025 決戦
学院の南斜面を見下ろす峰に、シュレーが率いる東軍の陣が用意されていた。背後には谷、敵を迎え撃つ正面には、開けた森があるばかりだ。
斜面の南、森がまばらになる辺りに、義弟の率いる西軍の陣が見えた。遠めにも良く目立つ、金糸で山羊の紋章を刺繍された、アルフ・オルファンの軍旗が見える。その紋章は、山エルフ族の族長であり、フォーリュンベルグ家の家長である者を象徴する大角山羊(ヴォルフォス)に、その長子を示す、白い山百合の意匠がそえられたものだ。それは、アルフ・オルファンのために作られた意匠ではなく、代々の長子、すなわち山の部族の継承者が使用してきたものだった。
「おい、猊下(げいか)」
不満げなスィグル・レイラスの声に呼びかけられて、シュレーは振りかえった。見れば、そこには、甲冑の胸当てをつけただけという、ごく簡単な装備で、つんと顎をあげた黒エルフの王子が立っていた。
「甲冑を着けないのか、レイラス。練習用になまらせた馬上槍(ランス)でも、防具もなしにまともに受ければ、肋骨の一本や二本は確実にやられるぞ」
自分の胸郭を覆う甲冑を軽くこつこつと叩いて見せて、シュレーは忠告してやった。しかし、どうせこの生意気な黒エルフのことだ。異民族の武具を身に着けるのを嫌って、わざとそうしているに違いない。
案の定、スィグルはふんと鼻で笑っただけで、シュレーの忠告を受け流した。
「あんた、まさか本当に、馬上槍(ランス)で突つきまわされる気なのか。冗談だろう。負けるんだったら、さっさと負けてほしいね。日没までこき使われて、そのあげく惨敗なんて、うんざりだよ。とんだ茶番もあったもんだ」
煩わしそうに胸当てについた素焼きの入れ物に触れて、黒エルフは文句を言った。
「茶番か…まったくだ」
薄く笑って、シュレーは陣の奥にしつらえられた、簡単な天幕へ視線をやった。騎兵のための馬が並べられ、気の乗らない風な、山エルフの学生たちが、憂鬱そうに手綱をもてあそんでいるのが見える。しかし、イルスとシェル・マイオスの姿は見えなかった。彼らは、天幕に引っ込んでいるのかもしれない。
「さっさとあの旗を降ろして降参したら?」
首を巡らせて、スィグル・レイラスが陣に掲げられたシュレーの軍旗を示した。旗には、天秤の上に心臓と羽根を乗せた、ブラン・アムリネスの紋章が刺繍されていた。その紋章は、神殿を出た時から、シュレーのものではないのが建前だが、新たな紋章を与えられていないこともあり、誰もがそれをシュレーのものと見なしているのだった。
「私がオルファンに負けると思ってるのか」
「負けないとでも思ってるのかい。あんたじゃなくたって、普通は負けるよ。だって向こうはこっちの2倍なんだぞ。自分より強い敵に向かっていくのは、馬鹿のやることだ。父上もそう仰っていた。自分の方が弱い時は、さっさと撤退するものさ。いくら悔しくたって、強くなって戻る以外に、方法なんてないだろう」
ため息をつき、スィグルはしたり顔で説教した。この黒エルフが言うにしては、耳を疑うほど常識的な意見だった。シュレーは笑った。
「猊下、あんたはここでは邪魔者なんだ。勝ち目はないよ」
「ご指導ありがとう、レイラス。しかし私は面と向かって挑戦されて、すごすごと引き下がれるほど、恥知らずではないんだ」
「恥?」
眉をひそめて、スィグルが呟いた。
「もう充分辱められてるよ、猊下。連中がなんて言ってるか聞いてみな」
天幕のあたりにたむろしている、金髪に白い肌の山エルフたちを見やって、スィグルは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「オルファンの敵のために戦ったって、何の意味もないんだとさ。神官崩れの指揮なんて目も当てられないに決まってるから、さっさと戦死して、死体置き場で休んだ方がマシらしいよ。そもそも、この模擬戦闘は、オルファンを勝たせるための芝居みたいなものだ。山エルフの連中は、みんな、前もってそういう話を聞いてるんだよ。猊下、あんたは昨日からずっと、学園じゅうの笑い者だったってことさ。それを知らずにいたのは、あたんと、僕とイルスと、それからあの森のハナタレ坊やくらいだ」
「たいそう自尊心の傷つく話だ」
笑いながら、シュレーは答えた。スィグルは、その声を聞いて、さらにむっとした顔をした。
「……まさか、降参しない気なのかい」
「どうして、わざわざそんな事を聞きに来るんだい。私の指揮が気に食わないなら、君もっさと死体置き場へ行けばいいのじゃないか、レイラス」
シュレーが答えると、スィグルはうつむき、小さく舌打ちをした。
「いやだ」
刺のある小声で呟き、スィグルはため息とともに顔をあげた。
「あんたの不名誉に付き合わされて、どうして僕まで負けなきゃならないんだ。山の者の馬上槍(ランス)に屈服したなんて、アンフィバロウ家の名折れだよ」
「せいぜい、頭蓋骨を割られないように気をつけるといいよ、魔導師殿」
腕を組んでふんぞり返っているスィグルが面白く、シュレーは小さく笑い声をたてた。
「フォルデスは? 彼も降参を勧めてたかい」
「イルス?」
ますます不機嫌そうになって、スィグルは憎たらしそうに相棒の名を口にした。この黒エルフの少年は、不愉快だということを示す表情を、数え切れないほど持っているらしい。
「イルスがそんな事考えるわけないよ。窮地に立たされた戦友を見捨てて逃げるくらいだったら、何かの虫に生まれ変わったほうがマシだとかなんとか言って、やる気満々だよ。海エルフってどうしてああなんだ。どんなに強いつもりか知らないけど、イルスの頭もたかが知れてるね!」
苛立った様子で、スィグルはぺらぺらとなめらかに文句を言った。どうやら、この高慢な黒エルフは、自分の意見が通らなかったことに、よほど腹が立つらしい。
「フォルデスが君の決闘騒ぎに付き合ってくれたのも、その虫に生まれ変わるのが嫌だったからじゃないのか。散々迷惑をかけておいて、今更彼の性分を恨むのは良くない」
「僕は決闘に付き合ってくれって頼んだわけじゃないよ。イルスが勝手にやったんだ」
少しは後ろめたいのか、スィグルの言葉には勢いがなかった。
「じゃあ、私も君にはこの茶番に付き合ってくれと頼まないことにしよう。君が勝手にやってくれ」
にやりと笑って、シュレーは答えた。
「…口ばっかり達者だな、猊下」
押し殺した声で、スィグルが毒づいた。
「私は口以外も達者だよ。さあ、作戦会議をするから、天幕へおいで、レイラス」
シュレーは天幕に向かって歩き出した。あっけにとられた様子で、スィグルがシュレーの背中に言葉を投げ付けてきた。
「なんで僕が作戦なんか考えないといけないのさ。あんたの戦(いくさ)だろう」
「雑兵として使い捨てられるのが好みなら、べつに無理強いはしないよ」
言い捨てて、シュレーは振りかえらずに歩きつづけた。自分の自尊心にひどく正直な黒エルフが、この言葉に逆らえるはずが無いのは、分かりきったことだった。
「畜生、嫌味なヤツだ! もうちょっと普通に話せないのか!」
屈服した気配で、スィグルが怒鳴った。
「君にもその言葉をお返しするよ」
スィグル・レイラスが近づいてくる足音を聞きながら、シュレーは振り向かずに答えた。
* * * * * *
天幕の中に入ると、そこには簡素な机があり、模擬戦の戦場となる南斜面の地図が広げられていた。その前にある椅子に腰しかけ、イルスが頬杖をついたまま、見るともなしに地図を眺めている。
天幕の奥には、まるで哀れな捕虜のような風情で、シェル・マイオスが腰掛けていた。彼は誰とも口を利きたくないという様子で、ぎゅっと握り締めた拳を、行儀よくそろえた膝の上に置き、うつむいていた。
シュレーはため息をつき、イルスの後姿に呼びかけた。
「良策でも浮かんだかい」
「あいにく、そんな都合のいいものはない」
シュレーが声をかけても、イルスが振り向く気配はなかった。天幕に誰が入ってきたのかが、その姿を確かめるまでもなく、彼には分かっているらしかった。
「負けるに決まってるさ」
遅れて天幕に入ってきたスィグルが、無愛想に言い放った。
「シュレーを説得できたのか、スィグル」
振り向きながら、答えを知っている風に、イルスが尋ねた。スィグルが忌々しげに咳払いをした。
「できるわけないだろ、この石頭、さすがは山エルフの血が半分流れてるだけあるよ。負けるってわかってても、絶対に退こうとしないんだから。馬鹿馬鹿しい。日が傾く前に全滅は確実だ!」
「戦力差が倍あるくらいで、怖気づくな」
苦笑して言うイルスは、場違いなほど平然としていた。負けるのが悔しくないのか、勝てるつもりでいるのか、それとも、芝居がかった模擬戦闘など、どうでもいいと思っているかだ。シュレーは黙って、イルスの表情をうかがった。
「誰が怖気づいてるんだよ! 馬鹿馬鹿しいって言ってるんじゃないか! 一生懸命やればいいなんて、下らない事考えてるんじゃないだろうね、イルス。そんなお綺麗な考え方なんて、何の役に立つっていうんだ。そんなもの、砂牛の耳の毛ほどの価値もないよ!」
畳み掛けるようにわめくスィグルを見て、首を傾げ、イルスが言った。
「それはどの程度の価値なんだ?」
「そんな、今はどうでも良いような事を、いちいち聞かないでくれよ!」
スィグルは息を切らせて熱弁を振るっている。腕組みして、口元に手をやり、シュレーはイルスの横顔を眺めた。そして、少し考えてから言った。
「フォルデス。君は何人までなら倒せる自信がある? 40人は無理か」
「猊下、イルスに一人で戦をさせようっていうのかい」
馬鹿にした口調で、スィグルが混ぜ返した。微笑み返して、シュレーは机に広げられた地図に指をおろした。
「ここが今いる東軍の陣地。こっちがオルファンの西軍だ。見てのとおり、私たちの陣は森に向かって開かれていて、背後は谷、退路がない。先に打って出るには兵力が足りないので、やはり防衛戦ということになるだろうが、騎兵だけを取っても、向こうはこちらに10騎も勝る。レイラスが言うように、ここを押し崩されるのは時間の問題だ」
騎兵を表す駒を、地図の上に並べながら、シュレーはゆっくりと話した。敵の騎兵は30騎、それに対して、味方は20騎。そして、敵の歩兵は40、こちらは格段に少なく、たったの10名だ。山エルフ族の戦法の主体が騎兵による馬上槍(ランス)戦だとは言っても、歩兵の不足は嫌味なほどだ
「持ちこたえたところで、残存兵の数で勝負が決まるんだろ。そういう事なら、始める前から負けてるよ」
オルファンの軍の騎兵を表す駒を指先で弾き飛ばして、スィグルが腹だたしそうに口を挟んだ。騎兵の駒は、ころころと転がって、地図の端まで飛んでいった。机からこぼれおちかけたその駒を、イルスの手がひょいと救い上げた。
「日没までに、お前の義弟(おとうと)の首をもらえばいいんだろ」
地図の上の駒を見下ろし、イルスがあっさりと言った。シュレーは満足して頷いた。
「そういうことだ」
スィグルがあきれたと言いたげに首を振る。
「攻めに出たって、向こうの方が強いのは変わらないよ。戻る場所もなくなって、殲滅されるのが関の山さ。袋叩きにされたいわけか、猊下?」
「陣の護りを固めて、オルファンの軍を誘い出す。オルファンはせっかちだ。はなから勝ちを確信して、全騎兵を投入してくるだろう。すると西軍の陣は手薄になる。おそらく、戦斧の歩兵が半数ほど残っているだけだ。陣が持ちこたえている間に、敵陣まで行き、オルファンの首を取り、陣まで戻る。できそうだと思うか、フォルデス」
「ちょっと待って」
答えようとするイルスの顔の前に手をかざして、スィグルがすばやく止めた。
「どうしてイルスが行くことになってるんだよ」
スィグルは上目遣いにシュレーを睨んだまま、顎でイルスを示した。
「この中で一番腕が立つからだ。彼が断ったら私が行く」
刺々しいスィグルの口調がおかしく、シュレーは笑いながら答えた。
「へえ、猊下御自らのお出ましで? ずいぶんと後のない計略だね」
筆で刷いたような形のいい眉をひそめ、スィグルが嫌味たっぷりの声を使った。
初めて会った時からずっとそうだったが、この黒エルフは、まったく気後れする気配も無く、シュレーの目を凝視してくる。それは彼らの部族の風習に近いものだというが、視線を合わせることはおろか、シュレーの顔を見ることも畏れるような者ばかりの学院に、すっかり慣れはじめていた今では、こうやって睨みつけられるのには少々抵抗があった。
「お前の首を取られたら負けになるぞ」
そっけなく、イルスが尋ねてきた。
「陣にいても、この兵力差だ。時をかけるだけで、起るのは同じ事だろう。だったら私は、万に一つの機会の方に賭ける」
真面目に答えると、イルスがにやりと笑った。
「何人連れて行くつもりか知らないが、お前の技は一対一で戦うためのものだ。シュレー、お前には無理だ」
「そうだよ。そういうのを空論ていうんだよ、猊下」
気味良さそうに、スィグルが言った。よくもそこまで嬉しそうな顔をするものだ。
「まあ、でも、試しにやってみるのもいいから、俺が死んだらお前が出ろ」
「えっ!?」
頷きながら言うイルスの顔を、スィグルがひどく驚いて見上げた。
「イルス、やる気なの!?」
「同時に40人ていうのは、さすがにつらい。でも、全員倒す必要はないんだよな」
地図の上の駒を眺め、イルスは何か思案するように小さく頷いている。
「オルファン一人で充分だ。あとは君の邪魔をする者だけでいい」
敵陣の中央に、西軍の将をあらわす駒を置いて、シュレーは静かに言った。
「戻る時に連中は攻撃してくると思うか?」
机に両手をついたまま、ちらりと顔を上げて、イルスはシュレーを見上げてきた。イルスの顔はいたって真剣だったが、彼の目には、かすかに笑いの気配があった。何かを面白がっている風でもないのに、それは場違いなもののように感じられる。
「ありえない。首級は一度奪われたら取り戻すことはできない。そうなったら、敗北を避ける唯一の方法は、相打ちにすることだ。私の首級を奪い、敗残兵の数で勝敗を決めれば、勝てる可能性は充分にある」
「死ぬなよ、シュレー」
イルスはけろりとして言った。明快な忠告だった。シュレーは頷いた。
鞘を鳴らして、イルスが腰に帯びていた幅広の剣を引き抜いた。海エルフたちの使う文字で、剣には何かが書き記されていたが、シュレーにはその内容まではわからなかった。剣の研ぎ具合を確かめるイルスの行動は、戦いの前にはそうするものだと教え込まれた、様式的なものなのかもしれかったが、刃先を撫でるイルスの仕草には、普段の彼にはない浮き足立った気配があった。
海エルフには強敵を求める本能のようなものがあるという。彼らはいつも小人数で敵陣に現れて、並み居る敵を次々と屠(ほふ)ることに酔いしれ、狂乱する。ひとたび戦いと流血に酔うと、彼らは死を恐れなくなる。大群と大群の戦いを基本とした山エルフ族の観念からいくと、海エルフの戦士達の戦い方は戦闘と呼べるようなものではない。大規模な決闘、もしくは喧嘩、あるいは、ただの殺し合いだ。
神殿の記録には、「狂乱した海辺の戦士は、よく調教された猟犬のようなものだ」と書き残されていた。数十年前、大陸辺境の海辺に派遣された下位の神官が、大神官にあてて報告してきたものだ。
昔、海辺でひどい暴動が起り、神殿がその仲裁に入ったようだったが、結局、我を忘れた海エルフたちには神の言葉など通じず、実際に騒ぎを収めたのは、当時の族長だったらしい。
海エルフたちは、自分よりも強いと認めた相手には、常軌を逸して忠実なのだという。荒れ狂う猟犬の群れには、主人が必要だ。海エルフたちが、自分達を統治する族長を決めるために、血なまぐさい剣闘試合を繰り返すのには、まるで理由がないわけではない。
十数代の族長が即位する間、神殿は、辺境の海辺が安定した王権によって統治されていることに満足していた。だが、その王家も、イルスの実父である現族長、ヘンリック・ウェルン・マルドゥークによって、あっさりと血脈を断たれてしまった。
族長ウェルンはマルドゥーク家の血を引く、先の族長の私生児だという触れ込みだが、それが真実なのかどうかなど、部族の者たちには大して取り沙汰されていない様子だ。ヘンリック・ウェルンは海辺の部族の中でもずば抜けて強く、族長の額冠(ティアラ)を奪い取るための正式な剣闘試合で、68人の候補者全員の首を飛ばした。猟犬たちは、闘技場の白い砂を染める流血に酔い、新たな族長を歓呼で迎え入れたというわけだ。彼らにとって、族長を選ぶのに、それ以上にふさわしい方法などないのだろう。
神殿は、洗礼名も持たない族長を慌てて聖別し、大神官の下僕としての名を教え込まねばならなかった。
シュレーは、イルスの父親と、遠目にではあるが、対面したことがあった。各部族の統治者は、3年ごとに、神殿への忠誠を証するために、聖楼城に巡礼するしきたりだ。ヘンリック・ウェルン・マルドゥークも、もちろん、その折の祭礼に現れていた。
聖楼城の大聖堂で、彼らのために祭祀を行ったのは、ほかならぬシュレーだった。ヘンリック・ウェルンは、まだ若く、厳しい顔をした男だった。はるかな祭壇の高みから彼を見下ろし、シュレーは辺境の族長位簒奪(さんだつ)者を祝福した。うろ覚えの顔を思い出してみても、イルスとはあまり似ていない。
イルスの気質は穏やかで、政敵を皆殺しにしてでも権力を手に入れようというような、彼の父親が示した種類の野心とは、まるで無縁のように思える。そもそもイルスは、権力の座から、遥かにかけはなれた経歴を生きてきた。だが、彼の血の中にも、神官たちが猟犬のようだと恐れた何かが、潜んでいるのかもしれない。
もし彼が戦いに酔って、指揮下を離れたら、今度の模擬戦闘ではひどい負け戦を味わうことになりそうだ。シュレーは何食わぬ顔で、イルスの横顔をうかがった。そして、彼が使い物にならなくなった時のことを考えた。
「あとは陣の防衛の都合だ。騎兵の戦力が劣るのは、どうにもできない」
思案のために乾いた唇を舐めてから、シュレーは再び話し始めた。
「持ちこたえられなきゃ意味無いんじゃないのか」
まるで憮然としきった顔で、スィグルが指摘してきた。シュレーは頷いた。
「大丈夫だ。馬上槍(ランス)が味方の兵に触れる前に、魔導師が騎兵を蹴散らすだろう」
「…………なにそれ」
機嫌が悪かったことも忘れた様子で、スィグルがぽかんとした。
「なんだよ、それ。僕をアテにしてるのか? 虫のいいこと言うなよ。空論だって言って馬鹿にしたくせに」
「空論じゃないさ。君の頭蓋骨が馬上槍(ランス)に砕かれて粉々になっても、私にはまだ20騎の騎兵が残っている。敵を10騎削ってくれればいい。もう少し削ってくれてもいいが、無理は言わないさ。それでもなんとか、対等に渡り合えるようにはなるだろう」
「ひ…ひとりで10騎倒せって? ……無茶苦茶言うな!」
「魔導師がいれば大丈夫だって言ったのは君だよ。嘘だったのかい。とんだことだね、レイラス。舌を見せてくれ。今ごろ真っ青なんじゃないのかい」
シュレーは、からかうつもりで言った。しかし、イルスがいたって真面目な表情で、スィグルの顔をすばやくつかみ、ためらいも無く口をこじ開けた。シュレーは驚きのあまり声もなく、目を見開いた。
「別に青くはないぞ。嘘じゃなかったんだな」
ひどく驚いたせいか、スィグルの針のような細い瞳孔が、今は大きく開いている。
「やれるだろ、10人くらい。食堂ではできて、ここでは出来ないなんて卑怯だぞ、スィグル。どうだ、やるれな?」
イルスがすごむと、スィグルは顔を掴まれたまま、かくかくと頷いた。
ぱっと手を離されて、スィグルがよろよろと後ずさった。驚きすぎて、とっさに文句を言う気力もないようだった。わけがわからなくなっているらしく、スィグルは両手で口を覆ったまま、ひどく動揺した目でイルスとシュレーを交互に眺めている。
「嘘じゃないなら、出し惜しみせずに、ちゃんとやれよ。お前は歩兵としては大した役に立たないんだからな」
困ったやつだと言いたげに、イルスは腕組みをしてスィグルを見ている。
「…フォルデス、冗談のつもりだったんだ」
やっと搾り出した声で言い、シュレーは忘れていた息を吸った。イルスが首をかしげた。
「なんだ、そうだったのか」
「なんだそうだったのか、ってなんだよ!! びっくりするじゃないか! 人の顔をモノみたいに掴むな!! この野蛮人!! ちょっとは常識ってものを考えろ!」
我にかえり、スィグルは火がついたようにわめきはじめた。
「そりゃ悪かったな」
笑うでもなく、イルスは平然と詫びた。
都合の良い展開ではあったが、シュレーは初めて、この小うるさい黒エルフに同情した。
「フォルデス、もしかして機嫌が悪いのか」
「どうしてだ?」
きょとんとして、イルスが聞き返してきた。
「いや…なんでもない」
剣を鞘に仕舞い、イルスがうつむいたまま髪をかきあげた。じっと天幕の下の地面を見つめるイルスからは、ごくかすかに、甘い花か木の実のような香りがした。目を細め、シュレーはふに落ちない気持ちになった。イルスは宮廷人らしく、香(こう)を使ったりするような質(たち)ではない。少なくとも、今まではそうだったはずだ。
「始めるか?」
天幕の入り口に向き直って腕組みし、何かを押し殺しているような声で、イルスはゆっくりと尋ねてきた。
「…フォルデス、分かっていると思うが、模擬戦闘では胸当てにつけた壷を割れば勝ったことになる。相手を痛めつけすぎないように、気をつけてくれ」
言いながら、シュレーはお節介な忠告だったと思った。そういうことなら、イルスはいつも気を遣っているはずだ。
しかし、イルスは、ゆっくりと振り向いて、にやあっと笑った。イルスはかすかに酔ったような顔をしていた。それは、練習試合の時に、打ち合った戦斧の向こう側に見たのと同じ種類の笑いだった。まだ文句を言いたげだったスィグル・レイラスが、驚いたように短くうめいた。
「気をつける」
再びこちらに背を向けながら、イルスが答えた。
「………ああ、そうしてくれ」
軽い動揺をやり過ごしながら、シュレーは頼んだ。
天幕の入り口に下げられた布を払いのけて、イルスが出て行った。外からの微風に乗って、また同じ甘い香りが感じられた。
「……花の匂いがしないか、レイラス」
ためらってから、シュレーはスィグル・レイラスに問い掛けた。
「やっぱりするよね」
自分も気になっていたのだというような含みのある口調で、スィグルが答えた。憎まれ口を利くのも忘れる程度には、スィグルも動揺しているらしかった。
「じゃあ、気のせいじゃないんだ。あれ、イルスからだと思うよ」
「香(こう)でも使ってるのか?」
「ちがいます」
突然、天幕の奥に座っていたシェル・マイオスの声がした。今まで、気配もなくなりを潜めていた彼が、突然口を利いたので、シュレーは訳も無くぎくりとした。
「違うとは、なんのことだい」
シュレーが話を向けると、シェル・マイオスはうつむいていた顔を、少しだけ上げた。
「内陸の奥地には、あの香りと、そっくりな芳香のする花があって、四年に一度だけ開花するんです。海エルフ族では、その年には決まって、暴動が起こったり、戦を始めたり、族長が代変わりしたりする。彼らがあの香りを嗅ぐと、特殊な精神状態になって、気分の昂揚に歯止めが利きにくくなるんです。遠く内陸から離れて、海辺で暮らすようになった今でも、花の開花周期に合わせて、彼らは体調を変化させている。古代語では、花の名前はアルマ。だから、海エルフでは、その時期のことをアルマ期と呼んでいるそうです」
シェルはまるで、魔法で言葉を仕込まれた人形のように、つらつらと無表情に語っている。スィグルが眉間に皺を寄せ、森エルフの話を聞くのを厭うように、机の端に腰掛けて背を向けた。
「アルマ期。その話は神殿の報告にもあった」
そういえば、神殿に保存されていた暴動の報告書にも、アルマ期の影響によるものという記述があった。だが、シュレーはそれについて気にもとめていなかった。報告書を書いた神官の、責任逃れのための苦しい言い訳だと思ったのだ。
「あの花には、少しだけど毒があって、食べたりすると、朦朧とするんです。沢山集めると、匂いだけでも酔うことがあるみたいで。アルマ期の海エルフの体臭にも、同じような効果があるらしいです。お互いに影響しあって、アルマ期の発現を促すためです。海辺にはアルマは咲かないので、彼らは体の中に花を持って行ったんですよ」
「まるで、おとぎ話だな」
シュレーは話を笑って受け流そうとした。
「笑い事じゃないです。彼を止めてください。アルマ期の海エルフは、すごく危険なんです。お互いに殺し合ったりすることを、本能的に求めてるんですよ」
「イルスが? まさか」
目をそらしたまま、スィグルが馬鹿にしたように言った。
「アルマの花には、強い酩酊効果があるんです。アルマ期の海エルフの体の中でも、花の成分と同じものが作られていて、彼らは自家中毒を起こしてるんですよ。イルスがどういう性格かとか、そういうことは関係がないんです。彼が自分を制御できているうちはいいけど、一度血に酔ったら、そう簡単には正気に戻らないですよ」
シェルは眉を寄せ、シュレーを睨みつけてきた。頑固そうな顔だとシュレーは感心した。
「戦いなんて止めましょう。いいことなんて一つもないです。森の中を馬で走り回るなんて…今ごろのこの地帯では、ちょうど、地上棲の鳥の産卵期です。親鳥も卵も、騎兵の蹄にかかったら一溜りもないのに。ライラル殿下、僕には沢山の悲鳴が聞こえます。神殿の一族は、この地上で生きる全てのものの父祖なんでしょう。だったら殿下にだって、その声が聞こえるはずです!」
シュレーに訴えかけるシェル・マイオスの顔は、シュレーが神殿で飽きるほど眺めてきた、従順な信徒たちのものと同じだった。神官たちが自分や世界を愛していて、その嘆きを癒すと信じている者の目だ。
「私には、そんなものは聞こえない。それは、君たちの部族に特有の能力だ。その感応力を使って、君たちは日々、ちっぽけな生き物の声を聞きながら生きている。それらを手なずけて、戦に使うためだよ、マイオス。君たちにだって、悲鳴の主を救えはしない。神殿だってそうだ」
「殿下…あなたは、自分が負けることが、そんなに耐えられないんですか」
シェルの声には、驚きと非難の響きがあった。シュレーはなぜか、不愉快だった。それを自覚するより先に、満面の微笑がシュレーの顔を覆った。
「君たち森エルフの耳には、樹木や獣の声は聞こえても、人の心があげる悲鳴は届かないらしい」
神々しい微笑とともに、シュレーは言った。シェルの視線が、シュレーの横にいるスィグル・レイラスの上をさ迷い、それから逃れるように、再びうつむきがちに地面を見つめた。
「猊下…あんたには呆れるよ」
腕組みしたスィグルが、ほんとうに呆れたような顔で、シュレーを見ていた。
「行こう。マイオスが聞き取ったのは、オルファンの軍の騎馬兵が森を行軍する気配だ。布陣を済ませたら、突撃してくる」
シュレーは、スィグル・レイラスの言葉に答えることなく、彼を天幕の外へ促した。スィグルは物言いたげに目を細めたが、結局何も言わずに天幕を出て行った。
それに続くため、天幕の入り口を覆う布に手をかけたまま、シュレーは少しためらい、シェル・マイオスを振りかえった。
「マイオス」
声をかけてから、シュレーは言葉を選びかねた。
「フォルデスが本当に狂乱したら、どうやって止めたらいいか、君は知っているのか」
シュレーが尋ねると、シェルは目を閉じてため息をついた。
「彼をねじ伏せられるような強敵を用意することです。好敵手が定まれば、相手かまわず殺し合ったりしないものだそうだから」
「ここに、そんな相手がいるものか。他の方法は?」
舌を巻くほどのイルスの撃剣を思い返し、シュレーはため息をついた。
「知りません」
小さな声だったが、それでもきっぱりとシェルは言った。
「ライラル殿下、お願いです。彼を行かせないでください。オルファン殿下にもしものことがあったら…イルスは窮地に追い込まれます」
希(こいねが)うシェルの視線を、シュレーは黙って受け止めた。
オルファンの死。オルファンの死。オルファンの死…
シュレーの頭の中で、その言葉だけが何度も果てしなく繰り返された。あの義弟が、イルス・フォルデスに殺されるようなことになれば、それは同盟の破綻を招く一大事だ。
そこから先を考えることは、シュレーには出来なかった。それについての自分の結論を、知りたくなかったのだ。
シュレーはシェルの視線を断ち切って、何も言わずに天幕を出て行った。
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