016 世界の果て

「…ったく、思いっきり殴りやがって…いて…」

 右頬に手のひらを押し当てたまま、スィグルは寝室の壁にかけられた鏡をのぞきこんでいた。イルスに殴られた右頬は、少し腫れてきていたが、治癒の魔法のおかげで、少しずつは回復してきているようだった。

 スィグルが使える魔法のほとんどは、手を触れずに物を動かすという攻撃のためのものだ。治療のための力はお粗末なものなのだが、それでも、今はないよりマシというものだった。痛みを意識の外に追いやりながら、スィグルは治癒の力を右手に集中させるよう努力していた。

 イルスが何に腹を立てたのかは、スィグルには大体分かっていた。自分一人だけ責任逃れをするような事を言って、イルスに咎を押し付けたのにも怒っていなかったわけではないだろうが、あのシェルとかいう森エルフをいたぶった事のほうが、イルスのカンに触ったのは間違いない。あれさえなければ、その場で殴られたりするようなことはなく、部屋に戻ってからグチグチと説教される程度で済んだのかもしれなかった。

 手を離して鏡を見ると、頬の腫れはもう微かなものになっていた。鏡の中から、いつもと変わらない、いくぶんやせ過ぎの自分の顔が見つめ返してくる。顔の骨格が小さいせいか、大きな目がよりいっそう大きく目立って見える。スィグルは、自分の顔が嫌いだった。

 まるで女のようだ。歳相応に発育していれば、もう少しは逞しくなっていたのかもしれないが、ひょろりと痩せた体と顔立ちは、多少、男勝りな少女だと言っても通用しそうな風情だ。母譲りの美貌さえ、どうしようもなく疎ましく思える。

 背中に引きつれるような疼痛を感じて、スィグルは長衣(ジュラバ)の前を開き、壁にかけられている鏡に、背中を写してみた。浮き上がった肩甲骨の上あたりに、青黒い痣ができている。殴られて壁にぶつかった時にできたものだろう。

 こっちも魔法で治すかどうか迷ってから、スィグルは放っておくことにした。魔法を使うのはかなり骨の折れる仕事だ。軽い打ち身くらいなら、自然に治るのを待った方がいいだろう。顔が腫れるのはみっともないが、背中なら服を着ている限り、だれにも解りっこない。

 服を着付け直そうとした時、自分の背中を覆う古い傷が目に入って、スィグルは顔をしかめた。何をしていても忘れる事のない傷だが、あらためて目にすると、胸の奥にざわつく憎悪が鮮やかに蘇ってくるのを感じる。

 スィグルはなるべく傷口を見ないようにして、長衣(ジュラバ)の前襟をとめ直した。古傷は、背中の中央あたり、肩甲骨の下から腰のあたりまでを覆う、かなりの深手だった。今も引きつった傷口が、はっきりと浮かび上がっている。あの、シェルとかいう森エルフが見たら、自分が憎まれている理由を悟って、顔色を失うことだろうと思い、スィグルはまた胸くそわるくなった。

 傷は森エルフ族が日常的に使う、小形の鉈(ナタ)のような刃物でつけられたものだった。今も醜く残る傷口の全体像を見れば、それが文字になっているのが解るはずだ。森エルフが使う文字で、そこにはこう書かれているのだ。「砂漠の黒い悪魔の息子にして、おぞましき獣の子、汚濁の中にて死すべし」

 スィグルは、自分の背中に刻まれている言葉を読むことはできなかったが、その意味は理解していた。森エルフの言葉を話すことができるからだ。

 まだ戦いが激しかった頃、スィグルは敵地に虜囚として捕らえられていたことがあった。森エルフ族が雇った卑しい傭兵どもが、スィグルの母と、その双児の息子をさらって、森の民に売ったのだ。

 彼らは、森エルフ族に『砂漠の黒い悪魔』と恐れられていた黒エルフの族長、リューズ・スィノニムと取り引きするための材料にされた。先代の族長のころに生まれた失地を回復するために、族長リューズは森エルフと戦っていた。容赦というものを知らない父の戦略は苛烈で、悪魔の名に相応しいものだったという。その猛烈な行軍を止めるため、森エルフ族はリューズ・スィノニムの妻と息子を人質にとり、撤退を迫った。

 しかし、父は撤退しなかった。自らの手で、森エルフの使者の首を切り落とし、軍旗に曝(さら)して行軍を続けた。それを知った森エルフたちは、見せしめにリューズ・スィノニムの妻と、二人の息子を拷問にかけた。行軍する父の元には、数日ごとに、切り落とされた妻の指が一本ずつ届けられたが、父は顔色一つ変えなかったという。

 父がスィグルたちを見限ったのは、当たり前のことだった。父リューズには、10人の妻と、17人の息子がいる。スィグルと、弟のスフィルが命を奪われたとしても、まだ15人の健康な息子が残っているのだ。それにこだわって、軍を退くなど、意味のないことだった。父の軍は、最後までその勢いをとめることはなく、見事に失地を回復した。

 それをスィグルが知ったのは、虜囚の身で9歳から13歳までの4年間を生き抜き、父の軍に救出されてタンジールに戻った後のことだった。途中で引き離された母上は、その1年前に救出され、タンジールに戻っていた。だが、スィグルが母と再会したときには、母は3年に及ぶ陵辱と飢えのため、もう正気を失っていた。

 生きたまま地下の墓所に捨てられていたスィグルとスフィルを助け出した父・リューズ・スィノニムは、部族の者の目をはばからず、やせ細った二人の息子を抱き締め、声をあげて泣いた。父リューズの戦装束からは、部族長の血筋の者にだけ許される、あえかな香の匂いが漂っていた。それは、スィグルに、故郷タンジールの砂と風の匂いを思わせた。久々に見る日の光が眩しく、目がつぶれそうだった。それ以外のことは、不思議となにも憶えていない。

 タンジールに戻っても、スィグルは、かなりの時間を療養のために費やさなければならなかった。やっと故郷に戻れたというのに、双児の弟は、繊細な母の血を濃厚に受け継いでいたせいか、すっかり頭がおかしくなっていて、宮殿の医師たちの姿を見るのさえ怖がり、父、リューズ・スィノニムでさえ、近寄らせようとしなかった。スフィルは、スィグルにすがりつくようにして毎日を生き、腹が減ると、スィグルに食べ物をねだった。

 スィグルは、もう、弟は、いっそ死んだ方がよかったのかもしれないと思っていた。タンジールに戻っても、スフィルはまだ、森の穴蔵の中にいるつもりなのだ。スィグルが与える食べ物を、手づかみで貪り食う双児の弟を見ていると、スィグルはいつもそう思った。

 人質に選ばれたスィグルが、タンジールを去らねばならなくなった日、スフィルはそれを理解できず、泣き叫んで暴れた。スフィルの瞳の色は、母上と同じ淡い青だったが、それ以外は、スィグルとまったく同じと言ってもいいほど、良く似ていた。幼い頃は、瞳の色が同じだというだけで、母上がスフィルを可愛がるのが妬ましかったが、狂ったスフィルを見ていると、それもまた、母の血を受けたスフィルの不運のように思えた。

 暗闇と飢えに耐える4年を生き抜くことは、スフィルには何の意味も残さなかった。暗闇の中で、スフィルはずっと、死を待ち望んでいた。苦しむ事なく、眠るように、楽になりたいと望んでいた。

 それを無理矢理生き延びさせたのは、スィグルだった。あの暗闇の中では、生き続けることそのものが、恐怖だった。だが、それでも、スィグルは死にたくなかった。これはただの悪い夢で、自分は今も砂漠の宮殿で、幸せに暮らしているものと信じたかった。目をさませば、今までの苦痛も屈辱も全て嘘だったと確かめられるに違いない。スィグルは、部族の者たちに捨てられたと認めるのが恐ろしかった。その恐怖は、暗闇で生き続ける恐怖に勝っていた。

 飢えながら、スィグルはいつも、大勢の女官と侍従にかしづかれて暮らしていた幸福な日々を思った。リューズ・スィノニムの再来と褒めそやされ、満足していた日々、自分は部族のために必要なのだと信じていた。部族の者が、自分を見捨てるわけがない。助けは今日にもやってくる。父は自分を取り戻しにやってくる。今日でなければ明日、明日でなければ、その翌日にでも。

 だから、スィグルは、いつ終わるとも知れない永遠の恐怖に、弟を付き合わせた。一人、闇の中で生き延びるのが恐ろしかったからだ。

 吐き気を感じて、スィグルは回想を遠くへ押しやろうとした。しかし、記憶は次々と溢れだしてきた。まるで、もう一人の自分が頭の中にいて、何もかも過去に押しやって忘れてしまおうとするスィグルを許さず、いたいぶろうとしているかのようだった。

 ふと脳裏をよぎった弟の顔の幻影に、スィグルは細いかすかな悲鳴をあげた。母上の胎内にいるときからずっと一緒で、一度も離れた事がなかった双子の弟だ。

 スフィルが眠っている間に、一瞬で命を奪ってやることもできただろう。あさましく生き残り、狂人として、恐怖にふるえながら毎日を送らせるよりも、そのほうがずっと親切だったかもしれない。

 墓所には、死肉を喰らう獣がうろついていた。自分の手を汚すのを嫌う森エルフどもによって、生きたまま捨てられた者たちも、ある者は正気を失い、ある者は生き延びる道を求めて、あの湿った闇の中を彷徨っていた。陽のささない地下で口にできるものといえば、わずかな茸類や、汚水に紛れ込んだ小魚や水棲の生き物ぐらいだ。そんなものでも、飢えを癒してくれるなら、ないよりましだった。だが、それだけで命を繋ぐのは無理な話だ。

 ふいに喉の奥によみがえった血の臭いに、スィグルは目眩を感じた。タンジールに戻り、もうろうと眠る枕元では、宮殿の医師たちが父に話す声が聞こえいた。殿下はおそらく……あの状況で生き長らえておられたのには、他に理由が考えられません。

 殿下は人の肉を……人の道に反することです。

 どっと吹き出た冷や汗が、気味悪く服を濡らすのがわかった。吐き気が舌を痺れさせる。悲鳴に似た耳鳴が、頭の奥で鳴り響いていた。そうだよ、父上、僕は人の肉を喰った。死にたくなかったんだ。そうしないと、僕も誰かに喰われてた。仕方がなかったんだ!!

 頭の中で、もう一人の自分が錯乱して喚きだすのを感じながら、スィグルは壁にもたれ、体を支えた。

 飢えと恐怖のために気のふれた墓所の囚人たちは、飢餓を満たしたいという本能だけで襲いかかってきた。スィグルは、弱った囚人が、他の囚人たちに襲われ、生きたまま肉を食いちぎられるのを何度も見た。その時の悲鳴。その時の血の匂いを、今でもスィグルは鮮明に憶えている。あの暗闇の中では、人の心など持っていない方が、幸せだったのだ。

 だからスィグルは人の心を捨てた。魔法の力を使って、獲物の頭を吹き飛ばし、そのなま暖かい内蔵を喰った。飢餓で痺れた舌には、人肉の味は甘く、腹を満たすと幸福なような気さえした。スィグルが自分のやっている事の意味に気付いたのは、自分を助け出した父に抱きしめられ、雅な香の匂いを嗅いだ時だった。自分がもう、父リューズの自慢の息子ではなく、ただの恥知らずの狂人に堕ちいていたことを、号泣して詫びる父に悟らされたのだ。

 父はあのとき、枕元の椅子からゆらりと立ち上がり、医師に向かって言った。「忘れよ」と。その凍てついた声を聞き、スィグルは、なぜ父が『悪魔』と呼ばれるのかを知った。父にとっては、意に反する正義など意味がないのだ。しかし、全ての者がそう思うわけではない。

 スフィルは狂った。繊細な弟は、耐えられなかったのだ。正気を手放さなければ、耐えられないような恐怖だったのだ。死よりも恐ろしい闇の中を生き抜かねばならなかった。その恐怖の中から戻り、正気を保っていたスィグルを、父は浅ましいと思っただろうか?

 ドンドンと扉が叩かれる音がして、スィグルはビクッと体を震わせた。心臓が早鐘を打っていた。目眩のせいで、スィグルはふらふらと扉に近付いていった。急かすように、ドンドンと再び扉が鳴る。

 「スィグル、いるんだろ? 飯を持ってきたんだ。開けてくれ」

 イルスの声だった。天井がぐるぐる回っているような気がした。扉の把っ手を握ったまま、スィグルは肩で息をした。

 食いたければ、這いつくばって足を舐めろ。金髪の異民族の冷ややかな目と、嘲り笑う声が、まるで耳もとで聞こえているかのように蘇ってくるのを感じて、スィグルは耳を覆った。魔法を使って、拷問吏を引き裂いてやりたかったが、そんなことをすれば、魔法を使えないスフィルが、ひどい目にあわされるのを知っていた。抵抗できない。飢え死にしたくなければ、やつらの言う事に従う他はなかったのだ。

 食事の話なんか聞きたくないんだよ、馬鹿野郎。スィグルは声にならないほどの小声で唸った。扉は執拗に打ち鳴らされる。

 苛立ったスィグルの神経は、その昂揚にまかせ、うるさく鳴っている扉を吹き飛ばしたがっていた。気が高ぶると、スィグルは時々、自分の持っている魔法を制御できなくなる。凶暴に暴れ出そうとする魔法の力を、スィグルは必死で押しとどめた。

「食事はいいよ、イルス」

 かすれた声を、スィグルはやっとの思いで絞り出した。

「腹が減ってるはずだ。開けろ」

 どん、と扉が鳴った。くらりとスィグルの視界が揺れて、目の前が灰色になった。それでもスィグルは、夢中で把っ手を引き、扉を開いた。イルスに詮索されたくなかったのだ。このまま閉じこもっていたら、イルスは、自分が殴ったせいでスィグルが機嫌を損ねているのだと思うだろう。殴られたことには、特に腹も立たなかった。下らないことで、イルスと一悶着あると面倒だ。

 廊下には、イルスのほかに、見覚えのある白系種族が二人立っていた。金色に輝く髪を見て、理性では押さえきれない恐怖感が、スィグルの中に込み上げてきた。

 もう僕を墓に閉じ込めないで。何も悪い事してないよ。ずっといい子にしてたんだ。なのにどうして、殺されないといけないの?

 頭の中で、悲鳴が響いた。それを口に出していないのを確かめるために、スィグルは自分の口元に触れてみなければならなかった。虜囚時代のことを思い出すと、きまって頭が混乱して、自分がどこにいて、何をしているのかも解らなくなることがある。それでも、自分がタンジールに戻ったことを知らないスフィルより、ほんの少しはマシだ。眠りの中で、あるいは目覚めたままの白昼夢で、朦朧と過去の暗闇の中をさまよう時も、浅ましいその思いだけが、スィグルを支えていた。

 「なんでお前らまでいるんだよ?」

 シュレーとシェルに目を向け、できるだけ迷惑そうな顔をつくって、スィグルは言った。

「ご…ごめんなさい。仲直りしたくて……」

 おどおどした表情で、森エルフのシェルが言った。シュレーは何も言わずに苦笑している。

「僕…会ったばかりなのに、いきなり怒ったりして、軽率でした。ほんとうにごめんなさい。もう一度、ちゃんと話がしたいなと思って……あの、良かったらもう一度、一緒に食事をしようよ…?」

 シェルを睨んだまま、苛立った息をついているスィグルを見て、イルスとシュレーが顔を見合わせるのがわかったが、スィグルはもう、何かを言い出す気力がなかった。

 イルス、森エルフを連れてくるなんて、僕を殺す気かい?

 スィグルは心の中でだけ泣き言を言った。

 タンジールで再会した母は、スィグルが誰なのか全く解らない様子だった。生きて帰った息子が目の前に立っていても、それが目に入らないのか、すっかり指のまばらになった手で、いつまでも髪を梳いては、時折、なにか歌のようなものをブツブツと口ずさんでいた。

 あいつらが母上をこんな風にしたんだ。気のふれた母を前に、スィグルは、森に棲む白い顔の連中の手から、一本残らず指を切り落としてやりたいと思った。それは母のための復讐でもあったが、自分自身のための復讐でもある。自分たちを卑しい部族だと蔑み、拷問した連中を、同じ目にあわせるまで、あの闇の中で味わった恐怖が消えないような気がするのだ。

 くらりと猛烈な目眩がして、スィグルの目の前が完全な暗闇になった。身体が床に打ちつけられる衝撃と、シェルのわめく悲鳴のような声が聞こえた。

 殴られた傷を治癒させるために、力を使ったせいだろうか。スィグルはゆっくりと意識を失いながら、後悔していた。

 誰かの温かい指が、首筋の動脈に触れるのがわかった。

「心拍が早い。顔も真っ青だし…貧血だろう」

 静かな声が、降りかかるように聞こえた。誰かが倒れた自分のそばに屈み込んで、介抱してくれている。

 この声は、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス。いけ好かない相手に情けをかけられたのが悔しかった。平気だ、と言おうとして、スィグルは自分の舌が動かないのに気付いた。そして、次の瞬間には、完全に意識を失っていた。


  * * * * * *



 「こいつ、やっぱりどこか悪いんじゃないのか? こんなに度々気を失うヤツなんて、知らないぜ」

 あきれたように言うイルスの声で、スィグルは目をさました。薄く目を開けると、目の前に、指輪をはめた小さな白い手があった。しばらく考えたあとで、スィグルはそれが自分の手だと気付いた。

 わけもなく驚いて起き上がると、ずきんと激しい頭痛がした。その痛みがひくと、とたんに周りの景気が目に飛び込んでくる。スィグルは、自分の部屋の寝台に寝かされていた。その周りに腰掛けたイルスと、シュレーとシェルが、無遠慮な視線を自分に向けている。シェルは心配そうな顔でスィグルを見つめているが、イルスとシュレーは、いかにも退屈そうだった。

 「気がついたか。よく寝るやつだな、お前」

 組んだ自分の膝の上で頬杖をつき、イルスはうんざりした顔をしている。

「…僕、どれくらい寝てた?」

 やっと絞り出した声で、スィグルはイルスに話しかけた。

「いや、大した時間じゃない。倒れたのも、ついさっきじゃないかな。大丈夫か?」

「殴られたせいで、どこかおかしくなったのかもしれないよ」

 何となくムッとして、スィグルは不機嫌な声になった。とって付けたように心配されても、不愉快だ。イルスが少し気まずそうにため息をついた。

「悪かった。今度は手加減する」

「殴るのをやめてくれればいいのに」

「お前が口で言って解るようになったらな」

 寝台のそばの机に置かれていた陶器のカップを取って、イルスはそれをスィグルに差し出した。空腹に響く、いい匂いがした。わけもわからずカップを受け取ると、スィグルはその中を用心深く覗き込んだ。澄んだ色のスープが入っている。少し冷め始めているようだが、まだかすかに湯気がのぼってくる。

 「これなに?」

 くんくんと匂いをかぎながら、スィグルは言った。

「名前のないスープ」

 頬杖をついたまま、イルスがさも当たり前のように答えた。

「それ、イルスが作ったんだよ。みんなで食べようって言って、他の料理も一緒につくったんだ。スープだけは、冷めるといけないから、僕ら先に飲んじゃったけど、すごく美味しかったよ」

 興奮ぎみの口調で、シェルがぺらぺらと説明する。この森エルフは、スィグルに話しかける時、いちいち顔を赤くするほど意気込んでいるらしい。返事をするかわりに、スィグルはふんと馬鹿にしたような声を立てた。すると、シェルは居心地悪そうにイルスの方を見た。

 いつの間にか、シェルはやけにイルスを気に入った様子だった。それが、そこはかとなく不愉快で、スィグルは苛立った。

 「飲め。お前の嫌いなものなんか入ってない」

 イルスの口調が、子犬でもしつけるような感じだったので、スィグルはさらに苛立った。だが、敢えて何も言わずに、カップに口をつけた。スープのほの温かい感覚はわかったが、スィグルには何の味も感じられなかった。スープだと偽って、ただの白湯を飲まされていても、きっと気がつかないだろう。

 森の墓所から助け出されて、タンジールに戻ったあと、スィグルは自分が食べ物の味を全く感じなくなっているのに気付いた。宮殿の医師たちが、様々な手をつくしたが、結局それだけは、どうしても回復しなかったのだ。

 それでも、食べ物が胃にしみわたるような感覚をおぼえて、スィグルは自分がかなり空腹だったことに気付いた。そういえば、朝からまともに食事をしていなかったのだ。

 「うまいか?」

 真面目腐った顔で、イルスが尋ねてきた。

「さあ」

 スープを飲み干しながら、スィグルは愛想もなく答えた。それでも、イルスはにやっと満足げに微笑した。

「いちいち文句を言うヤツだ」

 カラになったカップをスィグルから受け取り、机に戻しながら、イルスが言った。

「他のも食えるか?」

 寝台から立ち上がって、イルスは剣を吊す革帯を締め直している。どこかに出かけるつもりのようだ。

 「食えるかって……そりゃ大丈夫だけど。どういうことだよ」

「ピクニックだよ」

 嬉しそうに、シェルが口をはさんだ。スィグルは顔をしかめ、部屋を出ていくイルスの背中を見送った。シェルとシュレーのいる部屋に一人で残されるなんて、ほとんど拷問だ。しかもそれが自分の寝室ときては、逃げ出す場所さえありはしない。

 「ちょっと待ってよ、イルス…」

 早口に呼びかけても、イルスはそれが聞こえていないように、さっさと扉を開けて出ていった。眉間に皺を寄せて、スィグルは嬉しげに自分の顔を覗き込んでくる森エルフを睨み付けた。

「気安く近寄るな。勝手に部屋に入ってくるなんて、どういう神経だ」

 スィグルの声には刺が満載されていた。シェルが、しゅんとしてうつむいた。

「フォルデスは、君とマイオスを仲直りさせたいんだろうな」

 おさまりかえった静かな声で、シュレーが横槍を入れてきた。寝台の端に腰掛けたままのシュレーは、何かの間違いで神殿の壁画から抜け出てしまったような、近寄りがたい雰囲気を身にまとっている。スィグルには、それが恐ろしかった。地上で最も神聖な血の匂いが、シュレーの容姿からはぷんぷん臭ってくる。

 「余計なお世話だ」

 押し殺した声で、スィグルは言った。少しも自分の気持ちを考えようとしないイルスに、腹が立った。だが、それも仕方のない事だ。イルスは何も知らないのだし、スィグルは、自分の身の上話をして、彼が自分に同情する顔を見る気もなかった。

「残念だけど、君のためを思ってのことじゃないな。彼はマイオスに気を遣っているんだ。何があるのかは詮索しないが、フォルデスに見損なわれるのがイヤだと思うのなら、そろそろ折れた方がいいよ、レイラス」

「もう神官でもないくせに、お説教か」

 カチンときて、スィグルは思わず皮肉を言った。身体をよじるようにして振り向いたシュレーの顔は、意地悪そうに笑っていた。

「忠告だ」

「クソ坊主…」

 軽くうずき始めた頭を抱えて、スィグルは唸った。目眩がするのは、たぶん、緊張のためだろう。認めるのは屈辱的だったが、スィグルはすぐ側にいるシェルの視線が怖かった。記憶の中に焼き付いている、森の民の緑の目は、スィグルにとって恐怖の具現だった。

 「私たちと食事をするのが嫌なんだったら、あんな方法じゃなく、もっと角の立たないやり方で逃げ出した方がいい。そうじゃないと、フォルデスは何度でも君を私達の前に連れ出すだろうな。ちゃんとした理由を持ってるんだったら、フォルデスには話したらどうだい。わざと怒らせるのは良くないよ」

 悪魔のような微笑をうかべ、シュレーがスィグルを見つめている。こういう奴が、平然と人を陥れるのだろうなとスィグルは思った。

「それじゃ…わざとだったんですか?」

 びっくりした顔で、シェルが頓狂な声をあげる。スィグルはため息をついた。

「僕は白系種族が嫌いなんだ。イルスがその理由で納得しないから、もっと具体的な方法でそれを示しただけだよ」

「…でも、そんな理由って……ひどいと思うよ。もし、誰かに、黒系種族は嫌いだから、顔も見たくないなんて言われたら、やっぱり嫌だと思いませんか?」

 シェルは言葉を選びながら、誠実そうな口調で、熱心に語りかけてくる。スィグルは俯いたまま答えた。

「そんな奴…珍しくもない。お前らは皆そうだ」

「そんなことないです! 僕は、君と友達になりたいって本当に思ってる。他の人たちだって、きっと同じだよ」

 シェルは早口にまくしたてた。スィグルは苛立ちのため、身震いした。

「違うよ、マイオス」

 静かに、シュレーが口をはさんだ。シェルが不意をつかれて、ぽかんとシュレーを眺めた。

「君は知らないのかもしれないが…レイラスの言っている事の方が正しい。白系種族と黒系種族は、有史以来ずっと対立しつづけている。種族が違うというだけで、憎み合い、殺し合って来た。今でもそれは変わらない。だから、マイオス、君一人が黒系種族を差別しないからといって、彼らへの迫害の歴史が帳消しになるわけではない」

「…そんな………でも……じゃあ僕は、どうしたらいいんですか」

 動揺した声で呟くシェルは、今にも泣き出しそうに見えた。

「そんな方法は誰も知らない。知っていれば、とっくに問題は解決している」

「……わかったような口をきくなよ、猊下(げいか)」

 疲労のため、スィグルの声はかすれていた。

「すまない。だが、私は思ったことを言っただけだ」

 シュレーの言葉からは、同情も蔑みも、欺瞞に満ちた優越感も感じとれなかった。スィグルは何も答えられなくなった。

 出し抜けに、部屋の扉が開かれた。

「出かけるぞ。スィグル、お前も来い」

 イルスが顔を出し、強い口調で言った。

「心配しなくても、レイラスは来るよ」

 戸口のイルスに微笑を向けて、シュレーが言った。何事もなかったような、穏やかな微笑だ。しかし、泣きそうな顔をして俯いているシェルを見とがめて、イルスはかすかに顔をしかめた。

 言っておくけど、これは僕じゃなくて、猊下の責任だよ。スィグルはイルスに、そう言ってやろうかと思ったが、結局、思いとどまった。

 「外で食事するのはいいけど、どこまで行くの」

 顔をあげて、スィグルは尋ねた。

「世界の果てまでだ」

 短く答えて、イルスはまた扉の向こうに消えた。

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