タップ・モンスター

こーすけ(白)

序(Side:code name【Kein】)


 そう、自分を呼ぶ声がする。

 そう、自分を呼ぶ約束のタップ。靴音ばかりが勇ましい。怯えてふるえるかかと。

 自分を愛してはいけない世界など、もう、いらないのだ。

                    (『手記(読唇による口述)』より)



序(Side:code name【Kein】)


 ああ、窒息する。

 745号線上り。

 まるで人を荷物のように詰めるだけ詰めた電車内のドア付近で、井崎譲二は天井を仰いだ。748号線から正に川沿いへと向かうこの路線に乗り継いで、目的地の川津大学後期キャンパスまであと五駅。普段は眠気に頭をやられてさして感じない不快感を今まざまざと味わっている。全くタイミングの悪い。変に晩酌をするとすぐこれだ。二日酔いどころか、かえって目覚めが良くなり視界及び感度が良好。知らぬが仏に後の祭りだ。よくよく考えて、不快指数にタイミングもへったくれもないことに思い至って更に気が滅入る。

 挙句、駅のホームから電車が止まったまま発車しないときている。

「……人身事故だ」

 すぐそばで、嫌に真剣な声がそう呟いた。

「え、本当に?」

「たぶん、間違いない」

(……人身事故……?)

 隣に押し込まれた女子高生と思しき二人が、ひそひそと顔を突き合わせている。

 手探りでポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確認する。

【AM 7:24】

 発着予定時刻は、確か三分前のはずだ。

 にわかにざわつき始めていた状況のせいで気付かなかったが、慎重に耳を済ませるとスピーカーから何やら車内放送のようなものが聞こえてくる。全体的にノイズがかかりほとんど聞き取れない。

(なんか、ヤバくないか……?)

 携帯電話の画面右上。時刻、充電残量(【75%】)と並び、電波状況は圏外だ。駅のホームにさしかかればどんなに電波の届かない地下鉄でも入るようになっているはずだ。嘘だろ。ああ嘘だと信じたくて試しに友人に「SOS」と本文を打ちSNSを送るものの、送信できずに三文字共に未送信ボックスに投げられる。マナー違反と知りつつ、ダイヤルを回すも結果は変わらなかった。

 周囲の乗客を見るに、ちょうど朝のラッシュの時間だ、スピーカーから流れるノイズ混じりの放送に気付いてか、気付いていなければ何が起こっているのか分からずに、自分の遅刻を察して携帯電話を開いた者はいよいよ混乱はピークだ。「おい! ドア開かねぇのかよ!」と誰かが喚いた。

 にわかに子供が泣き出す。

 不安げな声が重なり、熱と人の重さとで背中を脂汗が伝う。

(落ち着け、落ち着け。このままじゃどうにもならん)

 堅く閉ざされたドアを開けるのは無理だ。非常ボタンの所在は不明。窓は、他の乗客が開けようとして失敗しているのを見てしまった。嵌め殺しか、動かないらしい。連結部分を壊そうと、あれは丈夫すぎる。

 ああ、窒息する。

 密閉された空間で、しかも圧迫された状態でどれほど体力と精神力が持つものか。湿気が肺を占領して息がしづらい。ざわめきに酸素を奪われる一方だ。どうにか静まれと思うも、一対大衆ではたかが知れている。

(……はぁ……)

 面倒なことになってしまった。

 潰すまいとドアに突っ張っていた左腕はそのままに、その下でじっと動かない少年の首筋を、井崎はぼんやりと見下ろした。腹に抱えた黒いランドセルが懐かしい。

(えらいもんだ、大の大人が喚いてんのに)

 脱出口の見つからない、ほとほと不愉快な満員電車の中で、喚くことも泣くこともせずにただただ静かにドアに張り付く少年のそれは、飢えた獣が体力を温存しているかのようにも見える。

(オオカマキリ、だったかな)

 在りし日に見た。捕らえて、虫籠の中で飼い殺した命だ。

 あまりに微動だにしないので、ふと、心配になって彼にそっと声をかけた。

「おい、大丈夫か」

 びく、と少年の肩が跳ねる。

「悪いな、ちょっと苦しいだろ。もうちょい、後ろに下がれればいいんだけどな」

「……大丈夫です」

「あの、ありがとうございます」と、小さな声が返ってきた。

 思いがけず音の濁流を貫いた澄んだ声色に姿勢を持ち直す。声変わり前のいたいけな少年がしゃんとしているのだ。

「なぁ」と、井崎は粟立つ気持ちのまま少年のうなじにもう一度声をかけた。

「……はい」

「これ、ただの人身事故じゃないよな」

「……」

 そろ、と少年が首だけで井崎を振り返った。改めて見ると小柄だ。百七十そこそこの井崎の腹のあたりから見上げてくる。色が白く、どこか少女めいた顔立ちだった。

「どうして、ですか?」

「駅に入ってんのに電話が通じない。ドアも開かない。車内放送が聞こえない」

 しかし、少年は「そうじゃなくて……」と首を振った。

「違うのか」

「あの……どうして人身事故だって、分かるのかと……」

「連絡取れないし、放送、聞こえないんでしょう?」と、至極もっともなことを言われてしまった。

「ああ、それ、は……それはだな……」

 遠慮がちにこちらを覗き込むつぶらな視線が痛い。

「そう、話しているのを聞いただけ、なんだよなぁ……」

(恥ずかしながら)

 乗車し腕の下に少年を庇ってからこの方一歩もこの場を動いていないのだから、連絡手段がない以上情報の集めようがない。そもそも、人がいすぎて動けない。

(こんな小さい子にも分かることなのにな……)

 柄にもなく根拠のない情報を信じそうになった、というより、井崎の悪い癖だった。追い込まれると視野が狭くなる。

 顔にのぼった熱を振り払う。右手で額の汗を拭う。「大丈夫ですか?」という少年に、「ああ」と、短く答える。

「……でも、ぼくもそう思いますよ」

「は?」

 少年が、井崎のからだ越しに周りを見渡した。

「あの、誰が話しているのを聞いたんですか?」

 思案顔の少年の意図が分からなくて、一寸井崎は首を傾げた。

(けど、この子がデタラメ言っているようには見えないんだよなぁ、なんでだ? というか俺、なんでこんな子供にこんな……)

 少年の耳元で切り揃えた黒髪や、きっちり上まで留められたシャツから漂う優等生然とした雰囲気がそう思わせるのだろうか。どちらにせよ、この場でまともに話せる相手がこのほんの小さな子供だけだということには違いない。変に気が立った周囲の大人に協力を仰いだところで、どうなるか。

「それな」

 井崎は、妙な安心感を少年に見出して向き合った。

「そこの女の子二人が話してたんだ。ほら、セーラー服の」

「あの人たちが?」

「おう」

 揃いの黒いセーラー服に、長い黒髪をそれぞれ高い位置で結い上げた姿は一見仲の良い友人同士というよりは姉妹か双子といった風体だ。指定の通学鞄と見えるナイロンのショルダーバッグに、【丁子紋学園】と校名が紺に白字でプリントされている。

(確か二駅先の私立高だったか?)

 校名の通り、彼女たちのセーラーカラーに丁子紋が白抜かれている。

「あの子たちが、どうかしたのか?」

「え? ……ああ、はい」

 少年は、しばらく考え込んでからおっかなびっくり「お願いがあるんですけど……」と井崎を伺った。

「お願い?」

「……はい。あの、ぼくとお兄さんの間に、人一人分の隙間をつくって欲しいんです」

「それは……構わないけどよ」

 この人の多さと混乱した状況でどれだけ隙間を保っていられるかが怪しい。せいぜい、

「せいぜい……十秒が限界だがそれでもいいのか?」

 失敗すれば少年もろとも人の塊に潰されかねない。

「大丈夫です。成功すれば、たぶんここから出られます」

「出られるって……」

 まさか、少年の細腕でドアを開けようとでも言うのか、どう考えても無茶苦茶な方法だ。かと言って、それ以外に少年がどう動くのか全く見当がつかない。

「……無理だけはするなよ?」

 自分が脱出方法を考え付かない以上は、頼れるのは少年だけだ。彼がデタラメをいう可能性は先に捨てている。

(周りの大人がどうしようもないなら、自分が何もできないなら、せめて、自分を頼ってくれている彼に何かできるなら、してやっても、いいんじゃないか?)

 でも、無理だけはするな、と全ての重しを渡すまいとしただけだった。だから、少年がそこで花がほころぶように笑うとは思いもしなかった。

「……ありがとうございます」

 少年が、ゆっくりとドアの方へと視線を戻す。つられて少年の頭越しに見たホームで、人が慌てふためいているのが見えた。ドアに追いすがって外から叩いているようだが、どういうわけかこちらには一切音が聞こえない。

(この子、まさかこんなのをずっと見てたのか……?)

 車内にばかり気を取られ見もしなかった。

 少年の頭上のあたりを容赦なく殴る恐慌した人の顔を。中だけではなかった。これは、外もとんでもないことになっている。おそらく電車の遅れで人だかりができ、上手く身動きが取れないでいる。だが、それにしても、窓一枚挟んでいるとはいえ正気の沙汰ではない。

 井崎は、どうにか少年の視線をそこから外したいという気持ちを抑えて、低く「行くぞ」と耳元に囁いた。

「はい」

 下ろして人と人に挟まれていた右手を引き抜き、ドアに添えて突っ張る。腕に力を込めながら、一歩、二歩、と後ろに下がる。後ろから文句や悲鳴が飛ぼうが殴られようが、知ったことではない。

「行け!」

 残り十秒。

 何の手立てがあるかも分からないまま、叫ぶ。

 呼吸一拍。

「――よら」

 と、少年の涼やかな声が誰かの名を呼んだ。

 同時に、タンッ、と、何かが弾けるような音が響いた。

 少年と井崎の間に強烈な風が吹く。

 思わずつむった目の前を、なきたくなるほど懐かしいかおりがかすめて、

(は……?)

「よら! ドアを開けて!」

 少年の小さな手より倍近く大きな手が、ぐ、とドアにかけられた。

 ――バツン!

 これは開くまい、とばかり思っていた。その開かずのドアが開いた瞬間、詰め込まれていた人が鉄砲水のように人をかき分けホームに噴き出す。このままでは将棋倒しに巻き込まれる。

「よら!」

 背中を迫る恐ろしい圧力から、咄嗟に腹に回された腕が井崎と少年を勢いよく引っ張り出す。一周する景色。横目に見たのは、白抜きの丁子紋。

 ものの十秒に満たない脱出劇が、そこで静止画になる。



「っはぁ……」

 車外。

 ホームの柱の陰に身を置いて初めて、井崎はまともに息を吐き出した。少年も、自分も無事だ。それもこれも、どこからともなく現れた赤毛の青年の手で。

 少年はひとところつくと声を上げて泣き出してしまっていた。

 今の今までどんなにか怖いのを我慢していたのだ。目をいっぱいに涙で溢れさせ、しきりに「よら」と件の名を呼んでいる。それを、青年はひどくやさしげな眼差しと手つきであやしていた。

(……何が起こったんだ?)

 少年が井崎に請うた人一人分のスペース。あの短時間でそこに潜り込めるような位置に、青年の姿はなかった。そして、密閉された空間に風が吹くわけもない。

 頭が痛くなる喧騒の中、けたたましく音割れしたホームアナウンスが人身事故と車両異常、点検の開始、運休の旨を流している。電光掲示板に設置された時計で時刻を確かめる。

【AM 7:40】

 井崎が前に確認してから十五分は経っている。念の為開いた携帯電話も同じ時刻を指しており、電波はすっかり元通りだ。

 赤毛の青年がドアをこじ開けたのを皮切りにか、あらかた全てのドアが開いたようだ。何ヶ所かで将棋倒しが起こり、悲鳴が上がっている。あの圧力だ、死者が出てもおかしくない。

 奇跡だ。

 何もかもが。

 本来なら、ドアが別の方法で開いたとしても自分はあそこにいる。

「……おい、大丈夫か?」

 いつまでも泣き止まない少年を、青年の腕が軽々と膝の上に抱き上げた。紫色の垂れ目が無言で井崎に微笑む。まるで、「大丈夫だ」とでも言いたげだ。

(こいつ、この子だけじゃなく俺まであそこから引っ張り出したんだぞ……)

 何にせよ、見れば見るほど常人離れした青年だ。少年のからだを支える腕は服の上からでも分かるがっしりとした筋肉に覆われ、井崎よりも一回りは身長が高い。そこだけ見れば単にいかめしい男を想像するものを、顔はというと、少年とは別の意味で少女めいていた。緩やかに下がる睫毛の長い目尻に、深い紫色の光彩が見る者の目を引く。ふくよかながら小ぶりな唇。通った鼻筋。パーカー、サルエルパンツ、直足袋、背中までに伸びた長い赤毛を彩る赤いカチューシャ。一言で言えば、あり合わせだ。幼い少女が、見付けたアイテムをひたすら身に着けているような、井崎の感性では、なんとも言い難い。

「……なぁ、あんた」

 しゃくりあげる少年の呼吸がようやく静かになった頃、井崎は青年を再び見遣った。

「とりあえず、ありがとな、助けてくれて」

「……」

 少年は、泣き疲れて眠ってしまったようだ。青年の肩に白い頬を預け、首に腕を回して抱きついたまま、その表情はすっかり井崎を信頼させた切れ者を洗い流して、やわい子供の素地を見せている。涙の跡が赤くなって、少し痛々しい。

 青年は黙って首を横に振って、視線で会釈を返した。

 地面に放られていたランドセルを柱の近くに寄せてやる。

「あんた、この子の保護者か何かか?」

「……」

「なんだその微妙な顔は……というか、どうした? 耳が聞こえないとかじゃあ、ないよな? 喉でもやられてんのか?」

 青年は、その問いにも首を振って、井崎の腕を軽く引いた。

「ん? な、なんだ?」

 右手を差し出される。

「出せって?」

 青年がした通りに井崎が右手を差し出すと、そこに、青年の指先が掌の何やらたどっていく。文字だ。

(『ま』? 『ま』『も』『つ』……『て』? 『い』『る』?)

「『守っている』?」

 青年は頷く。それから、

(『ほ』……じゃない、『は』……『な』『せ』『な』……)

「『話せない』? でも、耳が聞こえないわけでも、喉を傷めてるわけでもない、と?」

 青年の手が離れていく。

 なんとも要領を得ない返答だ。しかし、青年のこちらを見つめる視線に「余計分からなくなったんだが」とも言うわけにもいかず。十数分前の少年の方がよほどしっかりとした目をしていた、と思うくらいに、青年の目が不安に揺れている。

「わ……わ、分かった。分かった、いきなり踏み込んだこと聞いて悪かったよ」

 元から知っている仲ならともかく、青年からすればただ顔を合わせただけの相手にここまで聞かれるいわれはない。少年を案じてつい詰問口調になってしまった。

(余計なお世話……かね)

 少年の青年に対する態度を見れば、杞憂だったのかもしれない。

 青年は、やや強ばった頬を緩めて、「大丈夫だ」と言うように首を振った。

「そうか……」

 青年の紫色の瞳から、目をそらす。無垢だ。どうも、幼い子供を相手にしているような気分になっていけない。

「まぁ……なんだ。なんかあったら、うん……お前、携帯持ってるよな?」

 青年は、少し考えるように首筋をかき、はっ、と少年のランドセルを指差して頷いた。

「お前は持ってないのかよ……まぁいいや、それならその子に緊急時はここに連絡するように言ってくれ。信用できなかったら捨てても構わない」

 井崎は、鞄から手帳を取り出して名前とメールアドレス、電話番号を書き付けた。そのページを破って青年の手に握らせる。

「改めて。俺は井崎譲二。助けてくれて、ありがとな。今日はもう、落ち着いたら帰った方がいい。迂回するのも大変だろ?」

 少年の頭と、つい、青年の頭もなでる。

 ここまで騒ぎが大きくなれば、どんなに厳しい親でもランドセルを背負った子供に無理は強いないはずだ。

 これで大丈夫、そう思った拍子にどっと忘れていた疲れが押し寄せてくる。もう少しだけ、もう少しだけ遅れても、と井崎は力を抜いて柱に身を寄せた。


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タップ・モンスター こーすけ(白) @shiro23

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