Hurt Beat

八白 はじめ

第1話 心臓を突かれる

 『一目惚れ』というものがあるらしい。僕はいまいち、その存在を信じることができなかった。その瞬間、はじめて見たばかりの相手のことを好きになるだなんて、そんなことは想像もつかない。相手がどんな奴かなんて一目見ただけじゃわかりっこない。何者かもわからない相手をどうやったら好きになるっていうのだろうか。


 ……と、数秒前までの僕は思っていた。

 目の前の窓枠に腰かけて、置場なく浮かんでいる足を、所在なさげにぶらぶらとさせている彼女を見るまでの僕はそう思っていた。

 大人びた革ジャンをあっさりと着こなしているが、背丈などからして僕と同じ高校生くらいに見える。全体的に黒っぽい服装のせいで夜の闇に紛れているが、ちょうど窓枠の奥から差す月の光が、彼女の真っ白な肌を照らしていた。

 彼女の姿を見た瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられたかのように縮こまった。その血液が体中を一気に駆け巡り、全身が急に熱くなったような気がした。いや、多分本当に熱くなった。現に僕はこの一瞬で、春先のまだ少し涼しい季節にしては異常なほどに汗をかいていた。

 僕は濡れているせいで少し滑る手をぎゅっと握りしめて、名前も知らない彼女に勇気を出して声をかけた。

「……あの、こんばんは」

 口に出してすぐ、もっと気の利いた事を言った方がよかったかもしれないと後悔した。映画や本に登場する冴えない男ですら、もっとマシなことが言えるだろう。緊張のあまり、焦って何も考えずに声をかけたのがまずかった。

 彼女の方の反応をそっと伺うと、彼女と目が合った。彼女は目をぱちくりと見開き、ずいぶんと変なものを見たような顔をしていた。

「あのさ、ここ、キミの部屋だよね? いくらなんでも気が抜けすぎだと思うけど」

 まったくもってその通りだった。ここは僕の部屋で、彼女が腰かけているのは僕の部屋の窓枠だ。ついでに言えば僕の部屋は二階にある。

 ありていに言ってしまえば、彼女はただの窓から部屋に入ってきた不法侵入者だ。

「忍び込んだ先で見つかったことは何度もあるけど、挨拶されたのは初めて」

「よく忍び込まれるんですか?」

「……その質問も大概だけど、まあそれなりにね」

 彼女は体を支えてない方の手で頭を抱えて、やれやれとばかりに頭を振った。その姿もとても様になっていて、僕は思わず見惚れてしまっていた。

「もしかして、そんなに気になってるのはコレ?」

 流石に見過ぎたようだ。僕の視線に気づかれてしまった。彼女は自分を支えていた手を変えて、右手を軽く振った。彼女の姿に見惚れていたと気が付かれなくてよかった、と思ったが、月明かりに照らされて煌めいたそれを見て僕はぎょっとした。

 彼女の手に握られていたのは、無骨で何の変哲もない普通のナイフだった。しかし普通なのはナイフ自体の形であって、その刃は普通じゃないほどのどす黒い色に染まっている。あれを染めたのは血だろう。それもかなりの量だ。

「まあ、だいたいお察しの通り。ちょっと一人『バラして』きた帰り」

 そう言って片手で凶器をおもちゃのようにくるくると弄ぶ。彼女から罪悪感のようなものは感じられない。遊びの一環くらいのつもりでやってきたことは、見て明らかだった。

「そんなことしたら捕まっちゃうんじゃないですか?」

「んー。実際にやったところは見られてないはずだから、絶賛逃走中の私が見つからなければ大丈夫」

 そう言って、彼女は勢いをつけて体を後ろ、窓の外側へと傾けた。

 このままでは落ちる、と咄嗟に思った僕は手を伸ばした。

 が、彼女は落ちそうだったわけではなかった。そのまま反動をつけて部屋の中へと飛び込んでくる。

 彼女との距離が一気に縮まり、耳元で彼女の声がした。

「だから、ごめんね。優しくて変わった目撃者サン」

 ごとり、と。

 何かが落ちる音がした。

 周りに落ちるような重たいものがあっただろうか。僕は周囲を見渡すが、殺風景な僕の部屋に落ちているものはない。

 おかしいな、と思って遠くにやった視線をそのまま足元へとやったとき、音を立てた正体がわかった。

 落ちていたのは、さっき前に伸ばしただった。

「本当は一発で仕留めるべきだけど、人を呼ばないでいてくれた分、ちょっとだけ手心を加えてあげようかなって」

 彼女の手には、相変わらず先ほど見せられた刃渡り十センチもないようなナイフが握られている。そのナイフには先ほどとは違って、真新しい血がついていた。

 つまり、今の接近した一瞬で僕の手首から先を、あのナイフで落としたというのだろうか。

 彼女を見ると、うっとりとした表情で僕を見ていた。

「うん、いい切り口。落とすならやっぱり手首よね」

 見ていたのは手首の切断面だった。そんなところに向けるものとは思えないほど、彼女はそこに感動していた。よっぽど人を切るのが好きなのかもしれない。わざわざ法に触れてまで『バラす』のだからそれもそうかもしれない。

「それじゃあね。しばらく横になってれば、じきにお迎えが来るでしょう」

 切り口を存分に堪能した彼女は、僕から離れて背を向けた。このまま行かれてしまってはいけない。僕は彼女を止めようと、先の残っている左手を伸ばす。

 その左手が彼女に触れるか触れないかというところで彼女が振り返り、右手を振り下ろした。

 ナイフが僕の左手へ向けられた、ということ以外わからないほどのすさまじい早業で、次の瞬間には僕の左手は重力に引かれて、床へと落ちた。

「触らないで。まあ、両手のない今、もう触れないでしょうけど」

 冷たい声が僕に向けられる。彼女がきつい口調を僕に向けている事実に、ちくりと胸が痛んだ。

 そう、『痛む』のだ。両手を落とされたときも、今までもずっと僕が明確に、はっきりと『痛い』と感じていた。

 この痛みが何なのか、もっと知りたい。それを知るために僕は彼女に向かって再びを伸ばした。

 反射的に再びナイフを振り下ろそうとした彼女は手を止めて、信じられないものを見るような顔で僕を見た。

「どうして……繋がってるの?」

 僕の右手は何事もなかったかのように腕から真っ直ぐ繋がっていた。手首に切られたような痕跡は全くなく、傷一つない健康な右手だ。ついさっき切られて地面に落ちたばかりだ、と言われても誰も信じないだろう。

 僕は繋がった右手を開き、握手を求めるような形を取る。

「もし……もしも逃げる先が決まってないなら、僕のところに来ませんか?」

 自分の口から出た言葉に、我ながら驚いた。だいぶぶっ飛んだことを言っているのは百も承知だった。それでも彼女にどこか遠くに行かれるよりはずっと良い。そのくらい、僕は彼女に夢中になっていた。

「来ないで、化け物っ!」

 彼女のナイフが煌めき、僕の胸の中心をいともたやすく貫いた。僕の心臓は、さっきと比べてちっとも痛みを感じなかった。

「目撃者を消したいところ、すみません」

 僕は胸にナイフを刺している彼女の手を掴む。

「僕、残念なことに死なないんですよ」

 彼女が小さく悲鳴を上げたのに少しだけ心を『痛めながら』、僕は彼女にそう告げた。

 放心状態の彼女の手ごと引っ張ってナイフを抜くと、血が溢れてくる。だが、穴の開いたところをぎゅっと抑えてやるとすぐに流れ出てくるものはなくなった。僕が手を離すと、穴はふさがっていて、しばらくすると痕跡すら残らなくなった。

「……そんな、ありえない」

 目の前で自分の開けた穴がふさがる様を見せられて、彼女はようやく声を出した。

「僕もおかしいなって思います」

 彼女は空いた方の手で髪の毛をぐしゃぐしゃにする。あまりに現実離れしているものを見せられたせいで混乱しているのだろう。とはいえ、手を切り落とす方もそれはそれで現実離れしている。彼女は溜息を一つついて、肩の力を抜いた。

「貴方のところに来いって、脅しのつもり?」

「脅したつもりはないんですけど……」

「じゃあ余計に何を企んでるの? 私みたいなのを匿うなんて、貴方にメリットがなさすぎる」

「僕、一人でここに住んでて。ちょうど話し相手が欲しかったんです」

 あなたのことが気になっているんです、とは恥ずかしかったので言えなかった。

 実際、二階建ての広い家を一人で使っているせいもあって、常に静かすぎて気持ちが悪いのも事実だった。

 彼女は頭を抱えてしまった。よく考えてみればたとえ殺人鬼とはいえ、彼女にだって自分の事情があるに決まってる。それこそさっき言われたように脅迫しているに過ぎない。

 今更になっておかしなことを言っている自覚が出てきた。

 差し出がましい申し出だった、やっぱり結構だ、と僕が断ろうとするより先に、彼女が口を開く。

「……サキ」

 名前を名乗られたのだ、と気が付くのに少しかかった。

「それって……いいってことですか?」

「不本意だけど、いてやってもいいわ。とっても不本意だけど」

 目に見えてはっきりわかるくらい嫌そうな顔をしていた。

「継春です。……これから、よろしくお願いします」

 とても『痛かった』けれど、完全に拒絶されたわけじゃなかったのがうれしくて、思わず僕の頬が緩んでしまった。

「ん。よろしく」

 彼女は右手を差し出した。ナイフを持っていないその手を、僕はしっかり繋がった手で握り返した。

 彼女の手が少しだけ暖かくて、僕の心臓が一つ跳ねた。今度は痛くなかったけれど、とても心地がいいものだった。

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