015 贅沢な食事

 食堂の黒大理石の床の上に立つと、シェルは自分が宙に浮いているような錯覚を感じて、一瞬くらりとした。天井につるされた無数のランプが映り込む床は、まるで澄み切った夜空のように、曇りのない黒さだった。

 「綺麗なところですね」

 感心して、シェルは呟いた。先に立っていたシュレーが振り返って、かすかに笑った。それを見て、シェルはなんだかホッとした。あんなことがあった後だから、シュレーの機嫌がいいはずはないと思っていたのだが、シュレーはアルフ・オルファンと行き会った事自体、憶えてもいないという様子だ。実際に忘れてしまったわけではないだろうが、神聖な血を受け継ぐ少年が、他人を気遣う性分なのだとわかって、シェルは嬉しかった。

 「ここで食事をする約束なんだが…」

 店を見渡しながら、シュレーは言った。しかし、店の中はがらんとしていて、待ち合わせた相手どころか、食事をしている学生の姿すら見つからない。相手の姿を知っているわけでもないのに、シェルはあたりをきょろきょろと探してみた。

「遅れてきてるんでしょうか?」

「さあ。単に、すっぽかされたのかもしれないな」

 苦笑して、シュレーは答えた。

「約束を破るなんて…」

 シェルが、そんな人たちなんですかと言いかけたとき、背後で扉の開く音が大きく響いた。

 「悪い、待たせたな」

 浅黒い肌の少年が、誰かの手を引っぱりながら、扉から顔をのぞかせた。その目がつくりもののような青だったので、シェルは呆気にとられて、その少年の顔に見入ってしまった。少年の額冠(ティアラ)にはめ込まれている碧玉(サファイア)と、彼の瞳とは、同じ絵の具で描かれたもののように、そっくり同じ色合いだった。海エルフの青い瞳だ。数々の書物に記述されていたその色合いを、シェルは初めて自分の目で見たのだった。

 「あの目、一度見たら忘れられない印象だろう」

 歩み寄ってくる海エルフの少年を見て、ぽかんとしているシェルに、シュレーが小声で言った。シェルはこくこくと頷くのが精一杯で、何を答えたものか見当もつかなかった。

 「結局、君も来てくれたんだな、レイラス」

 シュレーがそう言うのを聞いて初めて、シェルはイルスに引きずられるようにして歩いてきた、もう一人に気付いた。

「イルスがどうしても来いっていうからだ」

 苛立った声で、もう一人の少年は答えた。長い黒髪に、猫のような黄金の目。黒エルフだ。不満げな表情さえしていなければ、その黒エルフは、ちょっと男勝りな少女といっても通用するような、美しげな容貌をしていた。思わず見とれかけていたシェルは、華奢な美貌の持ち主本人に、ぎろりと睨まれて我に返った。

 「なんだ、こいつ?」

 刺々しい口調で誰何されて、シェルはどうしようもなく、たじろいだ。物怖じする気配もなく、じっと自分の目を睨み付けてくる黒エルフの強い視線を、まともに見返すことができない。

 これが例の、砂漠の民の凝視というものなのだと、シェルはうつむきながら自分を励ました。エルフ諸族の風習や習慣について書かれた本をあたれば、黒エルフの視線についての記述は必ずみつけられる。

 黒エルフでは、人でもなんでも、「じっと見る」という癖があるという。話す相手の目をじっと見つめているからといって、特に強い好意があるわけでも、敵意があるわけでもない。彼らは単に、そうするのが普通だとして生活しているので、凝視することに疑問を感じないらしいのだ。使節のための教本には、黒エルフの宮廷に立ち、その場にいる全員にじっと目を覗き込まれても、深い意味はないのだから動揺してはいけないと書かれていた。

 しかし、シェルはすでに動揺していた。やはり本で読むのと、実際に体験するのとでは、全然違っている。

 「彼は、シェル・マイオス・エントゥリオ。人質の最後の一人だ」

 無意識に後ずさっていたシェルを前に押し出して、シュレーが静かに言った。

「マイオス、こちらがイルス・フォルデス・マルドゥーク。そちらはスィグル・レイラス・アンフィバロウだ。詳しい説明はいらないな」

「よ…よろしく!!」

 赤面しながら、シェルはあわてて挨拶した。それぞれの部族の言葉で挨拶できるように準備してきたものの、部族のちがう二人と同時に出会ってしまったものだから、結局、共通語で話すしかなかった。

 「よろしくな」

 笑いをこらえているような顔で、海エルフのイルスは、胸の前で両手を握り合わせる仕草をした。本に書いてある海エルフの作法と同じだった。それを見た黒エルフのスィグルが、面白くなさそうな顔で、軽く会釈をした。挨拶の席でなければ、それは軽く目を閉じただけに見えただろう。

 「今日、学院に到着したところだそうだ。一緒に食事をしようと思って、私が誘ったんだ」

 シュレーが説明すると、イルスが納得したように頷いた。スィグルはまだ、じっとシェルの目を見つめたままだ。

「これで2対2ってことだね、猊下(げいか)」

「そういう風に解釈してもらっても私は気にしないが、ここでは卵の色なんて無意味だよ、レイラス」

「いいかげんにしろ、スィグル」

 シュレーとイルスが畳み掛けるように文句を言った。するとスィグルは、ふんと鼻で笑い、シェルから目をそらした。やっと息ができるようになった気がして、シェルは深呼吸してみた。

 「あ…あの…仲がいいんですね!」

 シェルは精一杯愛想良く話したつもりだったが、スィグルが、今度は汚いものでも見るような目つきで、シェルを睨み付けてきた。

「お前、頭が悪いのか、共通語がなってないのか、どっちだよ?」

「えっ……あの、僕………すみません」

 口元を覆って、シェルは言いよどんだ。

「今夜はいちだんと機嫌が悪いらしいな」

 シュレーは、その場にいるスィグルについて、まるでどこか遠くにいる者を噂するような口調で話した。目を細めて、海エルフのイルスが面白そうに笑った。

「剣術の練習場でかなり絞ったんで、腹が減って気が立ってるんだ」

「人のことを動物みたいに言わないでほしいね」

「今日はここの料理も旨く感じるかもしれないさ」

 苦笑して言い、文句を言いたそうにしているスィグルをかわすと、イルスはシュレーとシェルを奥の席にうながした。

「ここの料理って不味いんですか?」

 思い切って、シェルは海エルフの言葉を使ってみた。イルスは一瞬きょとんとして、その青い瞳でシェルを見おろした。

「ラーダ(もちろん)、アル・ハ・ウィー(まるで豚のエサだ)」

 とイルスは言った。海エルフの言葉だ。シェルは、イルスと顔を見合わせて笑った。シュレーが、イルスとは気が合うだろうと言った意味が、わかるような気がした。彼の人見知りしない雰囲気のお陰で、シェルは少し安心していられた。

「ラゥ・ダ(牛の舌)?」

 不満げな顔で、スィグルが呟いた。黒エルフの言葉だった。シェル一人だけが爆笑し、イルスはシュレーと不思議そうに顔を見合わせた。



  * * * * * *



 食堂の料理の不味さは、笑い事ではなかった。

 窓から夜の学院を見渡せる席には、鶏や鴨、鳩など、様々な肉料理や、野菜をふんだんに使った煮込み料理、何種類かのスープや、鮮やかな色合いのサラダが所せましと並べられていた。給仕の山エルフはとても愛想が良く、にこにこしながら何度もお辞儀をしてくれたが、料理の味はどれも驚くほど不味かった。

 「うっ………」

 黄味を帯びたクリーム状のスープを口に運んでから、シェルは耐えきれずにうめいた。甘いような、塩辛いような、苦いような味が、混ざりきらないまま感じられる。一瞬、喉の奥から吐き気が込み上げるような気がした。

「なかなか斬新な味付けだな…」

 口元を布で拭いながら、シュレーがいくぶん掠れた声で言った。

「そうかなあ」

 スィグルだけが、平然とサラダをつついている。もしかしたら、サラダは普通の味なのかもしれないと思って、シェルは赤いソースのかかったそれを、一口食べてみた。そして後悔した。サラダに使われているソースも、他のものに勝るとも劣らない不味さだったのだ。

「これって…山エルフ風の味付けなんですか?」

 こみあげる吐き気をこらえながら、シェルはシュレーに愛想笑いを向けた。

「いや…どうだろう。違うと思うんだが……」

 シュレーが珍しく煮え切らない事を言う。山エルフ族の血を引く彼も、つい最近に神籍を返上したばかりで、実際には山エルフのことを良く知らないのかもしれない。

 ぐっと葡萄酒のグラスをあけたイルスが、深々とため息をついてから、つぶやいた。

「やっぱり耐えられない。ここの料理だけはダメだ」

「じゃあ、別の店にすれば良かったのに」

 頬杖をついてたスィグルが、ものうげに言った。イルスは頭でも痛いのか、こめかみを押さえ、小さく咳払いをした。

「食事時の混み合う時間に、ひとけのない店なんか他にないらしいぞ」

「別に混んでたっていいじゃないか。この猊下(げいか)がいるかぎり、席が空いてないって言って追い出される事なんて、考えられないと思うけどな」

 ちらりとシュレーを見遣って、スィグルは少し刺のある口調をつくった。シェルは心配してシュレーを見たが、彼は少しも応えていない様子だった。

「お前を連れて、山エルフが大勢いる所へ行くのは二度とご免だな」

 きょとんとしているスィグルの顔を指差して、イルスがきっぱりと言った。

「どうして」

 スィグルが首を傾げると、イルスがギョッとした表情を見せた。シェルの横で、シュレーがくすくすと楽しげに忍び笑いする。

「どうして、だと!? 決まってるだろ。お前はな、いつ報復されても不思議じゃない立場なんだぞ!?」

 イルスは強い口調で、横の席でくつろいでいるスィグルに説明している。

「報復って、昨日の決闘騒ぎのことかい。そんなの逆恨みだよ」

 肩をすくめ、スィグルはさも下らない心配だと言いたげに鼻で笑った。そして、自分の前に置かれていた鴨料理の皿を、けむたそうにイルスの方へ押しやった。

「逆恨み? 逆恨みって言ったか? ……シュレー、逆恨みってどう言う意味の言葉か教えてくれ」

「おそらく、いわれのない恨みや、身に憶えのない恨み、筋違いな理由で恨まれることじゃないかな?」

 シュレーが微笑みながら言った。

「やっぱり逆恨みってそういう意味だよな。スィグル、お前、分かってて言ってるか? それとも、共通語が苦手なのか?」

 イルスは、ついさっきスィグル本人が言ったような事を、そのまま口にした。シェルは、なんだか気味がよくなり、思わず笑ってしまったが、スィグルにじろりと睨み付けられて、笑いをかみ殺した。

「どうして僕が恨まれなきゃらないんだよ。もともと、ケンカを売ってきたのは、向こうじゃないか。僕はそれを買ってやっただけだよ」

「高く買い過ぎだ」

 イルスがため息をつく。

「この学院では、決闘はもちろん、練習場以外の場所での抜刀も禁じられている。決闘に関わった学生は、どちらが仕掛けたかに関わらず、短くて1日、長くて10日の懲罰房入りに処される決まりだ。気をつけた方がいいよ、レイラス」

 シュレーが穏やかに忠告した。

「僕は抜刀なんかしてないよ。イルスだけだ」

 あけすけと言うスィグルの言葉を聞いて、葡萄酒を飲みかけていたイルスが激しくむせた。

「僕は誰にも斬り付けてないし、殴ってもいない。ただ食堂に立っていただけだよ。学院大法典とかいう、この学院のうるさい規則が書いてある本は一度読んだけど、学院内で魔法を使っちゃいけないっていう決まりは、どこにも書いてなかった」

「…山エルフには、魔法を使う者は滅多に生まれてこないようだ。だから今までは、そんな規則は必要無かったんだろう。……それにしても、君は意外と卑怯なんだな、レイラス」

 びっくりしたように、シュレーが言った。シェルは少しむっとしていた。イルスに好い印象を持っていたので、彼ひとりに罪を着せようとしているスィグルが気に食わなかったのだ。

「あんたにそんなこと言われる筋合いじゃないよ、猊下(げいか)」

 真顔で、スィグルが答え、シュレーが面白そうに笑った。シェルは、自分の頭の中で、何かがプツンと音をたてて切れるのを感じた。

 「君をかばうために、ライラル殿下が力を貸してくれたこと、知らないんですか!」

 とっさに、シェルは声を荒げていた。シュレーとイルスが、あっけにとられた顔で、椅子から立ち上がったシェルを見上げている。スィグルは、面倒腐そうな視線を、まっすぐシェルの目に向けた。

「『猊下(げいか)』が勝手にやったことだ」

 スィグルは悪怯れる様子もなく言い放った。深いため息をついて、イルスが目を覆う。シュレーが苦笑して、イルスに何か呟いていたが、頭に血がのぼっているシェルには、それを聞き取る余裕はなかった。

「…自分だけ無事ならそれでいいなんて、狡いと思わないんですか!?」

「イルスになにかあったら、僕が何とかするさ。猊下(げいか)の力を借りようなんて思わない。だいたい、お前には関係ないだろ、キャンキャンわめくなよ」

「関係なくないです!! 僕だって…同じ人質の一人なんだから!」

 とっさにくじけそうになったが、シェルは無理して踏み止まった。

「だいたい、さっきから猊下猊下って言ってるけど、ライラル殿下はもう神官じゃないし、そう呼ばれるのが嫌いだって、わかんないんですか!?」

 一瞬でも、冷静な意識が戻ってくると、自分がなぜそんなに怒っているのか、シェルにも解らなくなっていた。しかし、それに気付いたからといって、腹が立たなくなるわけでもない。

「そう呼ばれるのが嫌いらしいって知ってるから、そう呼んでるんだってわかんないのか?」

 汚いものでも見るような目で、スィグルがシェルを見上げた。不愉快そうに眉をひそめたスィグルは、その華やかな美貌のために、よりいっそう凄みがあって、シェルは完全に圧倒されてしまった。

「僕は白い連中と口を聞くのは嫌いだ。一緒に食事するなんて、イルスの頼みでもなけりゃ、絶対にお断りだよ。猊下(げいか)はこの際仕方ないとしても、お前なんか知らないね。『同じ人質』だって? 笑わせるなよ。僕は白系種族の中でも、森エルフが一番嫌いだ。お前とひとまとめにされるなんて、考えただけで反吐が出る」

「そんな……そんなこと言われても……」

 シェルは言葉を失った。スィグルは別に激昂している気配もなく、淡々と言葉を紡いでいただけだったが、激しく罵られたほうが、いくらかマシだとシェルは思った。一時の苛立ちでぶつけられた言葉なら、まだ耐えられるが、スィグルが心底本気でそう言っているのだと確信させられるのは辛かった。

 「スィグル」

 ため息の混じった声で、イルスが口を開いた。椅子を引く音を聞いて、シェルはイルスの方に視線を向けた。

 「フォルデス、やめておけ」

 諭す口調で、早口にシュレーが忠告する。

 しかし、それを聞き終えることもなく、イルスはスィグルの胸ぐらを掴んで立たせ、手加減の感じられない力で殴り倒した。

 シェルは人が殴られるのを見たのは、これが初めてだった。とっさに抑えることもできない悲鳴が口をついた。殴られる直前、スィグルはイルスの目を真直ぐ見ていた気がしたが、それはシェルの見間違いだったかもしれない。殴られると分かっていて避けもしないなんて、おかしな話だ。

 スィグルの華奢な体は、簡単にはねとばされて、壁際に転がった。スィグルはすぐに体を起こして、殴られた右頬を手の甲でこすり、血のこぼれた唇を舐めた。イルスを見上げるネコのような目は、驚くほど無表情だった。

 「すまなかったな。腹が立ったんだ」

 イルスが硬い声で言った。謝っているというより、ただ説明しているだけに聞こえた。

「ちょっとは手加減してくれてもいいだろ」

 スィグルが少し掠れた声で応えた。シェルは彼が怒っているものと思っていたので、普段の他愛もないお喋りを交わす時のような、スィグルの口調を聞いて、わけがわからなくなった。シェルの横で、シュレーが深々とため息をつく。

 「そう思うなら、お前も他人に手加減してやれ」

「イルスの話はわかりやすいな」

 スィグルは痛みをこらえている風な、引きつった微笑を浮かべた。

「ごちそうさま。一緒に食事はしたよ。これでいいだろ、イルス」

「………」

 ふらりと立ち上がって、立ち去るそぶりを見せるスィグルを、イルスは黙って見ていた。シェルは気が気でなく、二人を交互に見渡してから、どうにもできなくなってシュレーに視線を向けた。シュレーが肩をすくめて首をふる。放っておけと言われているのだろうが、それでもシェルは落ち着かなかった。

 「ごめんなさい。僕…あの……余計なこと言いました」

「まったくだね」

 容赦なく言って、スィグルは挨拶もせずに店を出ていってしまった。

 シェルは途方にくれて、椅子に座った。せっかくの食事が滅茶苦茶だ。自分がいなければ、もう少しなごやかに話が進んだのかもしれないと思うと、シェルは顔を上げられなかった。イルスの顔を見るのも、シュレーの顔を見るのも、恐いような気がした。

 「彼はもっと怒るかと思ったよ」

 シュレーが静かな声で言った。倒れた椅子を直して、イルスが座り直す気配がした。

「あいつ、殴られ慣れてる」

 答えになっていないような事を、イルスが言った。

「スィグルは別に怒ってないと思う」

「随分、信頼し合ってるんだね」

 冗談めかして、シュレーが言った。

「そういうわけじゃないけどな。お前もそう思うんだろう、シュレー」

「…レイラスはきっと、君が思ってるほど感情的な性格じゃないよ。彼は、意図してああいう風に振る舞ってる。白系種族を憎んでいるのも、理由のない差別ではないんじゃないかと思うが」

「人を憎んでも、いいことがない」

 覇気のない口調で、イルスは小さく呟いた。殴ったイルスの方が、よほどこたえている様子だった。

「そうと知っていても、憎しみを消せない時はある。意図して消さないように努力することもある。私にはわかる」

 穏やかに言うシュレーの言葉を聞いて、イルスが何度か言い淀むのが感じられた。しばらくの沈黙ののち、イルスが再び話し始めた。

 「お前も、あいつも、孤独なやつだ」

「彼にもそう言ってやるといい。同じ時間を生きていくなら、孤独じゃない方が有意義だ。自覚すれば、解決できるかもしれないよ」

 シェルは、義弟アルフ・オルファンと対決するシュレーの姿を思い出していた。イルスやスィグルは、それを知っているのだろうか。

「お前のは解決できないって言いたいのか?」

 イルスは、そんなことはないと言いたげだった。

「私の孤独は、すでに予言されている。君も言っていたじゃないか。汝の名は『孤独』なり」

「ただの詩編だ。思い付きだよ」

 シェルは、神殿が教える聖典の中にある詩編を思い出した。子供の頃に暗記されられた膨大な言葉の羅列が、意図しなくても頭の中で蘇ってくる。詩編と呼ばれる謎めいた言葉の群れは、予言なのだと聞いていた。

 汝の名は孤独。それは特定の詩編を連想させる言葉だ。

 ほの暗き荒れ野に佇む者よ、汝の名は『孤独』なり。汝、沈黙の剣もて千の都を滅ぼし、凍てつく穂先もて万の王国を滅ぼす。死霊を率いて荒れ野を渡り、とこしえに己の心の欲するところを知らず。滅ぼせ友よ。彼の者を。死の衣引く彼の者を、荒れ野の闇に葬らん。

 「あれは、私のための予言だ。神殿の者なら、誰でも知っている。私は、世界を滅ぼすと予言された者なんだ。…フォルデス、君もそれを知っていたんじゃないのかい?」

 どこか諦めたような声で、シュレーはイルスに問いかけた。答えの代わりに、イルスの深いため息が聞こえた。

 「俺になんて言ってほしいんだ? 本当にお前が予言された者なんだったら、自分が世界を滅ぼす前にどうにかしろよ。そういうもんだろ? そうでもしなきゃ、予言なんて何の役に立つんだよ。…まったく、スィグルといい、お前といい、かなりイカレてるぜ」

 少し苛立った口調で言い、イルスはシュレーの問いを押し返した。

 「シェル…腹が減らないか?」

「えっ!?」

 急に場違いな話をされて、シェルは顔をあげた。シュレーが意外そうにイルスを見ている。イルスは面白くなさそうな表情で、シェルを見ていた。

「腹が…って。………減ってますけど…でも…」

 どぎまぎしながら、シェルは答えた。

「メシをつくるから手伝え」

 有無を言わせない口調で、イルスが言った。

「シュレー、お前もだ」

「料理なんてやったことがない」

「じゃあ、今からやれ」

 イルスは断固とした口調で即答した。シェルは、動揺しているシュレーを初めて見た。

「忘れてたけど、スィグルは朝からほとんど何も食ってないんだ。詫び代わりに、食事を作って持っていく。お前らも一緒に来て食え」

「一緒に来てって…どこへ行くんですか?」

 シェルはぽかんとしたまま尋ねた。

「スィグルの部屋」

 イルスは断言した。

「でも、彼はいやがるんじゃないかな?」

 シュレーの言うことは至極もっともだったので、シェルは何度も頷いた。ついさっき、森エルフは特に嫌いだと宣言されたばかりで、どんな顔をして部屋を訪ねろというのだ。

「あいつの勝手で、俺は部屋の壁をぶち抜かれたんだ。あいつが自分の好きなようにするんだったら、俺も俺の好きなようにする。さあ行くぞ。とりあえず、この店の厨房を乗っ取るところからだ」

 迷いもせずに立ち上がり、イルスは店の奥に向かって歩き出した。

 残されたシェルとシュレーは、互いに顔を見合わせた。シェルはとてもイルスの後についていく勇気がなかったが、シュレーはいかにも興味深そうににっこりと笑った。

「彼は凶暴みたいだから、言う事を聞かないと、私達も殴られるかもしれないな」

「えぇっ!? まさか…本当に行くんですか!?」

 シェルは悲鳴のような口調でシュレーを問いただした。

「面白そうだ」

 案の定、シュレーはイルスの後を追って、店の奥に向かっていった。

 シェルは、おろおろと迷ったが、シュレーが早く来いというようにシェルの名前を呼ぶので、自分でもなぜかわからないまま、二人の後に続くことになった。

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