〈62〉24人のハンニバル

 先に出てきた玲と霞が外で待っていると、しばらくして植物園から雅也と真奈美が戻ってきた。


 だが雅也の様子がおかしい。着ている白衣ごとずぶ濡れで、くしゃみを連発している。


「お前どうした!」


「いや、それが――」


「こいつ、オオオニバスの葉に乗ろうとして、池に落ちちゃったのよ。板引かずにいきなり飛びのっちゃって」


「は? なんだそりゃ?」


 眉をひそめた玲の横から霞が進み出て、真奈美にそっとハンカチを差し出す。真奈美ははにかみながらそれを受け取った。


「ほんとにバカなんだから……」


 上着を脱いだ雅也を甲斐甲斐しくふいてやる真奈美を見ながら霞がフフッと笑うと、厳しい顔つきの玲の手を握る。笑顔を向けられ、玲の表情もゆるんだ。

 


 ◆◇◆



「クション!」


 研究室に戻る構内の廊下を、雅也がくしゃみを響かせながら歩く。


「しっかし、地震でもまったく無傷って、すごい設備だな、水族館も動物園も」


「よっぽど耐震構造がしっかりしてるのね」


 そんな良助と真奈美の話を聞きながら歩いていた霞は、ふと、目の前を歩く涼音の白衣のポケットから白いものがひょこっと顔を出したのを見つけた。


「あれ? 涼音、それ何?」


「……あ……その……」


「あ、これはだな、動物園に落ちてたんだ」


 間に入って良助が弁解する。


「何が? ってそれ、ハムスターじゃない!」


「……あ……あの……研究室で……飼おうかと……思って……」


「うわ、かわいいー。って、これハツカネズミね」


 前を歩いていた真奈美が涼音のポケットの前にしゃがみこんだ。


「あら、そうなの?」


「生物学部で実験用に飼育してたのが、動物園に紛れ込んだのかも」


「……飼っちゃ……ダメかな?」


「そりゃ、あたしはいいけど。生物学部としても持ってかれて困るもんでもなさそうだし。みんなは? たぶんアレルギーとか出ない種類だけど」


 そう言いながら真奈美は玲の表情を見上げる。


「いいんじゃねーか? 別に」

「僕も問題ないけど」

「わたしも大丈夫よ」


 涼音の顏がぱあっと明るくなった。


「おお、よかったな! 配線とかみ切らないようにしっかり面倒みるんだぞ」


 良助は笑って涼音の頭に手をのせた。


「……うん!」



 ◆◇◆



「とりあえず空き箱かなんかで、そいつの家を作らねーとな」


 戻ってきた研究室のドアを開けると、良助は円卓の周りを物色し始めた。


「廃棄サーバーのケースならカフェテリアの外にあったよ。待ってて、取ってくるから」


「お前は先に服を着替えろ!」


 玲の言葉も聞かず、雅也は研究室を飛び出して行った。涼音はネズミを両手に乗せてにこにこしている。


「えさ、何がいいのかしら?」


「ああ、なんでも食べるよ。ところでオスかな? メスかな?」


 真奈美がそう言って涼音からネズミを受け取ると、持ち上げて見た。


「オスみたい」


「お前、気になるのそこかよ!」


「だってオスなのに女の子みたいな名前つけたらかわいそうじゃない。で、名前どうする? 涼音」


「……うーんとね」


 良助と真奈美の言葉に涼音は少し考えて、顔をあげた。


「……アルジャーノン!」


「え?」


 真奈美が続けて何か言おうとしたとき、


「涼音、その名前は、やめておいたほうがいいと思うの」


 霞が穏やかにさとした。


「……そう……じゃあ……」


 涼音は少し考えて、


「……ミリガン!」


「え?」


 真奈美が続けて何か言おうとしたとき、


「ごめん、わたし……その名前はもっと嫌いなの」


 霞が説得した。


「……そう……じゃあね……」


 涼音は少し考えて、


「……レクター!」


「やっぱり……アルジャーノンで……いいわ……よ」

「な、なんか安直すぎるし可哀想な気もするけど、まあ、いいか」



 ◆◇◆



 二台のタクシーが停まると、みんなで真奈美の自宅に入る。


「ただいま~」


「うー、腹へったな」


 思考停止状態の真奈美と良助が口に出した。


「……アルジャーノン……大丈夫……かな?」


「どうしたの?」


 うつむく涼音に霞が声をかける。


「……せまい……ケースの中……昔の……私みたい……って……思ったの」


「そうよね。あなたたちも長いこと、外出しなかったんだものね……ん?」


 応接間に入ったところで霞が突然足を止めた。


「ん? どうした?」


 後ろの玲も立ち止まる。


「ちょ……ちょっといいかしら?」


「なんだ?」


「まなみんに聞きたいことがあるの。あなた、博士がこの家から外出したところを、見たことある?」


「え?」


 みんなが真奈美の方を向く。


「えーっと、そういえば…………ないな」


「なに?」

「マジで!」

「どうやって生活してたんだよ!」


 玲と雅也と良助が驚気の声をあげた。


「ひょっとして大学にも行ってないってこと? じゃ、どうやって研究室を立ち上げたの? そもそもどうやって研究してたの?」


 雅也が言い直す。


「そりゃ、あたしがここに来た時より後のことしか知らないんだけど……えっと……なんでだ? 本当に記憶にない――」


 真奈美が答えたそのとき、突然涼音が玄関に走った。


「おいおい、なんだ? どうした?」


「……靴が……ない……博士の」


 戻ってきた涼音が良助に答える。



 一同、沈黙。



「あたし…………おじいちゃんの……なにを知ってたんだろ……」


 そう言ってすっと立ち上がると、真奈美は一人、応接間を出て行った。


「まなみん?」


 雅也も立ち上がり、真奈美のあとを追いかける。


「……言い過ぎちまった、かな?」

「……雅也にまかせよう」

「そうね」


 一言ずつ口に出し、三人が黙ったとき、


「……かすみん」


 おもむろに涼音が口を開いた。


「ん? 何かしら?」


「……どうして……博士のこと……わかったの?」


「そうね、なんとなく……なんだけど」

「……うんうん」


(なんて言おうかしら、この子異常に鋭いからなー)


「…………」


「リアルホロって、行動範囲が限られているんじゃないかな? って思ったのよ」


「なに?」


 玲が顔をあげた。


「ほら、なんていうか、リアルホロって投影機があればそれを自分で持ってどこにでも行けるイメージがあるじゃない? だけど、本当にそうなのかな? ってちょっと疑問に思ったのよ」


「なるほど。確かにエネルギーを補給し続ける必要はありそうだが」

 

「あんまり、大きな声じゃ、言えないけどね」


「そうだな」


 霞の小声に玲がうなずき、再びみんなが静かになる。




 ――ガチャ


 突然真奈美と雅也が応接間に入ってきた。


「みんな、ごめん。心配かけちゃったね。これからご飯作るね」


「……手伝う!」


「わたしも!」

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