第91話 琥珀の破片【10】
訝しむシェラートに問いただされるよりも早く、フィシュアはシュザネの傍にかがみ込んだ。手元に寄せ集めた紙に必死に何かを書きつけているシュザネの耳元に手を添え「
「実は彼、元々私たちと同じ人間だったそうです。あの
耳打ちされた瞬間、シュザネは筆記する手をぴたりと止めた。インクペンを放り出し、フィシュアの両腕に掴みかかる。
「フィシュア様っ……! そ、それは、真実、本当のことなのですかな?」
シュザネの勢いに押されたフィシュアは身を引きながらも「ええ」と請け負う。
そしてこの子が、とフィシュアはテトに向かってこちらに来るよう数度頷き呼び招いた。
「テトランです。今日から皇宮で一緒に暮らします。皇立学校にも通うことになりました。テトは勉学への興味がとても高いんですよ。なので、何かあったら私の時みたいに、テトにもいろんなことを教えてあげてくださいね」
「テトラン殿……」
シュザネは噛み含めながら呟き、まじまじとテトの顔を見た。
夢から覚めたように目の前に立つ栗毛の少年を認識し出した北西の賢者は、相手の緊張を解くかのごとく水色の双眸をほのかにうち崩した。
「儂はシュザネと申します」
「シュザネ、様?」
「“様”は結構ですぞ。ちょうどテトラン殿と同じ背格好の御子たちからは“シュザネのじいちゃん”と呼ばれておりますゆえ、“様”を付けられるとどうも変な心地がしてしまいます。それ以外でしたら、呼び方は何でも」
「それならシュザネさん。僕のことも“テト”でいいよ。僕のことは、みんなそう呼ぶから。よろしくね」
テトは差し出されたシュザネの節くれだった手をきゅっと握った。
シュザネは、おうおうと、まるで新しい孫でも見るように、ますます下げた
微笑ましい二人のやりとりを見守りながら、フィシュアは複雑な顔をしているシェラートの腕をひっぱった。背を押し、改めてシェラートを引き合いに出す。
「そして、彼がシェラートです」
「——シェラート……殿?」
シュザネはテトの手を握ったまま、シェラートへ顔を向けた。
先程までの行動が嘘のような理知的な眼差しに、シェラートは密かにほっとする。
シュザネは探るようにシェラートを見つめた。
「どこかでお会いしたことがございましたかな?」
「ないな」
シェラートは迷いなく否定した。
いくら長い時を越えてきたとはいえ、ここまで強烈な印象を与えてくる人物ならば記憶に残らないはずがない。
はて、と記憶を辿りながら白髭を撫でたシュザネの黙考を遮ったのはテトの明るい声だった。
「僕はシェラートと一緒に旅をしていたんだよ。それで途中でフィシュアに会って、皇都まで来たんだ」
「ほう。そうなのですか。それは、よく頑張りましたね」
シュザネに褒められ、テトは誇らしげに笑った。
「
「なるほど。それで黒髪に緑眼……いや、これは翡翠ですかな?」
シュザネはじっとシェラートを見据え、首を捻る。フィシュアは、シュザネが落ち着いたままであるのを確認し本題を切り出した。
「先程の話の続きを。シェラートは
豊かな髭を撫でつけたままシュザネは、シェラートからフィシュアへ目を移した。
「それを知ってフィシュア様はどうされたいのですかな?」
「私自身は特には何も。ただ、シェラートには望む生き方を……それを選ぶ権利が与えられるべきだと思ったからです」
「シェラート殿が願いを叶えてもらう代わりに
「それでも、です」
決然と言い切ったフィシュアを前にして、シュザネは「ふぅむ」と思案する。しかし結局、北西の賢者はかぶりを振った。
「残念ながら儂の持ち得る知識の中に、そのようなものはございませんのう。そのような記録を見たこともありませぬ。あえて申し上げるとしても御伽話の中で語られているものぐらいでしょうな。人が
「そうですか……」
大方見越していた結果ではあったものの、フィシュアは頼りの綱が切れたことに気落ちした。
もしシュザネがそんな方法を知っていたのなら、フィシュアにも何かの折に明かしてくれていたはずなのだ。
それでも北西の賢者のみに継承される知識の中にあってもおかしくはないと期待していた部分もあった。
項垂れそうになったところに、こつりと拳が降ってくる。
「だから、あまり気にするなって」
頭頂に手を当てながらフィシュアは思わず憮然とした。
気遣っての言葉だと理解できるものの、はなから期待していないようなシェラートの言い方は、それはそれで腹が立つ。
「気にしていないわよ。だって、まだ充分にっ、希望はあるものっ!」
「充分に、か?」
「ええ、ええ、“充分に”ありますとも!」
ふぉっふぉっふぉっと哄笑しながら、シュザネはがしりとシェラートの手首を掴む。気づけば、賢者の水色の瞳にはきらりと光るものが戻ってきていた。ほくそ笑む顔は心の浮き立ちを表すように上気している。
「こうして
「
追随するフィシュアは、シュザネの手を取り謝辞を述べる。
瞬く間に変わった風向きに、顔を引きつらせたのは話題の中心であるはずのシェラートだった。
「おい、フィシュア!」
「“怒らないでね”って言ったでしょう? それに
フィシュアは悠然と笑みを浮かべ、悪びれもなく告げた。
その向こうではひょいひょいと部屋を横切ったシュザネが、さっそく
「大丈夫よ。あなたたちの部屋が整い次第、すぐに迎えを寄越すから」
「それはどの位かかるんだよ」
「早くて二、三時間?」
「…………まったく早くはないな?」
「準備にも色々とあるのよ。逃げようと思わないでね。一回ここで我慢していた方が、絶対に後が楽よ。
「……だろうな」
心底うんざりと息を吐いたシェラートに、フィシュアだって申し訳ないという気持ちが起こらないわけでもない。
「でも、
それにね、とフィシュアは、話がつくのを待ってくれていたテトに笑いかける。
「ここから見る夜へ移りゆく世界は本当にきれいだから、二人にも一度は見ておいてほしいのよ」
「うん……でも、シェラートが嫌なら、僕はいいよ」
おずおずと告げたテトに、シェラートは降参した。
天井に映った空の端は早くも微かに橙に染まり、世界に新たな色を引きつつあった。
「いや、いい。俺もテトと同じように少し見てみたいと思っていたからな」
「本当に!?」
テトは、ぱっと顔を輝かせた。あまりの喜びようにフィシュアとシェラートも顔を見合せ笑ってしまう。
「下まで送るか?」
あの階段は長すぎるだろう、とシェラートはフィシュアに提案した。
「それは助かるけど……いいの?」
「フィシュアが早く戻れば戻る分だけ、解放される時間も早くなるからな」
「あはは。それもそうね。じゃあ、お言葉に甘えて」
フィシュアが答えると、シェラートは頷いた。戻ってきたシュザネに巻き尺を巻きつけられながら軽く手を薙ぐ。
一呼吸の後に、フィシュアは道の上に足をついていた。
今まで最上階にいたはずの北西の賢者の塔を仰ぎ見る。
遠くかけ離れた地上からは、部屋の様子など窺い知ることはできなかった。
けれど、確かにその場にいるはずの三人に向かって、フィシュアは一度だけ、高く腕を上げて、手を振ってみせたのだ。
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