんだ」

 シュレーが不思議そうに言う。

「俺が怒ってるのと同じ理由だろうな」

 イルスは立ちあがり、腕組みをして、シュレーを見下ろした。

「君もなにか怒っているのか」

 シュレーがいぶかしむように眉を寄せる。

「僕ら、とても心配しました、ライラル殿下」

 シェルがやんわりと説明した。シュレーは自分の背中を支えているシェルに、視線を向けた。

「……そうか」

  困惑している様子で、シュレーが呟いた。

「それで………君たちは、私にどうしてほしいんだ。這いつくばって礼を言えとでも?」

 かるく首をかしげ、シュレーは戸惑いを感じさせる声色で言う。いつになく、たどたどしい話し方をするものだと思い、イルスは笑いをこらえて首をふった。シェルが珍しく苦笑を見せる。

「殿下、解毒剤は?」

 シェルが持ってきた箱を示すと、シュレーはため息をついた。

「…飲んでおくよ」

 箱を開くと、人の指ほどしかない小さな瓶(びん)が、綿にくるまれて沢山並べられていた。色鮮やかな液体が、その中に詰められている。シュレーが疲労の気配のあるしぐさで瓶を選ぶのを見下ろしていると、イルスの脳裏に、森の中でみた未来視のことが思い出された。

 瓶を選ぶ女の指、深紅に染まった翼。

「シュレー……おまえ、誰に命を狙われてるんだ」

 イルスはためらっても仕方がないと思いきり、シュレーに尋ねてみた。

「おそらく、義母(はは)だろう」

「そいつが毒殺師を雇ってるのか」

「……そんなことを、なぜ知っているんだ?」

「未来視した」

 イルスが答えると、シュレーの顔が曇った。

「私が毒殺される未来を見たということか」

 シュレーの言葉には、自嘲の気配が匂っている。イルスは言葉につまって、沈黙した。シュレーの死までを視(み)たわけではない。その危険性を感じさせる内容だったというだけだ。

 だが、未来を見たといったら、それがなにを意味しているのか知りたがって当然だろう。しかし、イルスにわかるのは、脳裏に閃いた光景そのものだけであり、それがシュレーの死を意味しているのだとも、あるいは、大丈夫だとも、なんとも言ってやれない。

「お前を殺そうとしている連中がいるということだけだ」

 イルスが教えると、シュレーは一瞬、露骨に苛立った顔をした。そして、それを隠すようにイルスから目をそらした。

「……そんなことは、私はずっと以前から身をもって知っている」

 シェルが心配そうにイルスのほうへ視線を送ってきた。

「なんとかしなくていいのか」

 イルスはシュレーの横顔を見下ろし、無表情なままの相手の様子をうかがった。

 息を吸い込み、言葉を選ぶように黙り込んでから、シュレーはイルスのほうに顔を向けた。そして、いつにない早口で、一気に言った。

「君は常々、運命は変えられないと思っているようだが、私に関してはそれが可能だとでも言うのか? そんなことを信じられるなら、自分の死のほうを、なんとかしてみせたらどうなんだ。簡単に言うな。私は君とちがって、あきらめたことは一度もない」

 シュレーの顔は無表情なままだったが、彼が怒っているのは明らかだった。

「ライラル殿下、イルスは殿下を助けたいと思ってるんですよ」

 シェルが、まるで責められているのが自分であるかのような慌てようで、口をはさむ。

「助ける? 私を? 君が? どうやって? 私のための奇跡でも起こしてくれるというのか、青い竜(ドラグーン)? それはいつ起こるんだ? 次に私が死ぬときか? それとも、その次か? それとも、その次の、次の、次か?」

 シュレーが顔を歪めて笑い声をたてた。気おされて、イルスは思わず体を引いていた。シェルが物言いたげに何度も口を開き、そのたびに何も言えずに押し黙った。

 笑いながら、シュレーは両手で自分の顔を覆った。疲れきったものの気配がする。

「すまない、フォルデス」

「いや…いいよ。俺が悪かった」

 顔をあげ、シュレーは箱の中の小さな瓶のいくつかを、無造作に選び出した。そして、その中身をためらいもなく飲んだ。

「私は今までに何度か死んだ」

 ありきたりの話をするような口調で、シュレーは話はじめた。

「そのたびに、翼が私を生きかえらせる」

 シェルが眉間にしわを寄せ、シュレーの手元を見下ろしている。

「あれは私に寄生しているから、私がいないと生きていけない。だから私を生かそうとする。私が死にかければ、大抵の毒は自浄するし、怪我も治す。だから、毒殺師のことは、気にしなくていい、フォルデス……神殿種を暗殺するのは容易ではない。私を殺すのはたやすくても…私の翼はそう簡単には死なないからだ」

 深い息をついて、シュレーは自分の肩を支えているシェルの手をどけさせた。シュレーが立ちあがるのを、シェルが壊れやすい人形が運ばれるのを眺めているような落ち着かない様子で見ている。

 だが、シュレーは意外と危なげのない様子で立ちあがった。

「首級を持って行く。マイオス、甲冑を着るから、手伝ってくれ」

 地面に落ちている自分の兜を、緩慢な動作で拾い上げながら、シュレーがシェルに頼んでいる。兜に飾られた白い羽が、黒くくすんだ血に汚れている。

「ライラル殿下、その前に、イルスにこう言ってください。ウェルラ・ヴィエナ、フラ・メルティって」

 シュレーと向き合って、シェルがたしなめるように言った。口調はとても穏やかだったが、その言葉の底には、梃子でも動かない頑固さが感じられる。

「それは、どこの、どういう意味の言葉なんだ?」

 シュレーの横顔が、不愉快そうな表情を浮かべるのを、イルスは笑いをこらえつつ眺めた。

「海エルフ語です。意味を説明するのは難しいですけど、今言うのに、一番ぴったりな言葉です。そうですよね?」

 シェルがイルスの顔を見て、微笑んだ。改めてよく見ると、シェルは泥だらけなうえ、あちこちに引っかき傷をつくっていて、見るも無残な姿だ。イルスは肩をすくめた。

 シュレーが首をかしげ、イルスのほうに顔を向けてきた。じっとこちらを見ているシュレーの目は、どこか迷惑そうな表情を浮かべている。

「言ってくれ」

 腕組みし、顎をあげて、イルスはシュレーを促した。

 一呼吸してから、シュレーはくだらない遊びに付き合ってやるのだという風情で口を開いた。

「ウェルラ・ヴィエナ(すまなかった)、フラ・メルティ(ありがとう)」

 イルスはこらえきれずに苦笑した。

「ひどい発音だ」

「君の公用語よりはマシだよ」

 目を細めたシュレーが早口に反論するのを聞き、イルスは絶句した。シェルが屈託のない笑い声をたてている。

「そうなのか?」

 イルスはシェルに尋ねた。

「そんなことないです。ライラル殿下は、照れてるんですよ。そうですよね?」

 シュレーは自分を見上げて笑っているシェルのほうを、無表情にちらりと見ただけで、なにも反論しなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る