〈39〉DNAの境界線
大学に向かうタクシーに乗り込むと、真奈美はかばんから白衣を取り出し、膝の上に乗せて持った。
「その白衣って、まなみんにとっては大事なものなんだよね?」
「うん。お父さんの形見」
「そうだった。確かまなみんのお父さんって、生物学者だったんだっけ?」
「そうよ~、あたしの永遠の目標。この白衣を着ると、お父さんが天国からあたしに力をくれる気がするの」
話しながら、雅也は自分の会話力の無さに嫌気がさしてきた。話を振るたびに真奈美につらいことを思い出させるようで、やたらもどかしい。
「そういえばあんたに聞きたいことがあったんだ」
「どんなこと?」
「物理学と心理学って、なんの接点もないわよね? あんたすごい思い切りいいなって思ってたのよ」
「なんで? 接点大ありだけど」
「は? そうなの?」
「知らない? 『精神物理学』って」
「マジで? なにその取って付けたような学問名」
「……けっこう昔からあるんだけどね」
「っていうか、心理学と物理学ってどうやって結びつくのよ」
「結びつきというか、ここ数年の物理学ってかなり精神世界に寄ってるんだよ。物理を専攻しないとニュートン力学あたりで話が終わってるかもしれないけど、今の物理学はその約4万倍くらいの広がりがあるんだ」
「4万倍……って、それだけで一般人には想像もつかないわね。けど、そもそも物理学って、普遍的な法則の研究でしょ?」
「って思うでしょ?」
「違うの? すでにそこから違うわけ?」
「うん。今の物理には『テキトーさ』が求められているんだ」
雅也が真顔で言った。
「あのさー、玲ちゃんがそれ言ったら信じるけど、あんたが言っても説得力ないよ」
「いや、本当だってば! 玲に聞いてみなよ。博士も言ってたじゃん。物理世界と精神世界が互いに影響を及ぼすって」
少し落ち込みながら説明する。
「そういえば、そんな話あったわね」
「わかりやすく言うと『普遍的な法則なんて、あると思う方が間違ってる』っていうのが最新の物理学研究のアプローチ」
「確かにわかりやすいけど、あまりにぶっちゃけすぎてやる気なくすわね」
「そうかな。僕、結構好きなんだけどな」
「その『あんたの気持ち』だけはとてもよくわかる気がするけどさー」
「だからこれまで多くの学問の基礎とされてきた物理学が心理学に影響を受けて、学問がループするようになってきてるんだ。聞いたことない?」
「『生物学は化学、化学は物理学、物理学は数学、数学は哲学』ってやつ?」
「そう。そこに哲学は心理学、心理学は物理学、とくっつけば――」
「生物学はループしてないじゃん」
「あれ? そのあたりはまなみんの専門なんじゃないの? 確か無生物についての研究でつながっているとか?」
「あら、よく知ってるわね。興味あるの?」
「だって、元々生物なんていなかった地球に生命が誕生したわけだよね? だからこのまま科学技術が進歩すれば、何もないところから生命を生み出すことって実は簡単にできるんじゃないかなって」
「あー、やっぱりそっち行くわよね。じゃあ生物学とほかの自然科学の違いってなにか知ってる?」
「知らないけど『生き物を扱うかどうか』じゃないの?」
「確かにそうなんだけど、厳密に言うと『そこにDNAがあるかないか』。DNAの謎が解き明かされたら生物学は他の学問に吸収されるんだってさ」
「へー、そうなんだ」
「で、その研究に取り組んでいたのがあたしのお父さんだったのよ。実はノバスコシアの研究ではあと20年ほどで解明されるんじゃないかって結論が出てるみたいなんだけどね」
「え? そうなの?」
「うん。『DNAの境界線』って研究で、そこがつながれば科学の発展はさらに急加速するんだってさ」
言いながら真奈美は白衣に目を落とす。
「まなみん」
「なに?」
「それって、つらくない?」
「なにが?」
真奈美が顔をあげて雅也を見た。
「だって、すでに先が見えてる研究なんでしょ?」
「どうして?」
「他の学問に吸収されるってさっき自分で言ったじゃん」
「あー、実はあたし、そんなに簡単に謎が解明されるとは思ってないのよ」
「どういうこと?」
雅也の疑問に真奈美は少し考えてから口にした。
「化学的な見地からすれば、確かに簡単にできるんじゃないか、って思われてる気がする。遺伝子解析なんて言葉、大昔からあるわけだしね。なぜそれが今までできていないか? 私はそこに『魂の問題』が存在しているって信じてるの」
「たましい?」
「うん。それこそ精神論みたいだけどさ、仮に細胞作ったって死んでちゃ意味ないのよ。けどね、生きている細胞も死んでいる細胞も、分子レベルでは変わりがないわけ。結局のところ生物って、生命という魂を入れている箱なのよ」
「なんかテキトーな話になってきたなー」
「あんたに言われるのは心外だけど、まあそうね。でも、だからこそそんなに簡単じゃないって思ってる。それと――」
真奈美が再び白衣に目を落とす。
「それと?」
「昨日、すうっと消えたおじいちゃん、やっぱり……魂だったのかしら……」
うつむいたまま口にした影のある表情に、雅也はそれ以上声をかけられなかった。
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