第92話 琥珀の破片【11】
ロシュは亜麻色の扉を二度叩いた。
すぐさま返って来た入室を許可する
「フィシュア様。確認もせずに許しを与えるのは危険だといつも申しあげているでしょう」
奥に進みながらロシュが苦言を呈すと、窓際にいたフィシュアは口の端を緩めた。
窓台に両足を投げ出し腰掛けているフィシュアの向こうでは、消えつつある太陽が最後に空を染めあげていた。飾り格子の窓で区切られた世界は目に鮮やかで、背にかかる濡れそぼった薄茶の髪にまで残り日を落とし込んでいる。
花の香りがあたりにくゆっているのは、ついさっきまで彼女が湯浴みをしていたせいだろう。
「ロシュのことを間違うはずがない。いつもそう言っているだろう?」
「それでも、ですよ」
ロシュが諌めれば、フィシュアはおざなりに返事をしてみせた。
「テト殿の皇立学校入学許可証です。これで明日からでも入学できますよ」
「ん。ありがとう」
ロシュが差し出した書類を受け取ったフィシュアは、ぱらぱらと書類を捲り、ざっと目を通す。
前髪から伝い落ちてきた雫を鬱陶しげに払い、髪をかきあげたフィシュアを前にし、ロシュは苦笑した。
「この姿をご覧になっていたら、お二人もフィシュア様が“お姫様”であるとすぐに納得してくれたでしょうにね」
部屋着とはいえ丁寧に仕立てられた淡緑色の衣装は、舞台衣装よりもよほど気品があり美しい。何より淡く繊細な色調が、フィシュアの濃い藍色の瞳をいっそう鮮明に引き立てていた。
ゆとりある袖口から見え隠れする薄桃の腕飾りにも調和しており、顔馴染みから貰ったというそのガラスの土産物は、今のフィシュアが身につけていると一見値の張る宝飾のようだ。
帰って来たばかりのフィシュアを目にして、迷わずこの衣装を選んだ彼女の侍女たちは大したものだろう。
けれども当の皇女はお気に召さないらしく、フィシュアは爪先まで覆い隠す丈の長い裾を摘まむと、渋い顔をつくった。
「重い。動きにくい。もっと動きやすい服を選んでいたのに、湯殿に入っているうちにすり替えられた」
「だから全員追い出してしまったのですか?」
フィシュアの確認が済み、戻された書類を机の上に置きながらロシュは聞いた。同じ机上に投げ出されていた厚布を手に取って、そっと
「だって、あれやこれやと飾り立てようとするんだぞ? もう日暮れなのに、こちゃこちゃと飾りを並び立てて、髪結いの準備までしだしたからな。飾り装うのは明日だけで充分だ。ホーリラにテトたちの部屋の支度を頼んだから、今日はいくらかマシだと思ったのに」
「仕切り屋がいない分、不備がないよう余計はりきっていましたからねぇ」
ロシュは丹念に布へ水気を吸わせ続けながら苦笑を漏らした。
「仕方ありませんよ。フィシュア様がお戻りになるのを、皆、今か今かと待ち構えていたのです。ようやくお世話できるとなり、楽しくてしょうがなかったのでしょう」
「帰ってくるたび、はしゃがれる身にもなってほしい」
フィシュアは投げやりな溜息をつくと、されるがまま、ロシュの好きなようにさせて顎を両膝の上に載せた。
「イオル義姉様は何と?」
「あれからは何も。ただ、ホークは明日にでも帰ってくるだろうというオギハ様からの伝言をファッテ殿より言付かりました」
そう、とフィシュアは呟き、星が瞬きだした窓の外へ目を向けた。
北西の賢者の塔の上からは見えているはずの皇都の街並みは、ここからでは高さが足りず影すら見えない。
見えるのは、
そこに確かに孤高の鳥の姿はなく、代わりに群れゆく鳥が列をなして
「ロシュ」
「はい」
「ありがとう。
窓の外に顔を向けたままのフィシュアに、ロシュは「いいえ」と穏やかに応じた。
「楽しかったですか?」
「ん」
「大丈夫ですよ。またいつだってお会いできます」
「そうだな」
フィシュアは両膝をさらに引き寄せ、息をつく。
「例の
「そちらも何も。オギハ様がファイを遣わせたのも情報収集のためでしょうが」
「なら、皇都は——」
「今のところ問題ありません。ただ火点けと、それに伴う物盗りが相次いでいるようです。ルディ様がすでに警備隊の巡回強化の手配をなさっています」
「火点け……」
フィシュアは眉をひそめ、ロシュへと向きなおった。
「それはアエルナ地方のものとの関連はないのか? アエルナの消された村も火によるだろう」
「恐らくは。皇都のものは、どれも人為的に点けられた痕跡が焼け跡に残っています。何より規模が違いすぎますから」
「そんなに酷かったのか」
「ええ。フィシュア様がいらっしゃらなくてよかったと思うくらいには。酷いというより何も残っていなかった、というのが正しいですが」
言いながら、ロシュは薄茶の髪にあてがっていた厚布を外した。
「フィシュア様。そのような顔をされると非常に困るのですが」
「私は、ロシュがいなくなってしまったら困る。よかった。本当に無事で。
膝の上で強く握りしめられたフィシュアの拳を、ロシュは手に取り解いた。俯いたままの
「泣かないでくださいよ? 幼い頃のようには慰めてさしあげませんからね」
「泣くわけないだろう。もう子どもじゃないんだから」
「ええ。フィシュア様はとても大きくなられましたからね」
揺らぐどころか、むしろ咎めるように険を増した藍の双眸にロシュは微笑した。
「あの頃に比べて人の痛みを理解してしまう分、あなたは誰よりも弱くて、誰よりも強くなりましたから」
「それは結局どっちなんだ? 褒めているのか? 諌めているのか?」
「褒め言葉と取ってくださって構いませんよ。褒めるところすら持ちあわせていないのなら、私たちは誰もあなたに仕えておりません。フィシュア様の他人を
「やっぱり諌めているんじゃないのか……?」
ますます不審そうな顔になったフィシュアに、ロシュは「違いますよ」と否定する。
「あなたが必要としてくださる限り、私はいなくなったりはしません。あなたに仕えると決めた時から、予期せぬ力と対峙することは承知の上です。それは
ですので今回の
「フィシュア様はいつものように他の方を気にかけ自由に動いてください。私もいつものようにあなたをお護りいたしましょう、我が君。たとえ命に代えてでも」
息をつめて身を強ばらせたフィシュアをとくと眺め、ついに堪え切れなくなったロシュはふとおかしそうに視線を逸らした。
「……と、いうのは、フィシュア様がひどく嫌いますからね。死なない程度にお護りしましょう。元より私もできる限り死にたくはありませんし」
「……からかっているのか?」
「お二人と離れて拗ねていらっしゃるようでしたので。いくらか気は晴れましたか?」
「ロシュ!」
「それに、先程のお言葉が嬉しかったので」
半眼したフィシュアは繋いでいたロシュの手を振り払い、その手で焦げ茶の頭をぺしっとはたいた。
ロシュは大して痛くないその非難を甘んじて受けとめる。
「どのような場合でもあなたの傍らにお仕えいたしますよ、フィシュア様」
「……そうか。……言ったな、ロシュ。なら文句は言わず、ついて来いよ?」
フィシュアはすくと立ち上がった。後に続いたロシュは、厚布をたたみ元あった机の上に戻す。
「もしや市井に降りる気ですか。皇都に帰って来たばかりで、お疲れだというのに?」
「今日はもうロシュの苦言は聞かない。それが、さっきの罰!」
「どちらにしろフィシュア様はなかなか聞き入れてはくださらないじゃないですか。はじめから歌いに行くつもりだったのでしょう?」
「よくわかっているじゃないか」
フィシュアは不敵に口の端を上げた。
なら話は早いな、と足早に部屋を横切り、隣室の衣装箪笥から暗色の外套を取り出し袖を通す。
「みんなに帰還の挨拶をしにいかないと。それに集めたい情報がある。道すがらロシュにも話すから手伝ってくれ」
ロシュは了承の意の代わりに肩を竦めてみせ、一礼すると早速馬の手配に向かった。
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