第11話少年とガラス玉

 進むにつれて木々の青さが増し、葉の隙間から漏れる日光の量も減り辺りはだんだんと暗くなる。大丈夫大丈夫と自分を励ましながら歩を進める。決して止まることはない。

 どれほど歩いただろうか。後ろを振り返ると元の登山道は見えず細く狭い道が続くだけだ。本来の道ではないと理性では分かっていながらも足を止めないのはこの先に何があるか見てみたいという純粋な好奇心からだろうか。

 足を止めずに歩き続けた先には美しい水辺があった。山の小さな窪みに水が溜まり、周囲の木の根元はすっかり水に覆われている。水の中には枯葉や雑草がゆらゆら揺れて池を綺麗に飾っている。

 道はそこで終わっていた。ここが幻の池だったのか、これは大発見だと興奮する。これを伝えなければならないと思う気持ちと一人で静かにこの景色を楽しみたいという気持ちが格闘を始め、最後には後者が勝った。

 座るに丁度いい大きめの石を見つけてどっしりと腰を下ろす。ゆっくりと呼吸を整えるとお腹が空いていることに気付いた。

 この景色にこの空腹、今ならピクルスを食べられるかもしれない。リュックからタッパを取り出して開いた所で食欲はなくなった。毎日の食膳に添えられていたせいか匂いだけで食べた気になってしまい、とてもじゃないが食べる気にはなれない。ふうと一息ついた所でこちらを見ている少年を発見した。

 薄い紺色の甚平を身に着けた少年はゆっくりと僕に近寄ってくる。年の頃は十ほどだろうか。森の中であんなに腕や足を露出させては枝に引っかけて怪我をしてしまうのではないかとひやひやする。近づいてきた少年の肌は驚くほど白く、枝でこすったような跡もない。

「お兄さんの手に持っているそれは何?」

 子供はタッパを指す。好奇心旺盛から目を輝かせている。

「これはピクルスという食べ物さ」

 タッパを少年に見やすいように持ち上げる。ぴくるす、呟いてしげしげと見る。

「よかったら食べてみるかい」

 子供は嬉しそうに頷く。箸やフォークの代わりになるものがないかとリュックを漁っている間に少年は手でつかんてポリポリと食べてしまう。田舎の子は豪胆だ。一本まるまる食べ終えると俯いたまま動かなくなった。

「おいしくなかった?」

 ふるふると首を横に振ってから僕を見上げる。

「こんな美味しいもの初めて食べた」

 満面の笑みで言うので僕も嬉しくなる。

「全部食べるといい」

「いいのかい、お兄さんの食べる分がなくなっちゃうよ」

「子供が遠慮するんじゃない。それにお兄さんはそれを沢山食べたからね、もう食べたくないんだ。ピクルスも美味しく食べてもらった方が嬉しいだろう?」

 子供は僕の顔を窺いながらタッパを手渡す。一本、また一本と食べるうちに僕の方を見ることをしなくなり夢中で食べ始めた。山の中に幼い少年が一人でいることを不審に思う。周囲を見渡しても親がいるような気配がない。ぶるりと身震いして少年を見た。タッパの中身はすでに空である。

 少年はタッパを手渡し僕を観察するように上から下まで見る。

「お兄さんはいい人だ」観察し終わったのか僕の隣に腰を下ろして言う。

「お兄さんも池を見に来たの」少年の質問にほっと胸を撫で下ろす。なんだこの子も僕と目的は一緒なのか、共通点を見つけて安心する。

「やっぱりここが幻の池なのかい」

「そうだよ、でも上の池が人間用、こっちの池は人間以外の動物用なんだ」

「つまり池が二つあるってこと」理解できずに数秒考え込んでから言う。少年は頷いた。

「上が人間用で下が他の動物用って言うのはどういう意味なんだい」

「そのままの意味さ。この池は人間以外の動物用で山が使い分けているんだよ」

 まるで山が生きているように少年は言う。他の動物用とは一体どういう意味なのだろうか。高校生の頃隣の席の友人の言葉を思い出す。フィギアには保存用と観賞用と実用用の3つが必要なんだ、あの言葉の意味と同じだろうか。

「他の動物用なのに僕がここにいてもいいのかい?」恐る恐る聞く。

「今日だけ、それもお兄さんに限り僕が許可しちゃう」

 見た目相応の少年の言葉が僕の心を落ち着かせる。

「でもこっちは沢山の生き物が使っているのにあっちは人間専用なんて傲慢な話ではあるよね」

 少年は先ほど変わらない口調で言うのが不気味だった。気の利いた返答をしようにも思いつかない。ちくりとお腹が痛くなる。

「さっきの美味しい食べ物のお礼に優しいお兄さんに良い物をあげる」

 そう言って少年はどこからともなくガラス玉を取り出した。手に持つガラス玉は半透明の青白い色をしていて木々の間からわずかに漏れる日光に反応してきらきらと輝いていた。

 僕の手を取って少年がガラス球を握らせる。感触は大きめのビー玉を持っているのと変わらない。

「こんなに良いモノもらえないよ」断って返そうとすると少年は立ち上がり手を後ろに回して拒む意思を示した。

「駄目だよ。これはお兄さんに必要なものなんだから」

 それから僕から一歩下がり言葉を紡ぐ。

「例えばだよ、お兄さんの足元に蟻がいるでしょう」

 先ほどまで幼いように思えた少年が突然大人びたように感じた。僕は自分の足元に蟻を見つける。

「蟻は自分の何倍もの重さのものを持ったり運んだりできるんだ」

 足元の蟻達は忙しなく動き回っている。唐突な語りに驚くけれど聞き逃してはならないと不思議な使命感に駆られる。

「でももしお兄さんが足の裏で踏みつけようと思えば簡単に踏みつけられるでしょう」

 少年は屈んで蟻をよく見る。僕もそれに倣って近くで見る。

「元の力がほんの小さなものなら、いくら力を何倍にしたって本当に大きなものには敵わないんだよ」

 少年が悲しそうに言う。蟻に自分を投影しているのだろうか。

「その玉は力を何倍にもしてくれる効力があるんだけど、僕が持っていても意味がないんだ」

 少年に渡された玉を見る。小さい子の戯言と理性で片づけつつもほんのちょっぴり期待してしまっている自分がいた。周囲の状況と少年の神秘的な雰囲気のせいだろうか。

「お兄さんならきっと使い道があるはずだよ」

 少年は断言する。あまりに真剣な物言いに否定することもできない。少年の力強い眼差しは本気で僕に使い道があると信じているものだった。

「玉のことは誰にもしゃべってはダメだよ」

「どうしてだい?」

「お兄さんの安全の為さ」恐ろしいことをさらりと述べる。クーリングオフは有効だろうか。玉を返したくなる。

「玉手箱みたいなお守りだと思ってもっていて。持っていればきっとお兄さんに幸運が訪れるはずさ」

 約束してくれるでしょう、そう強く懇願する眼差しで見つめられノーとは答えられず、小さく頷いた。

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