026 罪の定義

 無数の小さな悲鳴が、シェルの耳の奥で、熱く鳴り響いていた。それは、追い立てられ逃げ惑うものの、心が叫ぶ悲鳴だった。

 シェルは一人、薄暗い天幕の中で、目を閉じ、耳を塞いだ。耳の奥の血管が、鼓動に合わせて、とくとくと脈打つのが感じられる。

 この声は、このあたりの高山森林地帯に棲息している、地上性の山鳥のものに違いない。この飛べない鳥達は、夏の終わりから冬までの間に、産卵期を迎える。針葉樹の根元に、細い針のような落ち葉で椀のような巣をつくり、そこへ卵を生みつけては、つがいの鳥が交互に温める習性なのだ。森の木々の根元には、足の踏み場もないほどの、朽ち葉の巣が並んでいることだろう。

 悲鳴に引きずられて、少しでも神経を研ぎ澄ますと、騎兵の蹄に踏み砕かれる、小さな生き物の断末魔の気配までが、はっきりとした衝撃になって、シェルの心を苛(さいな)んだ。衝撃を受けるたびに、心臓が激しく動悸する。昂ぶった神経をなんとか鎮めようと、シェルは深い息をつき、自分の心臓の音を聞いた。

 日常、必要もなく心を開放するのは身のためにならないと、年長の森エルフたちから何度躾(しつけ)られても、シェルには、耳で聞く音と、心で聞く音を、はっきりと区別することができなかった。

 それが、どれほど危険な事か、シェルは耳が痛くなるほど教えられてきた。森エルフに特有の感応力は、自分以外の者の喜びや苦しみを、共有するための力だ。もし、自分では支えきれないほどの感情の波が押し寄せれば、それに耐えきれずに、心を押しつぶされて発狂することもある。それを防ぐには、なるべく心を閉ざして生きることだと、大人達はいつも言っていた。

 その力は、特別な時にだけしか使ってはいけないものだ。むやみに使いつづければ、いつかは自分の身に負い切れない力に触れ、それによって息の根を止められるだろう。殊に、相手が強大な自然である場合は、その力をちっぽけなものと侮るのは命取りだ。

 シェルは生まれつき、森の獣や樹木の声を聞くことができた。それはいつも決まって、耳の奥の小さな骨を微かに震わす、意味の無い音として始まった。意識して聞かなければ、それは単なる風の音のようなものだが、心を開いて耳を傾けさえすれば、シェルには、いとも簡単に、人ならぬものたちの声が聞き取れるのだった。

 シェルははじめ、それが特殊なことだとは気づかずにいた。訳のわからない事ばかり言う大人達よりは、森に棲む鳥や獣のほうが、よほど話のわかる相手に思えていたのだ。

 シェルのその能力の強さに最初に気づいたのは、シェル自身ではなく、いつも幼いシェルの遊び相手になっていた、年の近い姉たちだった。

 まだ年端の行かないシェルや姉たちは、王宮から出ることを許されていなかった。何百年も前から生き続けている古木ばかりが、うっそうと枝を茂らせる王宮の庭だけが、シェルや歳若い姉達の遊び場だった。

 その小さな森の中に棲む、動物や鳥や樹木、ささやかな草木や虫の類までが、かすかに囁き歌い交わす声を、シェルは聞き取ることができた。遠くから来る雨を知らせてブツブツと呟く蟻の歌や、朝、次々と目覚めて葉をひろげる樹々のため息までが、人の声と変わりない馴染み深いものとして、シェルの耳に届いていた。

 緑華(りょくか)宮殿と名付けられた王宮は、けして大規模なものではなく、その周囲を樹齢の高い樹々の防壁で、何重にも取り囲まれるようにして建っている、邸宅のようなものだった。王族の誰もが、夜眠る時をのぞいた日々の大半を、緑したたる庭の森をさまよって過ごす習慣だったので、シェルも毎日、姉たちに手を引かれて、森の中をあちこちと歩き回って過ごした。

 狭い森のことで、シェルが物心つくころには、森の中で知らない場所などないほどになっていた。いつ花の蕾が開き、どの巣の雛が巣立つのかを、シェルが誰よりも正確に知っているのを、姉達はひどく不思議がった。だが、シェルにとっては、それが分からないという姉達のほうが不思議だった。朝露を吸った枝々から、花の蕾たちの囁く声が、姉達のお喋りする声となんら変わりないものとして、シェルにはちゃんと聞こえていたのだ。

 緑華宮殿の庭には、はるかな太古から生き続けていると言い伝えられている大樹があり、それを中心にした濃密な動植物の生態系が営まれていた。大樹の名はアシャンティカといい、年老いてなお瑞々しいその樹木は、代々エントゥリオ家の家長とだけ契約を交わしてきた、森の強大な精霊であった。

 アシャンティカの声を聞き取ることは、王族の一員として生まれた者にとって、必要最低限の力だとされていた。王族の子供が、はじめてアシャンティカの声を聞きとった日は、血族をあげての祝い事となる。それは、その子供が、森の一員として受け入れられたことを証明する出来事だからだ。その力を欠いて生まれてきた者は、森では、どうしようもない出来そこないだとして、蔑まれることになる。

 アシャンティカの声を聞けなければ、成人のために必要な、守護生物(トゥラシェ)を探す場所を知ることもできない。

 時が満ちて旅立ちのための空気が整えば、アシャンティカは王族の子供に、それぞれ定められた行き先を囁きかけてくる。

 男子であっても、女子であっても、その時が来れば、アシャンティカに命じられた場所へ旅をして、自分が心を繋ぎ、ともに過ごす守護生物(トゥラシェ)を探さなければならない。森エルフならば、誰しも、守護生物(トゥラシェ)と契約し、その力を分け与えられて生きるものだ。守護生物(トゥラシェ)は守護する者の望むとおりに、様々な力を惜しみなく貸してくれる。それへの代価として、森エルフは森に仕え、守護生物(トゥラシェ)に仕える。そうなってはじめて、子供たちは成人したと認められ、部族の集まりに参加し、婚姻する権利を手に入れることができるのだ。

 守護生物(トゥラシェ)がどんな姿をしているかは、アシャンティカの導きしだいだった。それが、より強い生き物であればあるほど、その者の感応力の高さが証明される。守護生物(トゥラシェ)のほとんどは動物の姿をしているが、中にはそれが植物である者もいた。森エルフの族長の守護生物(トゥラシェ)は、ほかならぬ、内陸の森林地帯最古の古木、アシャンティカそのものだった。

 王族の誰もが、アシャンティカが、「我を見出せ」と呼びかけてくることを夢見ていた。それはつまり、自分こそが次の族長として選ばれたということだからだ。今の族長であるシェルの父は、すでに沢山の子を成して、老齢だった。アシャンティカに守護され、大樹と心を繋ぐことで、ただ人とは比較にならない長寿を生きている父ではあったが、アシャンティカが新しい誰かの守護生物(トゥラシェ)になる日は、そう遠くないと思われていた。

 アシャンティカに旅立ちを促された兄や姉たちは、森の長に選ばれなかった消沈を隠して、つとめて誇らしげに緑華宮殿を出ていった。帰って来る時には、彼らは名実ともに大人になって、守護生物(トゥラシェ)とともに現れる。守護生物(トゥラシェ)が植物だった場合には、旅立った子供が、それきり帰らないこともあったが、気難しい古木が契約に応じることは稀だった。

 契約した守護生物(トゥラシェ)の命が尽きるまでは、守護生物(トゥラシェ)の習性に従い、その傍らで生きるのが森での掟だ。四六時中、そばに居なければならない訳ではないが、守護生物(トゥラシェ)の心の声を常に聞いていることが、とても大切なことだと考えられているのだ。

 13才になった今でも、シェルにはまだ、守護生物(トゥラシェ)がいなかった。

 アシャンティカは、いつも気安くシェルに語りかけてくれたが、いつまで待っても、旅立ちを促してはくれなかった。

 シェルは、誰よりも早く、強い感応力を発現させ、誰も聞くことができないほど微かな森の声を聞き取ることができたが、それは結局、シェルを緑華(りょくか)宮殿の奥深くへ閉じ込めただけだった。周囲の感情の変化に過敏なシェルを、姉たちは過保護に扱い、あらゆる悲しみや苦しみから遠ざけようとした。優しい姉たちは、感応力に恵まれすぎた幸運で哀れな弟が、ふとしたはずみで心を打ち砕かれるのではないかと、いつも心配ばかりしていたのだ。

 守護生物(トゥラシェ)を伴って戻ってきた兄たちからは、旅立ちの遅いことを、いつも冗談の種にしてからかわれた。感応力の強さだけをとれば、自分たちよりもはるかに強い力を持っているはずのシェルが、そうやって落ちこぼれているのは、兄たちには少しばかり気味が良かったのだろう。

 姉たちは、時折、シェルこそアシャンティカを守護生物(トゥラシェ)とする者かもしれないと噂をしていた。大きな樹が育つまでには多くの時間が必要なように、アシャンティカと契約するほどの者が生まれるまでには、長い時をかけなければならないのだと。

 シェルは、姉たちの噂が嫌いだった。もし、アシャンティカが自分に、「我を見出せ」と語りかけてくる時が来たとしたら、それは、族長である父が世を去る時だ。シェルにとって、それは想像するのさえ厭わしい、悲しいことだった。

 年老いた父は、いつも王宮の森の奥の、大樹アシャンティカの根元に座っている。遠く離れていて、顔を合わせることがなくても、高い感応力を持つ父の心が、いつも自分に優しく触れるのが、シェルには感じられた。父の心には、部族への愛や、それを包む森への愛、そして、我が子を愛しむ優しい気持ちが溢れていた。

 家族という親しい間柄であっても、複雑な心と感情を持つ、人と人が心を触れ合わせるのは、とても危険なことだ。よほどの好意で結ばれた相手とでなければ、お互いの心に触れ合ったりはしない。それは、深い愛情を示し合う時や、心に傷を受けた者と、その痛みを分け合って癒す時に限られる。

 その慣わしを易々と越えて、気安く語りかけてくれる大樹アシャンティカや、慈愛に満ちた父のことが、シェルはとても好きだった。ふわりと呼びかけてくるその声に応えるのは楽しかった。強大な意思と心を持った、威風堂々の古木たちの言葉を聞くのも、ごく単純な言葉しか理解できない、いたいけな虫たちの歌も、シェルを陽気な気分にさせた。シェルはいつも、森に棲む全てのものを、自分の一部のように愛していた。

  それから切り離されることなど、考えた事もなかった。

 だから、ある日アシャンティカが呼びかけてきて、森を出るように告げた時も、少しも悲しいと思わなかった。

 大樹アシャンティカは、森を出て、はるか遠いトルレッキオへ行けと、シェルに命じた。そしてそこで、守護生物(トゥラシェ)を見つけろと。

 ついに旅立ちの時がやってきた。それを知った母や姉たちは、毎日を泣き暮らした。シェルは彼女たちが何を悲しんでいるのかが、よく分からなかった。アシャンティカは、王族の末子であるシェルにも、「我を見出せ」と告げはしなかった。父が世を去るのは、まだ当分先のことなのだ。それを喜びこそすれ、泣きたい気持ちになどなるはずもなかった。

 緑華宮殿の小さな森を出て、新しい世界に触れることを思うと、シェルの胸は躍った。自分の守護生物(トゥラシェ)と出会えることも、シェルの気分を明るくさせた。探し出すまでに、どれくらいの時間がかかるかは分からないが、アシャンティカが示す先に、守護生物(トゥラシェ)がいないわけは無い。大樹が示す行き先には、つねに希望が待っている。それは、今までにアシャンティカの示した道を旅してきた多くの者が、証明してきた事実なのだ。

 いや。そのはずだった。

 シェルは、誰も居ない天幕の奥で、耳を塞ぎながら、必死で遠い森にいるアシャンティカに呼びかけた。

 だが、何度呼んでみたところで、聞こえてくるのは、騎馬兵に踏み荒らされる森の悲鳴ばかりだ。蹄から逃げ惑う、親鳥達の甲高い悲鳴。あっけなく潰れて行く卵がたてる、言葉にもならないような漠然とした不吉な気配。荒荒しい馬達の吐息。それを見つめているはずの、この地の樹々は、沈黙しているばかりで何も語ろうとしない。

 アシャンティカの声は、どこからも聞こえなかった。

 シェルは、森からも家族からも、すっかり切り離されていた。なにかを傷つけることを厭うはずの彼らが、黒エルフの双子と王妃を拷問にかけたわけを問いただしても、シェルの耳には、どんな答えも返ってはこなかった。聞こえてくるのは、逃げ惑い喚き立てる声、ただ、そればかりだ。

 シェルは癒されたかった。故郷の森が懐かしかった。あの地では、何もかもが調和の中にあって、不必要に傷つけあったり、意味も無く戦ったりする者などいなかった。少なくとも、シェルにとっての世界は、今までずっと、そのように営まれていたのだ。

 森の墓所の生贄に。

 シェルは自分の心に深く突き刺さっているその言葉を、何度も反芻しては、記憶の中にある、緑華宮殿の森をさまよった。風にざわめく梢、柔らかく湿った苔、樹々にからみつく、鮮やかな蘭の群生、鳥の声、甘い草いきれ、かわるがわる呼びかけてくる、優しい古木たち。

 墓所はその森の深部にあった。アシャンティカの根元に。大きな石の蓋が落とされた、うつろな洞窟の入り口。族長である父は、いつも、苔むしたその石の上に腰を降ろしていた。

 一度だけ、シェルはその石蓋の下にあるものについて、父に尋ねたことがある。すると父は、アシャンティカの根だ、と答えた。王族のものが死ぬときは、みなアシャンティカの根に抱かれて永遠の眠りにつき、再び森の土へと還るのだと。今生を終えた森の部族の者が、永遠に護られて眠るために、このような場所は、森のあちこちに数知れずある。そのそれぞれを、森の大樹が護っている。どの樹々もみな、アシャンティカの僕(しもべ)だと、豊かに年老いた族長は誇らしげに語った。

 アシャンティカは、はるかな高みにある梢をふるわせて、いかにも、そうだ、と付け加えた。その得意げにおどけた気配を感じ取ると、シェルは微笑まずにはいられなかった。

 アシャンティカは森の精霊王だ。森の部族の者たち全員に愛されている偉大な存在で、大陸深くに根を張り、その隅々までを知り尽くした知恵者だ。シェルは、大樹アシャンティカの知識の深さを、いつも心から尊敬していた。

 アシャンティカが知らないことなど、なにもない。そう。だから、アシャンティカは知っていたに違いない。森のどこかで、墓所に閉じ込められた黒エルフの双子がいたことを。そして、誰よりも優しいはずの大樹は、それには少しも心を痛めなかったのだ。

 その事実が、今は、シェルの心を深く抉(えぐ)っていた。

 アシャンティカは森エルフの民の守護生物(トゥラシェ)だ。大樹は何百年もの時を生きつづけ、森エルフを護ってくれた。父が部族を愛し、慈しんでいるように、アシャンティカも、森の部族を深く愛し、大切に思ってくれている。

 あの、うっそうと生い茂る、深く豊かな森と、その僕(しもべ)である者たちだけを。

 シェルは、この山深い土地で、自分の守護生物(トゥラシェ)など見つかるわけがないと思った。自分は、アシャンティカに見捨てられたのだ。姉たちは、それを知っていたのだ。だから、あんなに泣いて、別れを惜しんだ。

 だが、その姉たちも、とめどない涙を流しこそすれ、結局は、シェルをこの異郷へと送り出すのを止められはしなかった。

 シェルは、どうしようもない激しさで、逃げ出したいと思った。しかし、自分が何から逃げたがっているのか、そして、どこへ逃げ帰ろうとしているのかは、シェル自身にさえ、少しもわからなかった。



  * * * * * *



「シェル・マイオス」

 苛立った声で呼びかけられて、シェルはハッと顔をあげた。その声は、まぎれも無く人の喉から発せられる、本物の声だった。

 天幕の入り口に顔を向けると、まばゆい外の光を染め抜くように、ほっそりした人影が立っていた。

「出ろ」

 砂漠の訛りのある公用語だった。

「…レイラス殿下」

 シェルはかすれた声で、戸惑いながら呼びかけた。黒エルフのスィグルが、自分に話しかけてくることなど、もう永遠にないと信じていたので、その意外さがシェルを驚かせていた。

「立てよ」

 つっけんどんに言い、スィグルは天幕の入り口にかけられた布を乱暴にはねのけて入ってきた。シェルは思わず、弾かれたように立ちあがっていた。

 スィグルは、机の上に置いてあった地図を掴んで、沢山の駒を乗せたままのそれを、おかまいなしに引き抜いた。駒が次々と地面に落ちるのを、シェルは胃の痛くなるような思いで見守った。

「でも…でも僕は…戦いには参加しません」

「猊下も、腰抜けのお前には何も期待してないだろうさ」

 地図を筒に丸めながら、スィグルは付け入る隙の無い早口で、シェルの言葉を遮った。

「それじゃあ…何のために呼ばれたんですか」

「閲兵(えっぺい)だ。突っ立って猊下の話を聞いてやればいい。それくらいは付き合えるだろ。お前を呼んで来いって、神聖な猊下からのお言いつけなんだ。言う事をきけ」

 スィグルは、細い瞳をそなえた黄金の目で、じろりとシェルを睨み付けた。アシャンティカの根元にあった石蓋のことが頭をよぎり、シェルはとっさにその視線から逃れた。

「レイラス殿下、あの…この前のこと、謝りたいです」

「なにを? なにを謝るんだ。お前に謝って欲しいことなんて何もないよ」

 ため息混じりに、スィグルが言った。

「たくさん、失礼なことを言いました。かっとして…ろくに何も考えてなくて」

 足もとの地面を見下ろして、シェルは謝罪した。

「……………」

 スィグルの物言いたげな沈黙が、じわりと天幕の中を息苦しく満たした。

「あの後、いろいろ考えてみたんです。僕なりに。でも…どうしたらいいか、思いつかなくて…」

 シェルは思いつくことを整理する余裕も無く口に出した。

「……本当なんですか。あの時、ライラル殿下が言っていたこと」

 自分が事実を確かめたいのか、嘘だと言って欲しいだけなのか、シェルにはもう、わけが分からなかった。

「お前、ほんとうに何も知らないのか」

 スィグルは微かな声で尋ねてきた。シェルは思わず答えあぐねた。本当に何も知らなかったからだ。

「僕の部族が、そんな事をできるはずがないです。感応力のある者が、誰かを傷つけるなんて、自分を痛めつけるのと大して変わらないことなんですから」

 スィグルが話を聞いてくれている風だったので、シェルは必死で説明した。

「教えてやるよ」

 つっけんどんな言葉と一緒に、羊皮紙の地図が投げ渡された。あわててそれを受けとめ、シェルは机越しにスィグルと向き合った。

「安心しろ。お前のお優しい同族たちは、直接は手を下さなかったよ。お前らはいつも、傭兵を雇うんだろう。内陸にはいくらでも貧しい部族がいて、連中は金を見せれば何でもするってさ。お前らはいつだって、それを笑って見ているだけだ。戦場にも、妙なケダモノを連れて現れて、そいつらに戦わせるんだ。お前らは、手を汚すのがよっぽど嫌いらしいな。でも、直接やらなかったからって、それで綺麗なつもりかよ? 何も知らないだって? それがどうした。何も知らないから、自分にだけはにこにこ笑って、一緒に茶のみ話でもしてほしいってのか、坊や?」

 突然、言葉を失ったように沈黙して、スィグルは深い息をついた。

「……………いや…お前が悪いんじゃないんだよな」

 なにかを押し殺したような声で、スィグルが低く呟いた。彼の言葉は、シェルにではなく、彼自身に向けられたもののように聞こえた。こちらを睨みつけているスィグルの目元が、かすかに震えるのが見えた。

「僕…どうしたらいいですか。どうしたら、許してもらえますか」

 自分の声が明らかに震えているのを感じながら、シェルはなんとかスィグルの顔から目をそらさずに問い掛けることができた。

 スィグルは、黄金の目で、シェルの顔をじっと見つめている。天幕の薄闇の中で、その目はかすかに光っているように見えた。

「お前の……指をよこせ」

「…え?」

 意味が分からず、ぽかんと問い返すシェルの顔から、スィグルが目をそむけた。

「今の…どういう意味なんですか」

 スィグルは鋭い視線を、足元の地面に向けていた。

「そのままの意味だよ。お前が自分の指を全部切り落としたら、何もかも許してやってもいい」

 シェルは言葉もなかった。

「それ……本気なんですか。本気で言ってるんですよね」

 泣き出しそうな気分で、シェルは早口に問いただした。

「やれるっていうのか、お前みたいな甘っちょろい坊やが。じゃあ、やってみせろよ。ぜひ拝ませてもらいたいね」

 顔を上げ、語気荒く言うと、スィグルは腰に帯びていた曲刃の剣を抜き放ち、机の上に投げて寄越した。研ぎ上げられた砂漠の蛮刀が、水で濡れたように冷たく光った。シェルは思わず体を退いてしまった。

「拾え。やれよ。やって見せろ。切り落とせ。度胸がないなら、僕がやってやろうか。お前らが僕の母上にやったみたいにな!」

 ささくれた大声で、スィグルが怒鳴った。シェルは震えた。

 言い終わらないうちに、スィグルが音高く机を叩いた。彼が、ふうっと荒い息をつくのが聞こえた。

「……怖いか、シェル・マイオス?」

 机に手をついたまま、スィグルが尋ねてきた。シェルは少し迷ってから、頷いた。

「こ…こわいです」

 上目遣いにシェルを見上げて、スィグルが薄く笑った。

「それが自覚できるっていうのは、心底怖がってない証拠さ。お前は僕が本気じゃないと思ってるだろ。そうやって逃げ回ってれば、僕があきらめると思ってる」

 机の上の剣を拾い上げて、スィグルはのろのろと、それを鞘に戻した。

「もういいから。僕とは関係無い場所で生きてくれ。僕はお前が嫌いなわけじゃない。森エルフが嫌いなだけだ。僕の前から消えてくれれば、それで許してやる」

 シェルはなにか口を利こうとしたが、息を吸い込んだだけで、何も声にならなかった。胸の奥がジリッと焼けるような感覚がして、シェルはいやな味のする唾を飲み下し、あわてて心を閉ざした。スィグルの押し殺した声からは、燃えるような憎悪が感じられた。

「………他には、何もするなって事ですか。レイラス殿下は、僕の指が欲しいんですか」

 やっとのことで、シェルは問い掛けた。スィグルが不愉快そうに片眉を吊り上げる。

「お前に何ができるっていうんだよ?」

 美しい顔をしかめて、黒エルフは低く囁いた。

「僕らが味わった苦痛がどんなものか、お前なんかに分かるのか?」

 かすれた声で問い詰めてくるスィグルの言葉に絡みつくようにして、水の滴るような音が聞こえた気がした。シェルは慌てて気を引き締めた。スィグルの心を覗いてしまいそうな気がしたのだ。そんな無作法なことをして、これ以上、嫌われたくなかった。

「わかりません。でも……分かったら許してもらえるんですか」

 シェルが恐る恐る顔をあげると、スィグルは顔をしかめ、ふいと視線をそらせた。

「……いいや」

 シェルに背を向けて、スィグルは天幕を出て行くそぶりを見せた。

「さっさと来い。ブラン・アムリネス猊下に嫌味を言われるのには、もう飽き飽きしてるんだ」

 スィグルはシェルを待つ気配も見せず、入ってきた時と同じように、足早に天幕を出ていった。

 丸めた地図を抱きかかえたまま、シェルはうつむき、自分のつま先を見下ろした。

 スィグルの心の中に何があるのかを知るのは、それほど難しいことではない。生まれつきの感応力を使えば、彼の心の奥底に眠る感情のひとつひとつを、まるで自分のもののように辿ることだってできる。

 知りたいような気がした。それ以外には、スィグル・レイラスを理解するための糸口が何もない。彼が、森の墓所で何を聞き、何を見たのかを知ることができれば、スィグルが送りつけてくる憎しみのわけも、納得できるに違いない。場合によっては、感応力を使って、傷つけられた彼の心を癒すことも可能かもしれない。

 だが、森の掟は、同意のない相手の心に触れることを禁じていた。それは、シェルが知っているかぎり、この世で最も恐ろしい罪だった。

 しかし、それが、もっと大きな罪を償うために必要なのだったら。

 顔を上げ、シェルは天幕を出た。高山の澄みきった日差しが、シェルの顔にふりかかった。まぶしさに目を細め、シェルは、陣に並んだ山エルフの騎兵たちを眺めた。全身を甲冑で覆い隠した彼らは、どれが誰なのか、まるで判別がつかなかった。

 スィグルはその群れからはずれた場所に、腕組みして立っていた。ほとんど甲冑をつけていない軽装で、出撃の準備を整える山エルフ達に、いらいらと穏やかでない視線を向けている。彼の側には、誰もいなかった。何者も寄せ付けないような気配が、スィグルの周りに漂っている。

 心を覗くのは簡単なことだ。側へ行って、相手の体に触れられさえすれば、感応力を働かせて、心を寄り合わせることができる。

 シェルは、遠めにスィグルを見つめたまま、羊皮紙の地図をぎゅっと抱きしめた。

 「閲兵を行う。全員整列」

 よく通る強い声で呼びかけられ、シェルはびくっと体を引きつらせた。声のするほうに目を向けると、兜を抱えた甲冑姿のシュレーが、こちらにやって来るところだった。

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