筑豊の空を白く染めてやる

七十

筑豊の空を白く染めてやる

 香春岳かわらだけは異様な山である、と誰かが言った。

 中腹部から上が無い。三角のはずの山が台形になっている。まるで神様が大きな剣で斬り落としたようだと、子どもの頃に思ったものだ。あまりにも鋭利で直線的な切り口に恐怖すら感じる。

 母の出身地が筑豊だったからか、香春岳の写真が東京に住む僕の家にはいつも飾られていた。玄関を入れば一秒で香春岳。今では写真に向かって、ただいま、とつぶやくほどの新鮮味すらない。物心ついたときから常にそれはあったんだ。

 初めて実物を見たのは中学二年の夏だった。母の母が、つまり会ったことのない祖母が死んだときだ。母はカケオチというドラマチックなシステムで東京に来たらしい。あまり聞きたくない、耳を塞ぐような話だ。

 とにかく玄関の古びた額に入って、見慣れすぎて、壁のシミと同じような風景の一部になってしまったはずの香春岳は、祖母の家に向かうタクシーに乗って気を抜いているところ、突然目の前に現れた。

 あまりの異様さに言葉を失った。

 写真で見たソレとはまったく違う。とにかく、何キロも離れた遠くから見ているはずなのに、押し倒されそうな迫力があった。想像していたのと全然違う。横幅もどっしりと大きく安定感があり、半分から上が斬り落とされているというのに凄まじく背が高く、町を丸ごと飲み込んでしまうような生命力が感じられた。

 この山は死んでいない。

 石炭と石灰。

 黒いダイヤと白いダイヤ。

 筑豊は死んだと母は言うけど、香春岳は死んでいない。

 恥を忍んで言うと、感動すらした。

 おばあちゃんの葬式に来て、生きてるとか感動とか、おかしいのは分かっている。でも、正直に言えば悲しさなんてものは全然無かったんだ。

 初めてはなにも山だけじゃない。

 祖母の家もそうだ。半分くらい裏の山の竹林に飲み込まれそうな木造の一軒家。玄関は土間で上を見上げれば吹き抜けで、茅葺きのような草の束が見えた。

 そして、イトコも初めて見た。

「こんにちは」

 親に言わされている感じが丸出しの女の子だった。真っ黒な髪を肩まで伸ばして、校則準拠で制服を着て、眠たそうな目をしている。

 名字が違うから親戚という気がしないけど、どうやら本当らしい。

 その子も中二だということで、大人たちが動き回っている間、二人はお寺の控え室にセットで放置されていた。

 初めて会った親戚だっていったって、特に話はないし、その子がまた仏頂面で、話しかける気力を削いだ。女の子はこわい。

 その日の夜は大人たちが寝ずの番で線香の火を見ているというので、僕は一人お寺の控え室で寝ることになった。もちろんイトコとは別の部屋だけど。慣れない事だらけで全然寝付けない。酒でも飲んでいるのか大人たちの話し声も聞こえてくるし。

 突然、襖を叩く音が聞こえた。

 心臓が止まるかと思う。そのくせなにも言わないし、出来れば風のいたずらって事で手を打ちたかった。でも、再び誰かが三回続けて襖を叩いた。幻聴ではない。

「……は、はい」

 部屋の電気も消されて、ここはお寺で、お通夜の真っ最中だ。怖くないと言えば嘘になる。

 襖がそろりと開いた。

「起きてた?」

 寝ているに決まっている。時計を見たら0時を少し回ったくらいだ。

 初めて会ったこのイトコの女の子は妙なことを訊いてきた。

「ライムライトって知ってる?」

 断じて知らない。

「百年以上昔の舞台照明なんだって」

 なにを突然言い出すのだ。照明の仕組みに興味を持つ女の子なんてこの地球上に存在していたのか。

「石灰を燃やすと真っ白に光るんだって。おばあちゃんから前に聞いたことがあるの」

 石灰。

「おばあちゃんはライムライトの照明を見たことがないけど、映画や何かで凄く憧れてたんだって」

 おばあちゃんだって、そりゃあ生まれたときからおばあちゃんではない。憧れの一つや二つはあって当たり前だ。

 でも、そんなことを考えたこともなかった。玄関の写真のように、視界に入っても意識しない風景の一部だ。

 香春岳を見て気持ちが動いたように、このお葬式が終わればおばあちゃんに対する気持ちも改まるのだろうか。おばあちゃんはまだ見ぬ僕に思いを馳せたことはあったのだろうか。そんなことを思った。

「香春岳、知ってる?」

 それは知ってる。

「香春岳は石灰の山なの。今はもう採ってないけど」

 女の子の顔は真剣だった。こわばっていると言ってもいい。とにかく冗談でそんなことを訊いているわけじゃなかった。

「香春岳は石灰の塊だから、あの切り取られた頂上も一面の石灰なの」

 だから?

「わたしと一緒に今から香春岳に登ってくれないかな」

 女の子はお寺の本堂からくすねてきた大きなマッチ箱をシャッシャと振って、初めて微笑んだ。

「筑豊の空をライムライトで真っ白に染めるんだ」

 大粒の涙がぼとぼとと落ちて畳で音をたてた。

「わかった、手伝うよ」

 そのとき、おばあちゃんを風景の一部にしていない女の子と、確かに生きていたおばあちゃんが笑っている絵が僕には見えたんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

筑豊の空を白く染めてやる 七十 @2501

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ