16.11.06

先日図書館で借りてきた本を1冊読み終わった。

児童文学なのですらすらと読めたのだが、

図書館で借りた本を読み切る、というのは私にしては実は珍しい。


前の仕事でライトノベルをよく見ていた(読んではいない)のだが、

主人公が無駄に超人な作品が増えてきていた気がする。


特に無駄にモテる仕様が多い。


小説は現実の願望を補填しても良いし、望まれているからそういう小説が

刊行され続けているのだろう。そこをいくと今回読み終わった作品の

主人公が小太り気味の女の子、というのが新鮮であった。


小学6年生の女の子というと、児童文学では結構なお姉さんではないだろうか。

物語の雰囲気からするともう少し幼い設定でもいいのではと思ったが、

書かれた当時の小学6年生からすると、ぴったりなのかもと思えた。


刊行は1980年。スマホどころか携帯電話もない時代だ。

小学生がそういった端末を普通に持つようになったのも、ここ10年か、

遡っても15年ぐらいだろう。


子供は大人以上に時代を反映した存在であり、

流行などもダイレクトに表現されるものだ。

正直、スマホを持っていたら小学生が小学生でなくなるような気もする。

それは時代遅れだと言われればその通りなのだが、子供らしさという言葉が

いつの間にか幻想のようなものになってきている。


私はどうしていつまで子供でいられるのでしょうか。という問いを出した時に、

様々な答えが出て来るけれど、今は昔よりずっと子供でいられる時期が短くなった

ように思える。戦争で学徒出陣などもあり、それも子供でなくなる瞬間のようなもの

ではあるが、また違う見方から感じる、子供という時間の短縮である。


この物語の主人公である女の子リナは人とふれ合い、働くことで大人への階段を

登って行く。自分のくいぶちは自分で稼げ、という町で生活を続け、自立した

1人の人間へと成長していく。


それでもこの物語は、最後にリナをまた子供へ戻してくれるのだ。

ひと回り大きくなったとはいえ、小学6年生の女の子だ。彼女の淡い願いは、

自分で稼げと言い放ったある老婆が、繋ぎとめてくれる。


大人になるのなんかゆっくりでいい。

それにちゃんと成長しながら大人にならなきゃ、なんの意味もないのだ。

気づいたら大人のなりそこないになっていた、なんてことに

ならないように、私たちは子供でいる時間を大事にしなければいけない。


『霧のむこうのふしぎな町』は『耳をすませば』で聖司が図書館で読んでいた本で、

進路で悩む中学生という構図も、遠からずこの物語に重なる。

そこに「恋」があったのは、雫と聖司がちょっとだけリナより大人だったから

なのかもしれない。

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