第3話 断章

 扉を閉じた私、竜胆サキは一つ大きなため息をついた。そりゃため息の一つや二つつきたくもなると思う。

 ちょっと変わったがあるとは言っても、あそこまで生活する気がないのはいくらなんでも困ったものだ。そこで生活する人間のことも考えてほしい。

 しかも問い詰めれば「考えてもいなかった」といった顔をする。抜けているのにも限界ってやつがある。

 ……けれど、一番気が滅入ったことはそんな小さなことじゃない。

 学校への道を歩きながら、私が思い返したのはアイツの眼だった。虚ろで何も映していないようなその眼が、私は何となしに怖いと思った。

 同時に、悲しいとも思った。暗くて冷たい海の底。周りが一切見えない中にずっと漂っているような、そんな何もなさ。それだけがあった。

 男の家に泊まり、挙句朝食を作っていくなんていう気の迷いを起こしたのはそのせいだ、ということにする。彼が寝ているうちにそっと抜け出せばよかったのに、私はそうしなかった。

 ポケットの中に忍ばせたナイフが程よく冷たい。落ち着いて考えごとをすると無意識に刃物に触れてしまう。昔からのあんまりよくない癖だ。これに気が付くのと同時に、私がイケナイ子だってことを思い出してしまうからだ。

「ま、彼とは一夜限りの縁だったってことで」

 こんな奴とは関わり合いにならない方がお互いのためだ。

 私は二度と通らないであろう街道を過ぎ去った。




 教室の机は、二つづつくっつけて並べられている。私が座るのは一番後ろにある唯一どこの机ともくっついていない席だ。

 私が椅子を引く音で、何人かがこちらに目をやった。けれどもすぐに目を逸らした。

 見ての通り、私はクラスで浮いた存在だ。どーも変な噂が流れてしまっているせいらしい。

 うわさに聞いたところによると、

「竜胆サキはやばい」

「逆らったらシメられる」

「男子柔道部の部長をボコボコにしたって」

「目をつけられたら最後」

 ……といった人物だと思われているらしい。私は。

 逆らったら、と言われても私はそんな命令みたいなことはしないし(というか命令するほど話す奴もいない)、黙って学校に来て、黙って授業を受けて、黙って帰るだけの存在だ。

 ただ、まあ。

 柔道部の彼に関してはボコボコにはしてないとはいえ、ちょーっとばかり、ほんのちょっと色々あった。

 具体的に言うと、彼に校舎裏に呼び出されて告白された。けれども私はそんなに興味もわかなかったので、「私、人を切ることが好きなんだけどそれでもいい?」と軽く手をチクリとやってやった。

 無論良いわけもなく、すごい勢いで逃げられた。その時の彼の顔は、まさに死に物狂いといった感じだったのでまあまあ面白かった。その後彼は私に近づこうともしなくなった。

 そこそこ本音で返してやったのにこの態度だ。私とて傷つかないわけではない。ちょっとは一時でも好きになった相手のことを慮るというのはなかったのか。

 いや、理由は自分でもよくわかってるつもりだ。

 「」なんてろくでもない生き物だ。しかも我慢できなくて夜な夜な通り魔を繰り返している身だ。君子危うきには近寄らず。距離を取って二度と関わり合いにならない方が正しい選択だ。

 ……自分で言っているとやたらと悲しいものがある。けれども同時に手首の切り口がたまらなく好きなのも事実なので、仕方のないことだと諦める。

 そう考えると私の趣味を知った上で普通に接してくれたのは、今朝のアイツくらいのものじゃないだろうか。

 でもアイツは私にとっては最悪だ。なぜかって?

 やっぱり人間死ぬときが一番最高から。これに尽きる。

 私にとっては活きの良い人体を、一番美しい形に整えているつもりなのだ。要は化粧を施しているのと同じようなことだ。治られるというのはつまりせっかく手をかけてやって化粧を目の前で洗い落とされてる気分になっているわけで。気持ちのいいものではない。

 ……まあ練習台としては非常に便利ではある。

 始業時間を知らせるチャイムが聞こえてきたので、私はアイツについての評価をそこで打ち切った。



 特に何の面白味もない授業がすべて終わって、私はすぐに席を立った。今度はみんな騒がしくしていたので、私に目を向ける人は誰もいなかった。

 一緒に帰ろう、と声をかけてくる人も特にいない。そのまま静かに誰かが開けっ放しにした教室のドアから外へと出た。

「……ひっ」

 それはとても小さな声だったが、不幸なことに私の耳には届いた。

 声の主は、例の柔道部の彼だった。ちょうど教室の前を通りかかったところだったらしい。

 彼は私から目を逸らして、教室のドアからできる限り距離を取って立ち去った。

 ポケットに手を突っ込んだまま、その様子を眺めていた私は、ちょっと驚かせてやろうと思いたった。

 音をなるべく立てずに彼の後ろに忍び寄り、私より少し高いところにある肩を叩いた。

 肩を震わせて振り返った彼の頬に、私がまっすぐ伸ばした人差し指が当たる。

 直後、私の耳に絶叫が響いた。目の前の彼が私を見るなり勢いよく跳ねた。そのまま壁にぶつかり、倒れこんでしまった。

 予想以上の反応で、なかなか面白い。図体がでかいのもあって、動きが激しくなるのもいい。

「やー、無視するなんてひどいね。挨拶くらいしてくれてもいいのに」

 にやけながら彼に声をかけたが、返事はない。もしやどこかぶつけたりでもしたかと、顔を覗き込んでみる。

「い、嫌だ……頼む、許してくれ……」

 必死に呟く彼の表情を見て、私は一気に興が削がれた。

 それはどう見たって人間に向けるものじゃなかったからだ。

 同時に、まだ人間だと思われたい自分がいることに気が付いてしまったからだ。

 不快な気持ちになった私は、彼を軽く蹴っ飛ばす。

「……ったく、情けない奴。ちょっとでもそういうつもりがあったなら、多少あっても普通の態度で接するくらいして見せろよ」

 そうしてきたバカな奴がいたせいで、私の中のハードルは上がっちゃったらしい。

 私はもはや興味もわかない奴に背を向けた。




 ……それで結局、私はバカな奴の家に戻ってきてしまった。

 今度は家から荷物を持ってきてだ。長居する気も満々だ。親には特に何も言っていないが別に気にされていないので問題ないはずだ。

 ドアノブをひねると、鍵もかかっておらずドアは素直に開いた。

 ちょうど目の前にいた家主が、こちらを見た。特に驚きのない、よく言えば落ち着いた、悪く言えば無表情だ。相変わらず目は死んでいる。けれど私を見て、彼はほんの少しだけ口元を緩めた。

 私が求めていたのは、多分こういう反応だ。別に特別なことじゃないけれど、それだけで充分だった。

「あー、今日からおじゃまします?」

 昨日窓から侵入したとは思えない、情けない挨拶だった。けれど筋だけは通しておきたかったのだ。

「おかえり。とりあえずお布団だけ買ってきたから」

 まるで自然なことのように受け入れられてしまって、『や、冗談です』とか言われないかちょっと心配していた気持ちが吹っ飛んでしまった。

 むしろ当然帰ってくると思われていたのでびっくりしたくらいだ。

 そっちがその気なら、挨拶は改めなければなるまい。

「……ただいま」

 まあ、こういうのも悪くない。

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Hurt Beat 八白 はじめ @Yashiro799

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