第20話 テストマッチ(W・G・グレース編)

 テストマッチ実現の見込みが高まったことで、三学期は練習にも熱が入った。それは野球部だけでなく、対戦相手の野蛮族も同じだ。それまでは僕らの練習に加わっていたのに、彼らだけで独自に練習するようになっていた。


 野球部の間では、いろいろな噂も流れていた。

「アーサーが、あいつらにクリケットの秘密特訓してるらしい」

「それ本当? 樋口」

 と僕は聞いた。形式的には野球部キャプテンの樋口君の言葉とはいえ、信じがたい。

「アーサー、最近サッカーにもラグビーにも出てないって」

「今年の県大会終わったし、来年の県大会にはアーサーもういないもんな」

「うちにも時々顔を出す程度だろ。残るところは野蛮族しかない」

 樋口君の言葉から、噂の根拠は消去法によるものとわかり、僕は信用しなかったけど、二月になると、どうもその噂が本当らしいとわかってきた。


「ホワイトナイト・バーバリアンズ?」

 樋口君から初めてその言葉を聞かされたとき、僕は思わず笑ってしまった。

「ハハ、何それ。白夜に暴走するの?」

「夜じゃなくて騎士。日本語でいうと白騎士野蛮族になる」

 NIGHTでなくてKNIGHTのほうだ。

「暴走族でも改名するのか。総長でも替わったの?」

「暴走族名はいままでどおり。ホワイトナイトバーバリアンズというのはクリケットのチーム名。暴走族とメンバー一緒だけど」

「かなりやる気みたいだな」

「あんな寄せ集めにうちが負けるわけないだろ」

 樋口君は余裕を見せてそう言ったが、こちらもそれほど経験を積んでいるわけではない。


 樋口君は、ホワイトナイト・バーバリアンズイコール爆走野蛮族のように言っていたが、ひげによるといつもの暴走族だけでは試合の人数が足りないので、他に仲間を誘っているらしい。

 彼らの仲間だから、同じような気性の荒い方々なのだろうけど、うちの野球部もその傾向があるからいい勝負だ。


 二月の終わりには、架空部員も含めると試合人数の見込みもたって、アーサーは学校を通して、三月の終わり頃の予定で、工場跡地の使用許可を打診した。

 土日は他も使う可能性があるが、平日なら全然大丈夫、と言われ、平日で予約したとのこと。先に予約すれば、土日も使えると、僕らはアーサーに訴えたが、騎士道精神に富む彼は、新参者がそこまで権利を行使するのは卑怯だといって突っぱねた。


 そして、卒業式や終業式が終わり、ついにテスチマッチが実現することになった。

 ちなみにホワイトナイトバーバリアンズに対抗して、うちもチーム名をつけた。

 それがなんと、ベースボーラーズ(野球人)。皮肉な名前だ。


 両チームの参加メンバーは次の通り。

 

 ベースボーラーズ            ホワイトナイト・バーバリアンズ

 

1神藤                    1川辺

2佐藤                    2山田太郎(架空)

3W・G・グレース(架空)         3田口

4速水                    4コナン・ドイル(架空)

5樋口(新主将)              5水谷

6中野(主将)                6岸上(総長)   

7茅野                     7H・G・ウェルズ(架空) 

8和田                     8玉城 

9シャーロック・ホームズ(架空)     9足立          

10小杉                     10沢田

11坂井                     11高沢 

  

 五名の架空部員は、基本的に誰がなってもいいが、同一人物でバッツマンのペアは組めない。つまり、僕四番速水誠がバッツマンのとき、三番グレースを僕がつとめ、二人でバッツマンを組むことはできない、

 って当たり前だから、こんなこといちいちルール規程に盛り込むな。そのくせ肝心なことは決めないから、後でもめるの必至。

 それと、社会人が多いバーバリアンズのほうが、架空部員枠が一名分多い。さらに架空部員以外の選手についても、各チーム一人まで交代可能だが、フィールダーとしてのみだから、あまり意味がない。


 架空部員の名称の由来だけど、


 ウィリアム・ギルバート・グレースは、十九世紀のクリケット選手。といってもプロではなく、本業が医者だったので、ニックネームは「ザ・ドクター」。ドクター以外にも、「WG」や「ジ・オールドマン」、「ザ・チャンピオン」などと呼ばれた。十六歳から六十歳まで第一線で活躍し、その後もマイナーな試合には出ていた。


 六十七歳で亡くなるが、前年の試合が最後になった。その驚異的な記録は、今日に至るまでトップクラスの成績として残っている。打者のスコアでは史上五番目、投手のウィケット獲得数では史上六番目、野手のキャッチ記録では史上二番目とオールラウンドプレーヤー。トリプルセンチュリーも何度も出している。


 無尽蔵のスタミナ、俊足、全ての投球パターンに対応するバッティングで、ビクトリア朝時代の英雄となった。数少ない欠点といえるのが、ランチタイムの食べ過ぎとウィスキーのせいで、午後の試合が不調に終わることがあったぐらいだ。それもアマチュアだから仕方がないのかもしれない。

 四十代後半になると、さすがの彼も衰えたかに見えたが、打法を改良し、驚異的な復活を遂げた。彼による打法の改良は、その後のクリケットに大きな影響を与えた。


 火曜の午後から金曜まで医者で、残りはクリケットだけど、適当に医者をやってたわけじゃなくて、いろいろ大学を訪れるなど、研究熱心だった。亡くなったときは国中に衝撃が走ったというくらいの超有名人だったから、初めて彼の診療所を訪れる患者は、本当にグレース本人がいて、診察してくれるのか疑問だったらしい。さすがに医者だけあって、試合中の怪我にはその場で対処したという。

 若い頃はサッカークラブでプレーして、審判やったり、そのうちサッカークラブの会長になってる。長い顎ひげを蓄え、樽のような体型をした巨漢なんだけど、走るのが早くて、陸上大会のハードル走で優勝したりしている。他にもボウリング、ゴルフと多彩なスポーツをこなし、1903年には英国ボウリング協会の初代会長に就任している。


 クリケットからの収入が莫大で、父親から独立して自分の医院を開いてからは、半分慈善事業みたいになってて、支払いについてうるさいことは言わなくて、貧乏な患者のところには友人として訪れ、アドバイスしたと伝えられてる。日本の江戸時代に、貧乏な人からはお金を受け取らない赤ひげという医者がいたらしいけど、グレースも患者からすごくいい医者だとほめられてた。

 そのくせ、クリケットの試合では相手選手をひどく罵るなど、紳士的で礼儀正しいクリケットの精神を冒涜していた。


 本人は、自分が受けたコーチングが良かったって謙遜しているけど、相当身体能力が高くないと、あれだけの偉業は無理だろう。

 今の日本で、十六歳の陸上部の高校生が、プロ野球の一軍デビュー後に、Jリーグに入団し、高校卒業後は大学の医学部に入学し、ピッチャーで四番バッターで大活躍し、開業医になり、サッカー現役引退後は会長兼アンパイアを務め、プロ野球の歴史に残る名選手となり、それでもあくまでアマチュアだからベンチ待ちの間に暴飲暴食、酔っぱらって試合に参加してて、日本ボウリング協会会長に就任し、六十歳で独立リーグに移籍、六十六歳までプレーなんて人物が現れたら、世間は大騒ぎだろう。その本当の姿は、貧しい患者を救う赤ひげだったって、ドラマにするとすごいよ、これ。


 コナン・ドイルは、シャーロックホームズの生みの親で、元々はグレース同様医者だった。昌喜によると、スポーツ全般をたしなみ、特にクリケットとボクシングが得意で、セミプロ級だったそうだ。

 四十一歳の時、グレースと対戦したこともあり、その時はドイルがボウラーでグレースがバッツマン。結果はドイルの勝利に終わった。ドイルは、そのときのことがよほど印象に残ったようで、クリケットの想い出というタイトルの詩を残している。そこではドイルの緊張と、グレースの凄みが伝わってくる。


 名門メリルボーン・クリケット・クラブに所属していたこともあるドイルは、ファーストクラスに十試合出場し、ボウラーとして八十五球を投げ、一回だけウィケットを奪っている。そのたった一人の相手が、史上最高のクリケッター、W・G・グレース。それも打法改良後の絶好調時。二イニングス目だけで、110点をとっていた怪物を三球でしとめて、ドイル本人も驚いている。


 作家として成功すると、モーターサイクルとモーターカーをそれぞれ二台ずつ所有し、レースにのめり込んだ。熱気球の打ち上げにも成功する。交通事故を起こしたとき、横転した車を起こそうとして腰を痛めたので、リハビリにボディビルを始めたが、また自動車事故を起こす。今度は車の下敷きになったが、ボディビルのおかげで、救助がくるまで持ちこたえることができたと、本人が語っている。


 ちなみにドイルのいたメリルボーン・クリケット・クラブは、クリケットのルールを決めることができる特別のチームということだ。なぜ、そんな特権が与えられているかというと、ローズオブクリケット(クリケットの法)を制定したのがこのチームだからだ。ここの会員になるのは、非常に名誉なことである。


 ドイルといいグレースとい、昔のイギリス人は、いろいろなスポーツをある程度歳をとってからも続けていたようだ。日本なんかは、学生時代にひとつの競技に集中し、社会人になってからはさっぱりというパターンが多い。そのくせ、学生時代は何々のスポーツをしてましたと、死ぬまで自分のアイデンティティの中心にしてしまうから不思議だ。 


 クリケットにはピッチの両側にひとりずつ、計二人のアンパイアが必要なんだけど、これまではプレーヤーでごまかしてきた。今回はテストマッチということで、公正な判断ができるよう、両チームのメンバー以外が務める。ただし二人とも、アーサーからレクチャーされたばかりの未経験者なので、スムーズな試合展開は期待できない。

 アーサーは、グラウンド責任者兼主催者という立場で、ゲーム全体を監視。その場にはいるけれど、ゲームそのものにはあまり口出ししない方針。

 

 試合開始は月曜の午前十時。みんな一時間前には集合していた。

 普段はカラフルなカラー特攻服の野蛮族も、白で統一してきた。つまり白の特攻服。白騎士野蛮族って刺繍してあって、暴走族そのもの。

 本当はポロシャツでやるのが正式なんだけど、ベースボーラーズのほうも野球のユニフォームだから、偉そうなことは言えない。聞けば半分は暴走族以外の人で、服は貸しているという。暴走族でなくても、同じような雰囲気なのはさすが友達だ。


 試合場は、競技の空間を仕切る楕円形のオーバルまで描いてあって本格的だ。

 このオーバルの白線を越えたらバウンダリーということだ。敷地は十分広いが、オーバルの広さは、選手達の実力を考慮して、バウンダリーが出やすいよう、正式なものより狭くしてある。

 他にもボールがゴム製、地面が芝生でないなど何点か気になるが、本格的なファーストクラスクリケットが実現するのだ。


 十時になった。いよいよ待ちに待った試合開始。

 コイントスで先攻を決めた。

 ベースボーラーズがバッティングに入る。二イニングで最大五日かかるから、今日一日はうちがバッティングなんだろう。アウトにならなければ、交替までバッツマンでいられるが、一球でアウトになり、その日一日何もすることがないという、悲惨な状態になる可能性もある。


 一番の神藤君がそうだった。

 一球目をフライで打ちあげて、運悪くフィールダーにキャッチされ、その日は終了。キャプテンに、

「今日は人足りてるから、お前、もう帰れ。人足りなくなったら電話するからあけとけよ」

 と言われ、三番グレースと交替し、そのまま帰っていった。

 これで、同じ一年でバッツマンペアを組んでいた二番佐藤君も調子を崩したのか、三点あげただけでボウルド。もう僕の出番だ。


 この調子だとランチまでに攻守交代で、五日も場所を確保した意味がなくなると思いきや、さすがクリケットの父グレース。僕と相性ぴったり。

 で、 誰かって? 

 元サッカー部でもう卒業した相田先輩。

 これまでもときどき興味本位で練習に加わったことあるけど、これほどの実力があるとは思ってもみなかっ た。そう思ったのも、本業のサッカーのほうで大して活躍していなかったからだ。その先輩と僕とのペアでランチタイムまでノーアウト。


 テストマッチは、二時間のプレーを一日三回行い、間に四十分のランチタイムや二十分のティータイムが入るのが正式だけど、その辺は適当らしい。僕は、一時間以上もプレーしたことになりそうだけど、慣れないせいか、やたらだらだらしてて、間の待ち時間が多くて、それほど疲れていない。


 それでも、ランチタイムと聞くとほっとする。

 野蛮族のほうは、ランチタイムは初めてみたいで、

「どうも……田口です」とか、「ここ座ってよろしいのでしょうか」

 などと、戸惑っているのがおかしかった。

 僕らベースボーラーズと似たりよったりだから、無理に紳士的に振る舞おうとしなくてもいいのに。


 僕も相田先輩も、おなかが空いてたので、たくさんサンドイッチをほおばると、アーサーに、「食べ過ぎると午後の調子が狂います」

 と言われて控えた。佐藤君も帰らずに、一緒に食事している。


 食べ過ぎが祟ったのか、速水・相田ペアの好調も午後になって崩れた。先輩が無理に走らせるので、僕が間に合わずランアウト。バットは地面につけたけど、微妙にクリース線を越えていなかった。


 僕は、それから夕方までやることなし。午後から見物人が増えたから、一緒になってしゃべっているか、ティータイムの手伝いしてた。

 アーサーも主催者という立場だけど、特にやることはないみたい。この近くの工場で働いている人だと思うけど、時々フェンスの向こうから覗き込んでいる人たちがいて、アーサーはそれが気になるようで、よく道路側のフェンスのむこうを見ている。


 テンアウトになったのは、午後五時十分前。十分残しているがアーサーの判断でその日は終了。明日はフィールダーだから、今日のように退屈しなくて済む。


 で、肝心の得点は三十二点。

 丸一日費やしたのに、この点数はかなり少ない。初日で、いろいろと混乱して、プレー以外のことに時間をとられすぎたのと、アウトになるのを恐れたバッツマンが、球を打っても走らずに見送ることが多かったことが原因だ。その分、ランアウトがほとんど出なかった。


 逆に、うちの点数がものすごく多くて、1イニングの終わった時点で、野蛮族より二百点差以上勝っていれば、2イニングのバッティングを野蛮族が先に始めるように決める(フォロー・オン)こともできる。わざわざそんなことをする理由は、2イニングス制のクリケットでは、しっかり2イニングス終わらずに時間切れになると、どんなに点差があっても引き分け(ドロー)とする決まりだからだ。負けているチームが、2イニング゛目で後のバッティングだと、ドロー狙いでわざと時間を引き延ばす作戦をとる可能性がある。


 三十二点では、相手が1イニング目に無得点でも、こちらがそういった戦法をとる可能性はなく、野蛮族のバッティングが1イニングで終わる可能性を心配しなければならない。つまり、向こうが明日、高得点を上げ、うちが2イニング目に点を稼げなければ、野蛮族は2イニング目で点を獲得する必要がなく、デクレア(宣言)をして、さっさと試合を終え、勝利となる。


 そういった駆け引きこそがファーストクラスの醍醐味で、アーサーは、試合時間の短いプレーをあまり勧めなかったのだろう。


 野蛮族のほうも、自分たちが有利だとわかっているのか、

「これから派手に遊ぼうぜ」

 と、余裕をかましている。僕らベースボーラーズは、全然疲れていないけど、明日に備えて、その日は早めに帰った。


 二日目。

 ベースボーラーズはフィールディング。相手に得点を入れられるのを防ぐんだけど、ウィケットを攻め、相手チームからアウトをとるから攻撃というややこしい立場だ。


 元々僕は、野蛮族のメンバー全員の顔を覚えてるわけでない。ホワイトナイト・バーバリアンズになると野蛮族以外も加わるから、見知っているのはひげとヒロ、後は総長くらいだ。


 昨日はウェルズ枠でウメちゃんが来てたけど、今日は仕事で来られないのか別人だ。

 ウェルズって確かにイギリス人だけど、SF作家で特にクリケットと関係深いとは思えない。ドイルも作家だけど、クリケットが得意なことで有名。ウェルズってどこから持ってきたんだって思ったら、相田先輩に聞くと、父親がクリケットのプロ選手だったって。


 それはともかく、白い特攻服軍団は誰だかわかんないけど、二番の山田太郎が大活躍。

 ランチをすぎてもペースを崩さず、五番ひげ、六番総長と、次々とバッツマンのペアが変わっても、山田太郎はずっとピッチにいる。見た感じも他のメンバーと違って、髪型も普通だし、頭のよさそうな感じ。


 僕もボウラーの一人だったから、山田太郎のうまさを肌で感じた。そこで、

「野球とかやってたの?」と聞いてみたら、

「ソフトボールならあるけど、野球はない」という返事が返ってきた。

 彼は、一体どういう立場の人なんだろう。


 三時のティータイムになり問題発生。山田太郎はまだ残っていた。

 うちのキャプテンも興味を持って、

「おたく、こいつらの友達に見えないんだけど、何やってる人」

 と太郎に聞いた。

「××大学の三年。専攻は環境経済学。地球温暖化などの環境問題の解決を経済的アプローチから考えていくんだ」

 というので、キャプテンには理解不能だった。

「へえ。勉強一筋なんだ」

「そんなことないよ。クリケット同好会では、奇跡のバッツマンと呼ばれてるし」

 その言葉は、頭の悪いキャプテンにも理解できた。

「大学のクリケット同好会? それがあいつらの友達なの?」

「一日一万円で頼まれたから、出ただけだよ」

「金で雇われたのかよ!」

「今日一日だけだよ」

「そういう問題じゃねえ」


 キャプテンは大声を上げ、ベースボーラーズ全員がいきり立った。怒りの矛先は雇われ山田太郎本人ではなく、顔見知りの総長とひげに向けられた。

「ルール違反じゃねえからな」

 と総長が開き直る。ひげは無言のままだ。


 バーバリアンズは、山田太郎を除いて気の荒い連中だ。全員が立ち上がった。

 試合の進行をアンパイアに任せて、敷地内をうろうろしていたアーサーも異変に気づき、僕らのほうにやってきた。

「何か問題がおこったのですか?」

 こんなときでも丁寧語を使う。

「こいつらイッツノットクリケット!」

 とキャプテンが叫んだ。その言葉をきっかけに、ティータイムは修羅場と化した。

「文句あんのかよ」

 バーバリアンズの川辺が特攻服を脱ぐと、タトゥーの入った太い二の腕が現れた。彼がテーブルを倒すと、菓子類やティーカップが無惨に地面に散らかった。川辺は、その折り畳みテーブルを畳み、凶器に変えた。

 何人かが、それで背中や腕を打たれた。

 こちらも、折り畳み椅子をたたみ反撃だ。


 アーサーは、冷静に自分の荷物が置いてある場所に行く。バッグを開けて何かを取り出す。久しぶりに見た。マイグラブ。

 ゆっくりと装着する。

 そして、無表情でこちらに歩いて来る。

 その光景を見て一部の連中は動きを停めた。バーバーアンズで彼のことをよく知らない連中は、自分たちが勝ったと勘違いした。


「紳士のスポーツであるクリケットの試合中に、しかも、親交を深めるはずのティータイムに暴れるとは何事ですか!」

 と、珍しく前置きがあったかと思うと、

「インザーネームオブW・G・グレースアンドザローズオブクリケット、アイウィルキルユー」

 と、肝心なところはアレンジされていた。


 動きを止めた者達は逃げ、残りの五人は数を頼みに向かっていった。

 僕らは、慌てて入り口の門を開け、フェンスの外から高見の見物だ。川辺とドイルが続けてボディブローで倒され、それを見て焦った三人がこっちに逃げてきた。

 そのとき近くの工場も休憩時間だったようで、工員の人が何人か見にきていた。

「ここで何やっとるの?」と、一人が僕に聞いてきた。

「クリケットです」

「それ格闘技か?」

「違うよ。野球みたいなスポーツ」


 クリケットのフィールドでは、暴力禁止が決められている。その暴力を制するのに、アーサーは暴力を使わざるを得なかった。あるいはグラブを着けたから、あれはボクシングというスポーツなのかもしれない。いずれにせよ、クリケットの精神に反する。


 そのアーサーは、工員の人達を見つけると、近所に迷惑をかけたと思い、走ってこちらに来て謝罪をした。僕らが中に戻ると、川辺と総長がテーブルや椅子を片づけている。僕も手伝おうとしたが、キャプテンが、

「あいつらがやったんだから、バーバリアンズに片づけさせろ」と止めた。


 片づけが終わると試合再開。

 喧嘩の原因となった当人の山田太郎は、まだバッツマンの最中なのに帰ってしまった。それでも、もともと誰がなってもいい役なので、棄権や退場と見なされない。

 それで、新山田太郎はさっきアーサーと話していた五十歳くらいの工場の人。俺もやってみたいといって、作業服姿で参加。

 しかし、経験がないのと休憩時間の終わりが迫っているので、走らないほうがいいのに走るからランアウト。

「面白いから明日も来るからな。工場の連中にも話しておくわ」

 といって帰っていった。

 喧嘩が起こった時に逃げやすいのと、誰が途中参加するかわからないので、門は開けておくことになった。


 主力打者の山田太郎がアウトになったことで、バーバリアンズの勢いが止まるかと思ったが、H・G・ウェルズが粘る。強打者というわけではないが、見送るか見送らないかなどの判断力が高い。


 おさらいだけど、クリケットにはボールを見送るか見送らないかの選択肢はない。ウィケットに当たったら一球でアウトなので、よほど外れたボール以外は、バットで弾かなくてはいけない。

 打った後の走る走らないかを判断する。少しでも点を多く稼ごうと、つい走りがちになるが、ウェルズはよく見送る。特攻服のくせに不良らしくない。


 夕方になると、さっきの工場が定時になったみたいで、二代目山田太郎と仲間が二人、作業服のまま見に来た。

「こいつにも打たせてあげて」

 山田太郎が、連れてきた若者をさして頼んだ。替わるとしたらウェルズ枠なので、バーバリアンズは拒否した。しかし、アーサーが相手に気を遣って、独断的に引き受けた。

「なんだよ~」

 当然バーバーリアンズは不満だが、そのくらいでは無関係なクリケット同好会を連れてきた償いにもならない。

 その若者はバウンド球に対応できず、初球でウィケットが崩された。

「いい経験でした」

 といい残し、礼儀正しく帰っていった。


 これで今日中に一イニングが終わりそうだが、時間が来たので、アーサーは、まだ二人残っているのに試合終了を宣言した。明日は一イニング後半の途中から始める。


 バーバリアンズは六十二点を獲得。そのうち最初の山田太郎ひとりで四十六点。一人が一試合で五十点とったらハーフセンチュリー、百点とったらセンチュリー。今日の感じだと、あの頭の良さそうな大学生はもう来ないだろうけど、このまま二イニング目も参加したら、センチュリーいきそうだ。


 三日目の水曜日。

 早朝にどしゃぶりがあって、試合が始まる頃でも小雨が降り続いている。天気予報も一日こんな感じと言っていた。もうほとんど一イニング終わってるから、今日一日くらい休んでも大丈夫という意見が多かったけど、アーサーの判断で強行開催。


 ファーストクラスクリケットでは、雨天中止が原則のはずなので、僕はおかしいと思った。

 クリケットでは、ただ点を稼げばいいのではなく、ゲーム進行も重要な要素になる。というのも、試合期間の五日間で二イニングスが終わらない場合、点差があっても引き分けになるからだ。そのため、大量得点で大差をつけた場合は、試合を早く終わらせるため、途中でバッティングをやめ、相手チームに謙ることもある。

 僕がその事をアーサーに言うと、彼はこう答えた。

「日本はイギリスと違い雨が多いです。仮に今日中止しても、明日から晴れるとは限りません。もっとひどい雨なら考えますが、この程度なら続けたいです」

 その説明で僕は納得した。


 昨日の続きから。

 バッツマンはバーバリアンズの十番、十一番の組み合わせ。どちらかひとりでもアウトになれば交代。

 このコンビ、意外と好調で 五点追加したところで十一番高沢がランアウト。ベースボーラーズがフィールドから戻ろうとしたところ、アーサーが待ったをかけた。

 バットの先がクリース線を越えていないと、アンパイアが判断したんだけど、珍しく試合をきちんと見ていたアーサーがセーフではないかと言い出した。これに両チームのメンバーが加わって、また気まずい雰囲気。

 僕は自分のチームに不利でも、経験の深いアーサーの判断に従うのがよいと思うんだけど、昨日バーバリアンズに痛い目に遭わされたキャプテン達は納得していない。十分ほど中断して議論して結局セーフ。


 そこから、またこのコンビ八点も入れて一イニング終了。

 昨日の分も入れてバーバリアンズは七十五点獲得。うちが三十二点だから倍以上。これがもしベースボーラーズが大量点差でリードしていた場合、フォローオンといって、二イニング目の先攻・後攻を入れ替えることを選択できる。

 二イニング目の前半終了時点でバーバリアンズが追いつかなければ、後半必要ないということ。ゲームを早く終わらせるための知恵。現実は大量リードどころか、二イニング目で取り戻さないと負ける。


 イニングスの交替時には、ローラーがけが行われるのが普通だが、ローラーがけの機械がない。地面が芝でないので、かけなくても仕方がないけど、芝でないピッチの場合もローズオブクリケットの精神は遵守しなければいけない。全員で雨で乱れた地面を整えた。


 ローラーがけは七分と決まっているけど、地面の状態はかなり悪く、二十分近くかかった。それでイニングス交替の前にランチタイムになった。二人で二時間持たせたことになるけど、午前中の天気は降ったりやんだりで、時々ゲームが中断したから、その分差し引かなくてはいけない。それでもよくがんばったと思う。


 食事は各チームごとに固まり、会話も少なく、気まずい雰囲気が支配した。

 ランチタイムが終わり、僕らが点を稼ぐ番だ。初日にまるで活躍できなかった一年の神藤、佐藤ペアがバットを持ち、ピッチの両側に立つ。

 月曜日の試合開始早々帰宅することになった神藤君は、一人でバッティングの練習をしていたという。素振りのことかな? とにかく気合い充分だ。


 神藤君が空振りでボウルドアウトになるまで、この二人で十点稼いだ。

 僕らベースボーラーズは、今回はいけると肌で感じた。なにしろ今回は逆転するだけの秘策があると、キャプテンが請け負ってくれた。その秘策を教えてくださいと頼むと、教えたら秘策じゃなくなると断られた。そして秘策の内容が明らかになるときが来た。


 三番、W・G・グレースだ。

 今日は相田先輩が休みのため、一年の橋本君がやるものだと、ベースボーラーズのメンバーは思っていた。一番神藤君にアウトが告げられるとすぐ、入り口のほうから一人の青年がピッチに向かって駆けてくる。

 マイバットを持参するその姿を見てベースボーラーズは歓喜し、バーバリアンズは騎士のくせに怒り狂った。

 その正体は、誰あろう。

 初代山田太郎こと、クリケット同好会の奇跡のバッツマンだった。


「汚ねえ」

「審判、あれルール違反だろ?」

「てめえ、裏切るのか」

「いくらもらったんだ」

 と、バーバリアンズは口々に抗議する。

 それで一悶着あり、アーサーがおさめたけど、バッツマン交代が遅れそうになってあやうくタイムアウトになるところだった。クリケットではバッツマンがアウトになると、二分以内に次のバッツマンに交代しないとアウトになるルールになっている。


 キャプテンは、最初から同好会大学生を顔見せしておくより、出番になって突然現れたほうが、バーバリアンズに対策を検討されずにすむし、敵味方に与える精神的影響が大きいと判断したようだ。


 一年生ナンバーワンの実力者佐藤君と奇跡のバッツマンのペア。どちらもハードヒッター、強打者どうしだ。

 本物のW・G・グレースはセンチュリーを数多く達成した。奇跡のバッツマンには山田太郎よりグレースの名前のほうがふさわしい。この試合でもすでに五十点近く獲得している。センチュリーは固い。


 そして期待どおり、この二人はやってくれた。バウンダリー続出。次の出番は僕だけど、その前にティータイムになった。

 相変わらずチームごとに固まっていたけど、ベーズボーラーズは上機嫌でおしゃべりして、逆にバーバリアンズは黙っている。


 調子にのったキャプテンが、向こうの総長を挑発したから、口喧嘩になり、アーサーの出番になった。それでティータイムが伸び、大活躍の二人のバッツマンは、充分休むことができた。


 試合再開十分後、佐藤君が空振り、球は右側のスタンプに当たり、ベイルが落ちてボウルドアウト。

 いよいよ僕の出番だ。

 バーバリアンズは、ボウラーの人数を多めにとって、五人ほどで回している。それだけ誰が投げても同じで、ボウラーに適したメンバーがいないということだ。

 僕がストライカーになると、ひげがボウラーだった。

 見知った相手だが、彼の球は油断できない。

 短い助走から一球目。ボールの回転がきいてコースがループする。変化球投手、スピナーだ。僕はバットに当てたけど、強く打ち返さず、走らなかった。

 二球目、三球目も守りの打法デフェンスを続け、様子見。そこでひげはオーバー、ボウラー交替。


 相手は今日はじめて見る顔。経験は浅いはず。初球から打ちやすい球。そこでストレートドライブ、まっすぐ打ち返した。

 ボールは前方遠くへ飛んでいく。フィールダーがそれを追うが間に合わない。

「イエス」

 グレースは僕がそう言う前に、自己判断でかなり前に出ていた。僕は前に走りながら、目はボールの行方を追っていた。ボールはバウンドして、オーバルの向こうへ転がっていく。バウンダリー4。四点獲得。

 僕は走るのをやめ、元の位置に戻った。

 二球目もいい球。

「イエス」

 一往復のランで二点。

 三球目。

「イエス」

 一点。

 三球目で向かい側まで走ったから、僕はノンストライカーになる。ストライカーはグレース。二球をブロックし、三球目でドライブ。

「イエス」とグレースの指示が飛ぶ。

 クリース線を越えて地面にバットを着けた。まだ走れる。グレースも走る意思を示す。

 僕は二点獲得をめざし、元来た場所に引き返す。走り出してすぐフィールダーがボールを拾っているのが目に入った。彼は、僕の前方にあるウィケットめがけて強く投げた。僕は全力で走り、バットをクリース線の向こうに突きだした。


 ほぼ同時にスタンプが倒れた。

「アウト」


 僕の目の前でアンパイアが宣告した。グレースが親指を上に突き立てて、僕の健闘を称えた。長くプレーできなかったけど、バウンダリー4を出せて、僕は満足だった。


 次のバッツマンは樋口君だ。僕は自分の番が終わると、緊張が緩んで、その日見学に来ていた昌喜の隣に座った。昌喜は携帯をいじっている。


「見てくれた?」

 僕は声をかけた。

「え? あ、誠か」

 昌喜は携帯から顔をあげた。携帯の画面が見えた。小説を読んでいたらしく、僕の活躍を見ていなかったようだ。

「お前、何しに来たんだよ」

「今日、暇だから……」

「暇つぶしでも見学に来たんだから、試合を見ろよ」

「ゲーム機いるっていったのお前だろ?」

 と昌喜は挑発的だ。

「静かにしろよ」

 こんなところで口喧嘩してたら、またアーサーに叱られる。そのアーサーも椅子にこしかけ、暇そうに通りのほうを見ている。主催者も退屈なのだから、昌喜が携帯いじるのも当然か。


 歓声がおきた。

 グレース。三度目のバウンダリー6。

 バウンダリー4も入れると、今日だけでオーバルを六回は越えているから、そろそろハーフセンチュリーに行きそうだ。スコア板を見ると、二イニング目のベースボーラーズの得点は六十三点。そのうち八割程度を彼ひとりで稼いでいるはずだ。また工員が来て、俺もやりたいといえば、奇跡のバッツマンとグレースを交替させるのだろうか。


 ティータイムまでに、グレースはハーフセンチュリーを達成した。

「あの大学生、本当はセンチュリーだよな」

 と僕は昌喜にいった。彼もセンチュリーの意味くらいは知っている。

「違うよ。敵味方二チーム分の個人プレー合計しても意味ない」

 グレースの中身の奇跡のバッツマンとしては、バーバリアンズの山田太郎分も入れるとセンチュリーだ。といっても、両チームでプレーした合計が、百点を超えてもセンチュリーとはならない。


 僕と話をしている間に、昌喜はまた小説を読み出したようで、親指を頻繁に動かしている。

「何読んでるんだよ?」

「別に」

 といって、顔をあげようとしない。

 僕は画面を覗き込んだ。漢字やひらがなに混じって、ホームズというカタカナが目に飛び込んだ。


「ホームズ? うちの選手がなんで携帯小説に出てるかと思ったらミステリか。現実の事件解決はあきらめて、今度は小説か」

「暇だから仕方なくやってるんだろ。それに現実のほうはもう解決したよ」

「やっぱり僕の言ったとおり、二段ベッドに隠れたんだ」

「俺は、直接被害者の家族に聞いたんだけど、注意して見たわけじゃないけど、ベッドに人がいれば気がつくと思うと証言してくれた」

「じゃあどうやって外に出たんだ?」

「実に簡単な方法だが、苦労して解決したから教えたくない。しいてヒントを言うなら、あの状況は時の密室だったと言える」


 時の密室? 意味がわからない。トリックがわかったなら、犯人も知っているはずだ。

「へえ。で、犯人は誰?」

「わからない」

「何だ。解決してないじゃないか」

「密室が解決されれば、もういいよ。後は警察の仕事だ」

 と、昌喜は興味なさそうにいった。


「現実の事件がもういいなら、現実の試合にも興味持ってよ」

「結果はわかってるよ」

「クリケットしたことないくせに。予測の天才なんだ。で、どっちが勝つと思う?」

「四日目終了の時点で、負けているほうが勝つ」

「どういうこと?」

「この試合、テストマッチのくせに、クリケット同好会を助っ人に呼んでフェアじゃない。それで四日目に負けているほうが最終日でごねて、アーサーが仕方なく負けているほうに加わる」

「そうか、それで負けていたチームが逆転するのか」


 昌喜の言いたいことはわかる。以前、サッカーとラグビーで争った時、試合の流れを変えたのはアーサーだった。そこで昌喜は小説を読みながら、

「彼は、ひ弱な僕らを鍛えるために、神様が遣わしてくれたスポーツの化身だったんだ」

 と、詩的な表現をした。

「うまいことを言うね」

「え、俺、なんか言った?」

 昌喜は僕の顔を見てそう訊ねた。

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