農協おくりびと (87)TPPという、嵐がやって来る
「ホント。選別するだけで神経衰弱になりそうです。
とてもじゃないけど、わたしは、キュウリ農家のお嫁さんになれそうも有りません。
あっ、ごめんなさい。本心じゃありません。
雑音として、寛大な心で聞き流してください」
「気にしないさ。俺もカミさんには、農家を手伝わせないと決めている。
一家総出で、農業を支えてきたのは昔の話だ。
嫁さんをもらえば、戦力が増えるなどと考えていた農業はもう古い。
だいいち。その程度の労働力では、いつまでたっても規模の拡大はできない。
3~4人の労働力では、朝から夜遅くまで働き続けることになるからだ。
そんなギリギリの職業に未来は無い。
親父もおふくろもいまは元気だが、まもなく還暦を迎える。
近い将来。戦力として当てにするわけに、いかなくなる」
「そうなったらどうなるの。若いキュウリ農家の行く先は?」
「収穫期に入ったら、他人を使う。
いまよりも規模を広げて、ハウスも大きくする。きゅうりの苗も増やす。
5人、10人とパートのおばちゃんを使って、収穫と出荷を軌道に乗せていく。
家内労働力に頼っていた時代は、もう終わりだ。
これからは他人をたくさん使い、ひとまわり大きな生産に乗り出していく」
「大きく出ましたねぇ。栽培規模を広げ、他人を使っても採算は合うの?」
「いきなり大きくするための借金はできない。しかたないから、徐々に規模を広げていく。
5年後には、いまの3倍から5倍の規模へ拡大するつもりだ」
「ふぅ~ん。大きな夢を描いているのね、あなたって」
「呑気なことを言っている場合じゃねぇからな。
農協の職員なら、TPPの交渉が基本合意したことは知っているだろう」
「日本と米国を中心にした、環太平洋地域の経済連携協定(EPA)のことでしょう。
知っているわよ、そのくらい。
2006年に、シンガポール、ニュージーランド、ブルネイ、チリの4カ国間で
発効したP4(パシフィック4)が、はじまりです。
2009年に米国が参加表明したことで、状況が一変します。
その年にオーストラリア、ペルー、ベトナムが参加して、名称もTPPに変更されます。
2010年にはマレーシアが加わり、参加国は9カ国に拡大します。
12番目の参加国として日本が加盟したのは、2013年のことです。
それからのことでしょ。何かとTPPが話題になりはじめたのは」
「おっ、知っていたか、よかった、ひと安心した。
そのTPPが今年(2015年)の10月5日、基本合意に達した。
発足するのは先の話だが、環太平洋で、関税が完全に撤廃される時代がやって来る。
太平洋の真ん中に、どちらへ進んでいくかわからない超大型の台風が、
誕生したようなものだな」
「でも。関税を撤廃することで、日本にメリットは有るんでしょ?」
「関税の撤廃により、貿易の自由化が進む。日本製品の輸出額が増大する。
大手の製造業企業にとっては、企業内貿易が効率化し、利益が増えることになる。
環太平洋に乗り遅れなかったことで鎖国状態から脱し、GDPが10年間で
2.7兆円増加すると言われている。
政府は試算でGDPが、年間2700億円は増加すると見込みんでいるからだ。
経済産業省の試算によれば、TPPに参加しないと雇用が81万人減るともいっている。
だがまぁ、すべて机上の計算だ。
なにがどうなるのか、正確なことはまだ誰にもわからない。
しかし確実に現実化されるデメリットが、有る。
農業への打撃だ。
農産物の関税がなくなることで、農業に、途方もない衝撃がやってくる」
「関税がなくなることで、農家が大きなダメージを受けるというの!」
「農業だけじゃねぇ。デメリットは他にもまだまだたくさん有る」
聞きたいかと山崎が、ちひろのそばへやって来た。
朝の作業を終えたハウスの中から、すべての雑音が消えた。しんと妙に静まり返ってきた。
かすかに鳴っていたラジオが、「まもなく10時です」と小さく時報を告げる。
(88)へつづく
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