第93話 琥珀の破片【12】

「こちらがお二人のお部屋になります」

 ホーリラと名乗ったフィシュア付きの若い女官は、鍵を開け扉を開いた。

 手狭で申し訳ありませんが、と添えられた言葉に、テトが隣で「え」と固まる。

「……広い、よね?」

 恐る恐る小声で確認され、シェラートは一般的にはそうだな、とやはり小声で頷いてやった。

 その合間に、小柄な女官は手にしたランプから部屋の灯器具に火を移してまわる。茶髪を纏める飾り布も、すっきりとした形の衣を締める帯も、どちらも五番目の姫フィストリア付きであることの印なのだろう。深い藍色をした揃いのそれに銀糸で縫い取られた五弁の花の意匠が、灯火を映して今は琥珀に照らされていた。

 灯りが点くごと、明るい夜空に照らされているばかりだった部屋が、くらむ光に沈み込む。

 一間ではあるものの一家族が充分に暮らせるほどの広さがあった。生活に必要なものもあらかた揃っているように見える。

 二人が通された一角は、普段、技術者や学者等、国が招いた者たちの住まいとして提供している場所だという。道すがら教えられた場所には、共同の食堂や湯殿だけでなく、商人から預かった品を取り扱うという小店まであった。随分贅沢な宿のような、ここだけで小さな街のような印象をシェラートは抱いた。

 今は人が少ないですが多い時はすごいのですよ、とどことなく厳しい印象の目元をやわらかくして、テトに丁寧に説明するホーリラは、どこか彼女の主人を彷彿とさせた。

 こちらを、とホーリラは手触りのいい布の小袋を二人に差し出す。

 促され、二人が中身を手の内に落とすと鍵が入っていた。鍵に繋がる銀色の飾り板の表面には、まるい縁を取り巻くように蔦が彫られ、やはり五弁の花の彫刻が咲いている。

「何かございましたらこちらの鍵でお呼びください」

「呼ぶ?」

「部屋の鍵であると同時に、そちらの飾りが五番目の姫フィストリアの客人の証明となります。食堂の者でも誰でも構いません——この皇宮に勤める者にお声かけいただければ私が承りますので」

「フィシュアには? フィシュアの部屋は、やっぱりここから遠い?」

 テトが聞くと、ホーリラはわずか身を屈め、眉を下げた。

「申し訳ありません。フィシュア様のご指示を受け、お二人のお部屋はこちらにいたしました。確かに本来、候補としてあげられていたお部屋よりフィシュア様のお部屋へは少し遠くなってしまいましたね。ですが、お二人ご一緒のお部屋で、学校へ通じる門が近いこちらの方が、お二人には過ごしやすいのでは、とのことです」

 それに、とホーリラは困ったように言った。

「フィシュア様自身が皇宮ここにいらっしゃらないことも多いのです。テトさんも、フィシュア様と一緒に旅をしていらっしたでしょう?」

「うん」

「日頃から長く空けられることが多いので。今夜もきっと帰還の挨拶に市街へ行ってしまわれたでしょうし。……ホークがいたら探してもらうことも可能だったのですが」

「あれは、ホーリラの言うことは聞くのか?」

 やたらとフィシュアの鳥に敵対心を持たれているシェラートが驚けば、ホーリラは「私の方があの子よりもフィシュア様付きとしては先輩なので」と苦笑した。

「ですから、ひとまず私をお呼びください。ご伝言は必ずお伝えいたします。可能な場合は、私がフィシュア様のお部屋へご案内いたします。もちろんフィシュア様ご自身、ここにいらっしゃる時はお二人のことを訪ねてこちらにいらっしゃると思いますよ。その時はどうか変わらず親しくお話してあげてくださいね」

 テトが頷けば、ホーリラは微笑む。

「明日の昼には一度お会いできるはずです。テトさんの入学も楽しみにしていらしたので、その際もお付き添いになりたいはず。どちらも私が責任を持って捕まえておきますから、ご安心ください」

 ホーリラは、二人を交互に見つめ礼をとった。

「テトさんとシェラートさんが、ロシュに代わりフィシュア様を無事にここまでお帰しくださったこと、心より感謝しております。あなた方が平らかに過ごせるよう微力ながらお手伝いさせていただきますので、何かございましたら遠慮なさらずお声かけくださいね」


 ホーリラが部屋を辞した後、テトとシェラートは教えてもらった食堂で夕食を取ることにした。

 二人の他に人気がないのはまだ時間帯がいくらか早いらしい。リィビと名乗ったふくよかな料理番の男が「さすがにもう少しいるさ」と豪快に笑って言っていた。

 テトは、皿上の鶏肉をフォークで突き転がしながら、辺りを見渡す。

「ごはんの時フィシュアがいないの、変な感じだね」

「そうだな」

「明日のお昼は一緒に食べられるかな?」

「だと、いいな」

 見るからに気落ちしているテトに応じながら、シェラートは塩が効いていておいしかった揚げ芋と茎野菜の小鉢を「ほら。こっちも食べろ」とテトの方へ回した。



 陽の名残りを拭い去り、深い藍色が空を夜へ塗りこめる。

 星が一つ、二つと灯りはじめた頃、イオルもまた薄闇に落ちた部屋に火を灯すよう侍従に命じた。

 寝台の端に腰を沈み込ませたイオルは、さらさらと滑る敷布を指の腹でなぞり、遊ぶ。

 天蓋の薄紗を通して淡く揺れる灯りは、ぼんやりと辺りを照らしだした。

 いとまを乞う侍従に頷き、退出を許す。

 皺一つない敷布へ目を落とした先。視界の片隅で、微かに揺らいだ空気にイオルは顔を上げ、次の間に続く扉へ目線を向けた。

「なぁんだ、オギハ。いたの?」

 扉の脇に寄りかかりながら腕を組んでいる夫の姿に、イオルは素直に口元を綻ばせた。

「それは、こっちの台詞だ。なぁんで、イオルがここにいるのかな?」

 動かないイオルの元へ、歩いてくる夫の藍色の双眸は咎めの色を含んでいる。

 窓外の夜よりも鮮やかで、それでも闇夜になりきらぬ色に、イオルは、ふふと笑声を漏らした。

「おかえり、私の夜のとばり

 目の前で手繰たぐり開けられた紗幕から、イオルは白く細い両腕を差し出して、やってきた夫の首に腕を絡める。「答えになってないし」とごちるオギハの瞼に、彼女は構わず口付けを落とした。

「イオル」

「なぁに?」

「人の部屋に勝手にこんなものをつけるな。自分のとこだけにしろよ」

 オギハは今朝まではなかったはずの、寝台の周りを取り囲む薄紗を指先で弾いた。イオルは腕を夫の両肩に置いて「いいじゃないの」と微笑む。

 間近に迫った妻の紺碧の双眸を、オギハは手で覆い隠して遮った。

「勘弁してくれ。もう疲れた」

 絡めた腕を、さも面倒臭そうに外されたことにイオルは不平の声をあげる。

 はいはい、と雑に対応されるのはいつものこと。寝台に腰掛けたオギハの背にイオルはおぶさり、纏わりついた。

「……重い」

「皇太子殿下はいつだってお忙しいものね。そりゃあ、さぞお疲れのことでしょうよ」

「わかっているなら解放してくれないか」

「けど、私も疲れてるのよ。オギハに謁見役を押し付けられたせいで」

「それなら余計、自分の部屋に帰るべきだな。一人で心ゆくまで充分に休むといい」

「いやー。一人ばっかりはつまらないもの。フィシュアも遊びには来てくれそうにないし」

 せっかく久しぶりに遊べると思ったのに、と口を尖らせたイオルを背にのせたまま、オギハは「フィシュアになら会いたかったんだけどな」と肩を落とした。

「んー。それなら、たぶん大丈夫よ。ロシュがオギハ直々に叱ってほしいことがあるって言ってたみたいだから、明日の朝にでも顔を出すんじゃない?」

「そう」

「……オギハ。そこは喜ぶとこじゃないでしょう」

 イオルは呆れて指摘する。

 顔を見なくても、オギハの機嫌が上昇したのを感じた。

「ほんっと、オギハは弟と妹が大好きよねぇ」

「俺のは、弟も妹も全員かわいからな」

「私はー?」

「あー、かわいい、かわいい」

 どこからどう聞いても、とってつけたようなオギハの物言いに、イオルはくいくいと夫の薄茶の髪を引っ張って、意義を唱える。

「それで? とーっても、かわいいあなたの弟妹たちはどうするって?」

「ドヨムは帰ってくることになった。他はそれぞれ手一杯だからな。だが、これで皇族のラピスラズリは三つを除いて揃う予定だ。何とかなるんじゃないか? 魔人ジン三人に、ラピスラズリ持ち九人なら充分だろう」

「余裕ねぇ。でも楽観主義すぎやしない? 実際に使えるのは九つではなくて七つでしょう? 皇帝陛下はおいでにならないだろうし、皇太子であるあなたも後方の砦に悠々と座しておくべき」

「むしろ、お前が皇宮なかに籠っとけ。俺が出る」

 イオルは紺碧の瞳をぱちくりと瞬かせた。

 けれど、すぐに薄色の唇に笑みをのせて、おやおやぁ、とオギハの前に回り込む。

「心配なの?」

「ああ、心配してる。お前が、また俺の弟妹たちに手をかけでもしたら、こっちの陣営が減って困るからな」

「いつの話よ!」

 息巻くイオルの首筋にオギハは音もなく右手を添え、彼女の名を呼んだ。

「また巻き込んだら、今度こそ容赦なく殺すからな? あの時の輩と同じように」

 透き通るほど青白い首は柔らかい。血潮を隠す薄い皮を、オギハは親指で撫ぜた。

「だから、皇族所有の証で我慢しておけ。さすがに俺でも自分の所有物をとられるのは癪だからな」

 イオルは引き寄せられるがまま、逆らうことなくオギハの肩に頭を預けた。

 首裏にまわった手が、戯れにイオルの髪を梳く。

 ん、とささめいて、彼女はうっすらと目を細めた。

「他にはもう何もいらないから。頼りの鎖を勝手に外しちゃったのはオギハなんだから、責任は取り続けてもらわないと」

「最終的にとっぱらったのは、お前自身だろう」

 それでも、と言いかけて、イオルはその言葉を呑み込んだ。

 動じない肩に額を押し付ける。

 もはや夢のように朧げな遠い過去のことだ。どちらが取り除いたにせよ、事実イオルにとってこの世で最も愛おしかった頼りの鎖は失くなってしまった。

 代わりにイオルの命を握りながらも彼女を生かした男は、今も手の届く位置で鼓動を鳴らし血潮を巡らせ生き長らえている。

 イオルは夫の肩から頭をもたげた。「それで?」と正面からオギハの両頬を掴み、顔を覗き込む。

「ご一緒してもよろしいんですかね、皇太子殿下」

「どうせ帰るつもりないんだろ」

「ご名当」

 にんまりと笑うイオルを見て「寝首をかこうとしないならな」と、オギハは億劫そうに降参の意を告げた。

「だから、いつまでそれを引っ張るのよ!?」

 イオルは肩を怒らて、嫌がらせまじりに夫に抱きついた。

 すぐさま「重い」と文句が飛んできて、イオルはなおさら体重をかける。

 どうせこの男に敵わないであろうことは、とっくの昔に思い知らされている。

 だから、本格的に憤ることはやめて、代わりに宵闇に想いを馳せた。

 もしかすると今夜もどこかで歌っているかもしれない一人の歌姫。

 あのの場合は、これから一体どうするのかしらねぇ、と。

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