034 落日

 日の傾き始めた山の空に、白羽の紋章を刺繍した豪奢な軍記がはためいている。石造りの広場に立てられた片方の柱には、勝利者を称えるための、ブラン・アムリネスの紋章が、もう一方には、敗者の軍記が柱の半ばまで掲揚された半旗として翻っていた。半旗には、山の部族の継承者を示す、大角山羊(ヴォルフォス)と山百合の紋章が刺繍されている。

 背後ではためく二枚の旗を、シュレーは振り返って眺めた。金糸を輝かせて翻る軍旗の背景で、橙色に染まりつつある、まばゆい空が美しい。

 日没だ。

「勝利将軍に歓呼!」

 腹の底に響くような、力強い声で、学院の教官が命じた。

 壇上から広場を見渡し、シュレーは、武器を打ち鳴らして勝利者の栄誉を称える山の学院の学生たちの一人一人を眺めた。彼らが口々に称えているのは、ブラン・アムリネスの名だ。

 いずれは、彼らに、別の名で自分を称えさせてみせる。山の部族の正統な後継者、シュレー・ライラル・フォーリュンベルグとして、この一人一人のうえに君臨するのだ。

 今この場に集められた学生たちのほとんどは、将来、間違いなく山の宮廷にはべる重臣へと成長していく。その日にも、ここにいる全ての者が、今日、目にしたことを憶えているだろう。どちらが大角山羊(ヴォルフォス)の主にふさわしく、どちらがそうでないかを。

 自分の横に立っている従弟(いとこ)に、シュレーは目を向けた。甲冑を着け、兜を脇に抱えたまま、アルフ・オルファンは歓呼する学生の群れをにらみつけている。

「オルファン」

 シュレーが声をかけると、アルフ・オルファンは、強い視線でこちらを向いた。

「面白い戦いだった。君には感謝している。またの機会が楽しみだ」

 シュレーは微笑んでみせた。オルファンが憎しみの表情を押し隠そうと、歯噛みするのがわかった。

 神殿の血を受けた自分が、どんな容貌をしているのか、シュレーはよく知っていた。大陸の民として生まれた者のなかには、神殿の天使が浮かべる神聖な微笑みに畏れを抱かない者など、いるはずがない。

「君は、私が卑怯だと言っていたのだそうだな。フォルデスから聞いたよ。オルファン、君は今もそう思っているのか」

「義兄(あに)上は…卑怯だ。いまさら戻ってきて、継承者だなどと………!」

 押し殺した声で、オルファンは訴えた。

「あなたの父上は、族長位を捨てて逃げた。神殿種の女を盗んで………部族の面汚しだ!」

 オルファンの言葉を聞いて、シュレーは思わず、微笑みを失った。

「父上が、どんな思いでこの部族を守ったか、あなたは知らないんだ。戦いのさなかの部族を見捨てて逃げ出すことが、どういうことか……あなたは恥に思わないのか。あなたの父上がやったことで、この十数年間、山の部族は神殿からの懲罰を恐れながら過ごした。そのことを、あなたはもっと考えるべきだっ。大角山羊(ヴォルフォス)の継承者にふさわしいのは、あなたではない。あなたは…恥知らずで、臆病な、裏切り者の子だ!!」

「……私の父を侮辱するな」

「神殿に帰れ」

 低く押し殺したオルファンの声は、シュレーの喉元に突き刺さった。シュレーは、無表情なまま、オルファンの目の奥を見つめた。オルファンの目には憎しみが溢れていた。彼を見つめる自分の目にも、おそらく同じものがあるに違いない。

「部族を愛しているというなら、神殿に帰れ。あなたには、族長位なんかより、もっと強い権力があるじゃないか。それでこの部族を守ろうとは思わないのか」

「…私の邪魔をするなら、君も殺す」

 シュレーは、真顔でそれを告げた。激しい歓呼のなかでも、アルフ・オルファンが息を呑む音が、はっきりと聞こえた。

「従弟殿、私は慈悲の天使だ。おとなしくするというなら、君を生かしておくぐらいの慈悲はある」

「ば……馬鹿にするなぁっ!!」

 オルファンは脇に抱えていた兜を、シュレーに向かって投げつけてきた。歓呼していた群集が、一瞬にして静まり返った。

 オルファンは、シュレーと、壇上の教官と、自分を見つめる学生たち、そして、石段を転がり落ちて行く自分の兜を、次々とせわしなく見比べてから、シュレーに目を戻した。オルファンの頬がひくひくと引きつっているのを、シュレーは見下ろした。

「この部族の継承者は僕だ!!」

 喉を引き裂くような声で、アルフ・オルファンは叫んだ。静まり返った広場のすみずみにまで、その声は響き渡っていった。

「父上は……父上は狂った。あなたは、神殿の権力で父上を脅したんだ! なぜそんなことを!! あなたには族長位なんかよりも、もっと大きな力があるのに!! あなたの父上も、あなたも、どこまでこの部族を侮辱すれば気が済むんだっ!!!」

 泣き叫ぶようなオルファンの声を、シュレーはなにも感じられないまま聞いていた。もろい心しか持たない従弟が、目の前で崩れ落ちるのが見える。

 不意に、華やかな女の笑い声が聞こえた。シュレーは驚いて、石壇の下に視線を向けた。

 そこには、十数人の侍女たちを連れ、高貴な者だけに許された衣装で身を飾った、片目の女が立っていた。シュレーとオルファンを見上げ、扇で口元を覆い、女は声高く笑っている。

 オルファンが、ゆっくりと我にかえり、その女を見下ろした。

「……母上」

 くすくすと笑いさざめく侍女たちに囲まれたまま、隻眼の貴婦人はにっこりと壇上を見上げてきた。その女の、年齢に不釣合いな子供じみた微笑に、シュレーはたじろいだ。

「アルフ・オルファン、猊下にお詫びをなさい」

 首をかしげて、冗談でも言うように、女は笑いながら命じた。

 そして、重たげに飾り立てられたドレスのスカートをつまみ、石段をゆっくりと登ってくる。オルファンの横に並んで、自分と向き合い微笑みを浮かべる女の顔を、シュレーは見つめた。

 山の正妃だ。オルファンの実母であり、族長ハルペグ・オルロイのただ一人の妻だ。

 この女の顔は、オルファンとよく似ている。火傷と傷のあとで台無しになった右半面を見なければ、とても美しい。

「なにを黙り込んでいるのです。猊下にお詫びをなさい。そなたの言葉はとても無礼じゃ」

 問い掛けるような表情を片方だけになった目に浮かべて、山の正妃は自分の息子をみつめる。アルフ・オルファンは、わなわなと震えながら母親と見詰め合い、そして、あきらめたようにうつむいてから、シュレーに向き直った

「…義兄(あに)上、どうか……非礼を、お許しください」

 オルファンは、まるで、自分を殺すための呪文を唱えているように見えた。

「わたくしの息子をお許しくださいますわね。猊下はそのための天使でいらっしゃるのですもの」

 微笑みながら、正妃は甲冑を着たままの息子の肩を、愛しげに背後から抱き、シュレーの顔をみつめた。形よく紅を刷いた赤い唇が、血で濡れたように見え、どこかまがまがしく感じられる。シュレーは頭をさげるふりをして、女の微笑みから目をそらした。

「義母(ははうえ)上、もちろんです。オルファンは冗談を言っていただけですよ」

「まあ……亡きヨアヒム様のことを、冗談の種に? オルファン、そなたは悪い子じゃ」

 正妃はオルファンの頬を包み、眉をひそめて息子を叱り付けた。

 ヨアヒムとは、シュレーの父の名だった。その名を正妃が親しげに呼ぶのが、シュレーには、耐えがたい不愉快に感じられた。

「予定より、お早いご到着だったのですね」

 シュレーが声をかけると、正妃は息子の頬から手をどけ、衣擦れの音をたてながら、シュレーのほうに近寄ってきた。

 間近で顔をのぞきこまれて、シュレーは思わず一歩あとずさった。女の服から、濃厚に甘い香木の匂いがする。シュレーは強い匂いが苦手だった。だが、今退くのは、それだけが理由ではない。

「猊下に少しでも早くお会いしたくて、風の馬に乗ってまいりましたの」

 にっこりと微笑んで、正妃はシュレーに手袋をした右手を差し出した。貴婦人の手に接吻するのが山の部族の男の礼儀だと聞いていたが、神官であるシュレーに、そんなことを要求してくるのは、この正妃がはじめてだった。

「接吻してくださいませんの?」

「義母上、私たちは親子です」

「まあ、変わったことを仰るのね。オルファン」

 シュレーのほうに差し出していた右手を、正妃は背後にいる息子のほうへ伸ばした。オルファンがかすかに驚いてから、石壇に膝をつき、母の手をとって、接吻をした。

 それを確かめてから、正妃はシュレーのほうに向き直って、にっこりと微笑んだ。

 白い絹で包まれた手を、女は再びシュレーのほうへ差し出してくる。

「さあ。わたくしに挨拶をしてくださいませ」

 妖しい緑色に光る正妃の左目を見上げたまま、シュレーは石壇に片膝をついた。手をとると、女の肌はほんのりと温かかった。なめらかな感触のある絹の手袋に唇をつけると、甘い香木の匂いが喉につまる。

 正妃の手を返して、シュレーは立ちあがった。扇で口元を隠した正妃の目が、笑っている。

「光栄ですわ」

 正妃はやわらかく言い置いてから、柱の上で翻っている、ふたつの旗を見上げた。

「本日は模擬戦闘だったそうですわね。猊下がお勝ちになったとか…」

 白羽の軍記を見上げる正妃の顔は、夕日の赤い色で染まっている。

「戦がお上手でいらっしゃるのね」

 シュレーに目をもどす正妃は、何を考えているのか計り知れない表情をしている。かすかに微笑んではいるが、それが単なる仮面であるのか、あるいは、彼女が本当になにかを楽しんでいるのか、判断がつかない。

「殿方は、戦がお上手なほうがよろしいですわ」

 しずしずと歩いて、正妃はアルフ・オルファンの隣へ寄り、うつむいている息子の肩に触れた。

「オルファン、義兄(あに)上に戦のことを教えていただきなさい。そなたのお父上も、以前はいつも、ヨアヒム様からいろいろと習っておられたのですよ。兄と弟は助け合って生きるもの。そなたも猊下に仲良くしていただいて、良いことを沢山お習いなさい」

 耳元で告げる正妃の声を、オルファンは目を見開いて聞いている。声をひそめているわけでもないのに、正妃は息子と秘密の話をしているように、悪戯っぽく振舞っている。

「…叔父上のご病状は」

 シュレーは、目の前にいる女に毒を盛られているはずの、族長のことを思った。

「お元気ですわ、あの方は。いつもお元気」

 ぼんやりと答え、正妃はふと空を見やった。

「ああ、日が沈みますわね、もうじき」

 シュレーは暗い山並みの見える空へ目を向けた。女の言うとおりだった。

 いつのまにか、落日の刻限が早くなっている。短い山の夏が、終わろうとしているのだと、シュレーは思った。

 振り仰いだ黄昏の空に、ゆったりとはためく白羽の軍旗が誇らしかった。自分は、圧倒的な不利の中でも、アルフ・オルファンを凌いだ。従弟からの挑戦に立ち向かってやった。

 そう、自分は……勝ったのだ!

 シュレーは、静まり返る広場を、昂揚した目で見渡した。

 今日、この場で感じている、朽ち葉の匂うこの風、あの、震える太陽、血を流す苦しみを、自分は永遠に忘れないだろう。

 山々の稜線に今日の太陽が沈みゆく。古い学院にも、戦いの熱気を押し隠す、ひそやかな黄昏がおとずれようとしていた。

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