第2話 内臓を掴まれる
見慣れた夢を今日も見た。
真っ白な部屋に、僕は一人座り込んでいる。僕が着ている服は薄い青色をしていた。いわゆる病衣という奴だ。
僕はこの服をだいぶ着慣れていた。自分の体質が発覚してからはずっと研究所の被検体生活だったからである。
それこそ別に楽しかった思い出でもないくせに、こうしてたまに夢に出るほどだ。僕の生活はほとんどが、この一面真っ白な部屋の中で出来ていた。
『No.1。異常はありますか?」
部屋の隅にある監視カメラに取り付けられたスピーカーから声がする。No.1という呼称は僕に対して向けられていた。
「いえ、何も。いつも通りです」
僕がそう答えると、小さな感嘆の溜息が聞こえた。
『……これで2か月経ったことになりますね』
先ほどと別の声が聞こえてくる。おそらくほかの研究者だ。
『見る限り、至って健康体だ。恐ろしいほどにな』
『まさか飲食すら必要としないとは。流石に驚きましたね』
今見ているこれが、まさに実験の様子そのものだ。この何もない部屋に2か月ほど閉じ込められていたが、僕は言われるまで飲まず食わずでいたことすら忘れていた。必要がないと自分の体が分かっているからだろうか、空腹を感じることはなかった。とはいえ生きるのに不要な物を欲しがって、不快な思いをするよりははるかにマシだった。
「あの、流石に暇になってきたので本でもいただけませんか」
食事がいらないと自分でもわかっていたが、退屈はしのぐことはできない。僕が何かを食べないよう徹底してものをなくしていたために、数える天井のシミすらなくてやることが本当になかった。
『……安心してくれ。もう出てきても大丈夫だ』
声が聞こえてくるのと、真っ白な壁の一部が音を立てて開くのは同時だった。
2か月ぶりに外の空気が流れ込んできて、この期間で部屋の中の空気が随分とよどんでいたことに気が付く。新しい空気からは、清潔にするための消毒液や、機械周りからする金属の匂い、そして味噌汁の匂いがした。
……どうも記憶にないものが混ざっている。当時、少なくとも味噌汁の匂いはしなかったはずだ。あの研究所に食料品があったのは、研究員が徹夜で監視に当たっていたときと、僕に毒を盛ったときだけだ(もちろん、なんともなかった)。
違和感を感じると同時に、僕の意識は夢から離れる。僕の意識は質素で白い布団の中に正しく帰ってきた。
あの研究所の匂いはすでに感じなくなっていたが、味噌汁の匂いはいまだ続いていた。
僕は体を起こして、匂いの出所と思われるキッチンへと向かった。
キッチンには人が立っていた。革ジャンの上からエプロンという奇抜な恰好をした彼女は、コンロの下についているグリルをじっと見つめている。その整った横顔は、昨日の夜に出会ったサキに間違いなかった。
「……これは夢じゃなかった、と」
血を流しすぎたからか、昨日は疲れてすぐ寝てしまった。そのせいもあって、夜のことはすべて夢だったと錯覚しそうなほどだった。
仮に本当のことだとしても、僕が寝ている間にどこか遠くへ立ち去っているものだとばかり思っていた。まさか朝食を作っているとは思わなかった。
僕の声に気が付いて、サキは振り返った。僕を見つけるとすぐさま詰め寄ってきた。
「ちょっとアンタ、生活する気あんの?!」
肩を怒らせ、青筋を立てて、誰が見ても大変お怒りのようだった。
「あ、食材なかったですね、そういえば」
「食材だけで済めばいい方よ! 冷蔵庫の中には何故かわさびしか入ってないし、お風呂はシャンプーどころか掃除用洗剤すらないし、服に限っては同じものが馬鹿みたいに並んでるし、人の分の布団はないし!」
彼女は指を折りつつ僕の家に文句を垂れる。そういえば、特に何も説明しないまま寝てしまったのだった。
「すみません、気が利かなくて。布団一個しかないので譲るべきでしたね」
「違う! 確かに肌寒かったけどそうじゃない!」
サキは僕の鼻先におたまを突き付けた。味噌汁の香りがほんのりとする。夢に出たのはこれだろう。おたまにはネギがはりついているので、ネギの味噌汁だろう。
「どうぞよければ僕の家に~みたいなこと言ったくせに、ここが人の生きていく環境にないってどういうことなの!」
「いや、人ってご飯を食べるしお風呂にも入るっていうことを忘れてて」
僕の言い訳を聞くなり、彼女は口をぽかんと開けたままになってしまった。
「……えっ、お風呂入らないの?」
「ええ、まあ。汚れとかも元通りになるんで」
「それにお腹、空かないの?」
「そもそも必要がないから空かなくなったみたいです」
「…………」
再び絶句してしまった。まだ自分が普通と違うということがわかってなかった頃、よくこういった反応をされた。僕にとっては普通のことでも、他の人からは異質なもの過ぎて、やがて距離を取られ始めるのだ。
「そっか、悪いね。そんだけ『特別』ならそういうこともあるだろうし、先にそういったことは聞いとけばよかった」
―――—しかし謝られたのは初めてで、今度は僕が驚かされてしまった。
よく見れば、テーブルには二人分の箸が並べられていた。普段奥の方に仕舞われていて、僕もどこにやったか定かではなかった箸だ。それだけいろいろなところを探して、この準備をしたのだろう。もちろん僕は何も頼んでいないし、むしろ朝食がいるということを忘れていたくらいだ。
「……お腹は別に空かなくても、娯楽の一つとして食べますよ、ご飯」
「へぇ、それならこのまま二人分準備するね」
他人にこれだけ気を使ってもらったのが嬉しくて、その厚意を無下にはできなかった、というよりしたくなかった。それにそもそも手料理なんてもはや記憶にないほど食べてないので、むしろお願いしたいくらいだった。
向かい合わせでいつ振りかの朝食を二人で取る。焼き鮭と卵焼き、想像通りネギの入った味噌汁、あとは買ってきたままの漬物とご飯だ。炊飯器がなかったから、ご飯はパックで買ってきたものだ。
昔ながらの朝食といった内容で、複雑な料理ではない。しかしそのどれもが丁寧に仕上がっていて、感心させられてしまった。
「とてもおいしいです。料理上手なんですね」
素直な感想を述べたのだが、彼女は苦虫を嚙み潰したような顔をする。
「褒めて頂いてありがたいけど、その敬語気になるからやめてくんないかな。多分年齢変わんないくらいでしょ」
「僕は17歳です」
「んじゃ私が一つ下か。むしろ私がアンタを敬わなきゃいけない方ね」
ま、敬語なんて使わないけどね、彼女は意地の悪い笑顔を浮かべた。
「ところで、サキさんは……」
睨まれた。手に持った箸が凶器に見えた。
「ところで、サキはこの後用事は?」
彼女は空いた手を横に振った。
「あー、一応学校?」
一応、というところに首をかしげると、彼女はそれを察したらしい。
「ほとんど不登校。特に夜更かししすぎて朝の出席日数がね」
夜更かし、と言ったときに彼女は意味ありげににやりと笑う。おそらく昨日言っていた話だろう。
「なんで夜更かしを?」
「なんでって……」
そこで彼女は言葉を切って俯いた。複雑な事情がありそうだし、やはりあまり聞かれたくない話題だったろうか。
「だって、素敵な人を見かけたら切りたくなっちゃうんだもん」
再び顔を挙げたサキは赤く染まった頬に両手を当てていた。その表情は恋する少女のそれだった。……ちょっと似合わなかった。
「だもんって……」
「なんか文句ある?」
「いいや」
今すぐ切り刻まれそうなほどどすの効いた声だったので、これ以上そこを弄るのはやめた。
「普通じゃないのはわかってるよ。けど、死の間際に怯えてる顔が一番好きで、刃物の切り口も好きで、切るのも好き。ならこうするしかないんだよね」
彼女にふざけてる様子はない。つまりこれは彼女の本心というわけだ。
「だから、怯えないしすぐ治るアンタは嫌い」
びしっと伸ばした指を、眼前に突き付けられた。僕の頭の中で『嫌い』の二文字がリフレインしている。
「……何度でも切れるからお得だよ」
「治る時点で欠陥だらけじゃない。使い捨てでいいの」
「……」
焼き鮭が、妙にしょっぱく感じた。
「なに落ち込んでるか知らないけど、私そろそろ行かなきゃ」
いつの間にか食事を終えていたサキは、席を立って玄関へと向かった。
「そういえば、荷物は?」
彼女は身軽な恰好をしており、バッグなどは持っていない。
「全部学校。荷物は軽いのが一番だし。それに……」
彼女が一瞬暗い顔をしたような気がした。しかしすぐにこちらに向けられた顔は、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「そうだ、せっかくだし出かける前の挨拶とかやっとこうよ」
彼女は靴を履き、玄関へと手をかける。そして僕に何か言うように促した。
「……それじゃ、いってらっしゃい?」
「うん。いってきます」
こちらに向かって手を振った彼女は、僕の見た中で一番明るい笑顔だった。
扉が閉じ、僕はサキのことを思い浮かべた。やはり思い浮かんだのは月に照らされた彼女だ。彼女のことはそれと、今の朝食を作ってくれた彼女以外知らない。
ここまで来てようやく、なぜ彼女はここにいたのだろう、という疑問が浮かんだ。
家に連絡を入れる様子はなかったが、心配はされなかったのだろうか。たとえ放任主義だったとしても、知らない人間の家にいるだろうか。そもそも、もう二度とやってくることはないのではないか。
けれど、僕がその答えを出すにはサキのことを知らなさ過ぎた。
僕は扉を眺めた。扉は固く閉ざされ、先ほどまでサキがいたことも感じられなかった。
彼女がまたここに来るといいな。小さいことだったが、久しぶりに僕は期待した。
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