009 悲鳴
壁越しにもはっきりわかるほどの明かな悲鳴が響きわたり、眠っていたイルスの意識を一瞬ではっきりと覚醒させた。
「なんだ?」
とっさに、枕元に置いていた剣を握ったまま、イルスは寝室を出ていた。廊下には火を小さく絞ったランプが置かれているだけで、イルスはすぐには目が慣れず、廊下の奥にうずくまっている人影に気付かなかった。
壁の窪み(アルコーブ)に置かれているランプに近づき、イルスは明かりが強くなるように調整した。それで初めて、その人影に目がいく。
スィグルだった。
廊下の壁に擦り寄ったまま、スィグルは放心したように座り込んでいる。投げ出した自分の足を、険しい表情で見つめてはいるが、もう悲鳴はあげていなかった。
「目がさめたらしいな」
ため息をついて、イルスはスィグルに話しかけた。
気を失ったまま、なかなか意識を取り戻さないので、学寮の医者を呼ぶほかはないかと思っていたら、スィグルは気楽なことに、いつのまにか寝息をたてていた。気を失っているというより、疲れはてて眠っているという風だったので、イルスはばかばかしくなって、黒エルフを彼の寝室に放り込み、自分も寝ることにしたのだ。
しかし、結局叩き起こされる羽目になった。
乱れた前髪を手で梳いて、イルスはうっすらと腹がたつのを、なんとかやり過ごそうとした。真夜中に叫ぶのも、黒エルフ風の流儀なのかもしれない。
「おい」
スィグルと視線を合わせるために、イルスは床に膝をついた。それでやっと、スィグルががたがたと震えていることに気付いた。
「どうしたんだ…?」
伝い落ちた汗が、スィグルの顎から滴り落ちそうになっている。もともと青白いスィグルの顔が、ますます青ざめていて紙のようだった。
「気分でも悪いのか?」
「…吐きそうだ」
そういう割には、意外としっかりした口調で、スィグルは答えた。
「夢を見たんだ。それだけだよ。起こしちゃったね……ごめん」
薄闇の中で、スィグルの黄金の瞳が冴え冴えと光っている。少し薄気味の悪い目だ。
スィグルが素直に詫びたので、イルスは咎め立てしないことにした。多少は心配だったこともあり、目を覚ましたのなら、ひとまずはよしとする気になったのだ。
「あの後、どうなったか憶えてないよ」
かすかに震えている声で、スィグルが言った。
「そうだろうな。お前はどういうわけか勝手に壁にぶち当たって、そのまま気絶してたんだ」
「ああ…そうか。咄嗟だったんで慌てちゃって、力の使い方を間違えたんだ。相手の剣を折るだけのつもりが、自分にも食らってしまったみたいだ。カッコつかないね」
冷や汗に濡れた顔で苦笑して、スィグルは滴り落ちそうな汗を拭った。
「力を使いすぎると、消耗して気を失うことがあるんだよ。気をつけないといけないんだけど、頭に血がのぼってたんだ」
スィグルが済まなそうに言うので、イルスはため息をつき、肩をすくめた。
魔導士のことは、イルスにはよくわからなかった。イルスの師匠は、剣も使い、魔導の心得も持つ達人だったが、イルスが師匠から教えられた魔導についての知識はごくわずかなもので、スィグルがなぜ力を使いすぎると気絶するのかまではわからない。少なくとも、イルスの師匠が力を使いすぎて気を失ったことはなかった。
スィグルが未熟なのか、師匠の技が優れていたのか、それとも、両者は全く違う性質の技を使うのか。魔導士にも様々な流派があり、剣術と同様、様々な流儀があるようだから、師匠のわずかな教えから頭ごなしに未熟だと決めつけるのは良くないだろう。
イルスが父の命令で師匠に弟子入りする事になったとき、師匠はイルス自身に道を選ばせた。魔導か、剣か、どちらを選んでもいいが、両道を極める時間はお前には与えられていないと師匠は言った。幼いイルスは剣士になりたかった。だから迷うこともなく剣を選んだ。
今同じ事を問われても、やはり剣の道を選ぶという自信がある。海エルフ族の中に魔導士が生まれることは稀で、彼らの力は正体のない不気味なものと受け取られていた。師匠のように、剣を極めた上に身に付ける技能としてなら尊敬されもするが、剣を握る前に習い憶えるようなものではないと考えられている。イルスも魔導というものを、そのように受け取っていた。
師匠は、イルスを手放す時、弟子が剣をとって魔導を捨てたことについて、残念なことだと言った。お前は剣もなかなか使うようになったが、天性、魔導の素養がある。限られた時を無駄にしたな、弟子よ。師匠のその言葉を、イルスは屈辱的な気分で聞いた。結局、師匠の剣技を皆伝する前に、人質として故郷を離れることになってしまった。
師匠は、魔導士としての修練の結果、予言の力を持っていた。イルスが弟子入りした日に師匠が言った、両道を極める時間はないという言葉は、本当だった。両道どころか、片方の道すら皆伝に至らなかったと、イルスは苦々しい気分で思った。それとも、魔導を選んでいれば、同じだけの月日が流れるうちに、一人前だと認められるほどの力を手に入れられたのだろうか。だから師匠は残念だと言ったのか。
スィグルが手を触れることもなく、次々と対戦者を倒すのを目の当たりにして、鮮やかなものだと思いはした。だが、イルスには、自分が同じように魔導で戦うところは想像がつかなかった。たとえ素養があると言われても、ひとふりの剣だけを携えて戦うのが、海の者の誇りというものだ。
「そういえば、あいつは?」
突然、スィグルが言った。イルスは驚き、我に返った。しかし、イルスがスィグルの方に目をやっても、スィグルは相変わらずぐったりと座りこみ、うつむいたままだ。イルスは戸惑った。
「あいつ?」
上擦った声で、イルスは問いかけた。すると、スィグルは顔をあげ、イルスと視線を合わせた。
「シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス」
スィグルが淀みなくその名を言うので、イルスは彼の記憶力に感心した。
「お前、よくそんな長い名前を憶えてられるな」
「僕は一度聞いたら大抵のことは完璧に憶えていられる体質なんだ」
「得な体質だな、うらやましいぜ」
「そうでもないよ。忘れられないっていうもの時には問題だ」
冗談のつもりなのかもしれないが、スィグルの顔があまりにも真剣だったので、イルスは返答に困った。
「なにか食べたい」
疲れ切った風に目を閉じて、スィグルがぽつりと言った。イルスは呆れた。
「そりゃそうだろうな。あれだけしか食わないんじゃ、すぐに腹が減るさ」
頭痛でもするのか、スィグルは頭を抱えた。そして、親に怒られた子供のように、片目だけ開けてイルスの機嫌をうかがう目をした。
「食事しにいくよ。イルス、付き合って」
「俺は別に腹は減ってない。眠いだけだ。だいたい、こんな時刻に飯なんか食えるもんか」
本心から、イルスは言った。夜明けまでもうじきだが、起き出すには早すぎる。
「夜中に一人でものを食べるのって惨めだと同情してほしいなあ」
「俺の故郷では、そういう聞き分けのない餓鬼は空きっ腹のまま眠らせるのが常識だ」
腕組みしてイルスが冷たく言うと、スィグルはごまかすように笑った。
「実は僕の故郷でもそうだよ。でもちょっとの間じゃないか、付きあったっていいだろ? 同居の相棒が、孤独にむせび泣きながら夜食を食べてるなんて、考えただけでも寝覚めが悪いと思うんだけどなあ」
「……なんてやつだ」
目元を覆って、イルスは悪態をついた。
「どうやって飯なんか食う気だ?」
「いつでも料理を出す店が1つだけあるんだ。眠れない学生が一晩中飲むためにね」
にこにこと愛想笑いをつくって、スィグルが説明する。
「ここはずいぶん甘い学院らしいな」
「だから白系の将校は腰抜けなのさ」
「ふざけるな」
したり顔のスィグルを軽く蹴飛ばして、イルスは自分の寝室の扉に向かった。
「うわ、乱暴だな。結局付き合ってくれないのか」
スィグルは驚いた様子で言った。
「着替えるんだよ、馬鹿」
自分の人の好さが情けなくなって、イルスは腹を立てていた。
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