第87話 琥珀の破片【6】

 停車場から屋内に入り、随分歩いてようやく、フィシュアは大扉の手前で足を止めた。

 テトはぐるりと辺りを見渡す。

 ここまで来る間、目につく場所や物の説明をフィシュアが時折挟んでくれてはいたものの、ひたすら後をついてきたテトには、ここがどこかどころか、正直どの道をどう辿ってきたのかすら既に怪しかった。

 足を止めた廊下の先も、まだずっと奥まで続いているようで果てがしれない。

 番兵によって両方向に開かれた大扉の傍近くには、さっき会った侍従のファッテが立っていた。わずかに細まった水色の双眸が眼鏡の奥で光ったように見え、テトはぎこちなく笑い返す。

 重厚な扉の表面には、動植物の浮彫りが鮮やかに施されていた。

 扉の奥に見える広間を支える丸柱にも、天井にも、豪華な装飾が施されている。白亜の石床だけが飾り気ががなく、代わりに艶と磨き上げられた床は覗き込めば顔が映りそうだった。

 そこはかとない居心地の悪さに、テトはすぐ傍にあったシェラートの手首をすがり、握った。

 フィシュアの方へ首を巡らせれば、彼女はファッテと二、三言葉を交わしている。付き添う護衛官のロシュも、堂に入って見えた。

 彼らの持つ雰囲気は、明らかにこの場に立ち慣れたものであり違和感がない。

「フィシュアって本当にお姫様だったんだね……」

 自分でも気づかないほどの寂寥と共に、テトはシェラートに呟いた。

 フィシュアから聞いて皇女だと理解したはずなのに、頭のどこかではまだ半信半疑だったことを思い知らされる。

 それでも、この場でのフィシュアの立ち振る舞いを目の当たりにすると、今では信じない方が難しかった。

 押し黙っていると、手首に添えていた手を繋ぎ直され、テトはシェラートを見あげる。

「ああっと……そうだ。テトとシェラートはどうしよっか?」

 慌てたように振り返ったフィシュアが近づいてきて、テトは目を瞬かせた。

「一応、滞在許可をとるし、二人の顔を見せておいた方がいいかなって思っていたんだけど、休む暇がなかったものね。もし疲れているのなら近くに控えの場があるから、そこで待っておく? 話も手短に終わるはずだから、すぐに合流できると思う。許可の方は、私が話をつけちゃえばいいだけだし」

「……お前、あれだけ言って許可はとっていなかったのか?」

「だって下りるだろうことは、わかっているもの」

 いつもの調子であっさり言ってみせるフィシュアに、テトはほっとした気分になる。シェラートを掴んでいた手がつい緩み、翡翠色の目と視線があった先でテトはたまらず強張っていた口元を緩ませた。

「……何、二人とも?」

 フィシュアが不可解そうに眉をひそめる。

「別に何でもないよな、テト」

「うん。フィシュアはフィシュアだねってこと」

 向けられる表情も、かけられる言葉も、これまでと何ら変わりはないことに安堵する。

 どうやらシェラートも少なからず思うところがあったらしいことを知って、テトは面はゆい気持ちを誤魔化すように笑った。

「けど、こうなると、やっぱり姫には見えなくなるな」

「そうだねぇ。フィシュアはフィシュアでしかないからね」

「だから、いったい何なのよ……」

 一人取り残されたフィシュアが、訳がわからないと言いたげに、むくれる。


「フィシュア。構わないから、そこの客人も連れておいでなさいな」


 謁見の間の内から届いたのは、笑いを含んだ声だった。

 そう大きくはないものの、朗と響いた存在感のある声に従い、フィシュアはテトとシェラートに改めて目を配らせる。

 二人が同時に頷いたのを見て、フィシュアは彼らと共に広間の内へ足を踏み入れた。

 正面奥に立ち並ぶ二脚の椅子の一方に、皇太子妃はゆるりと腰掛けていた。肘掛けに頬杖をつき、彼女は壇上から一行を見下ろす。

 皇太子妃の前まで進み出たフィシュアは、静かに片膝をついた。

「仰せにより五番目の姫フィストリア、只今、つかまつりました、皇太子妃殿下」

 石床に膝をつき顔を伏せたフィシュアとロシュに対し、シェラートはその場で立ちどまりはしたものの動かなかった。テトはどうすればよいのか迷いながら、シェラートの隣で立ち尽くす。

 シェラートと手を繋いだまま、テトはおずおずと皇太子妃を見上げた。

 薄茶の髪を右肩から胸元へ緩やかに流している皇太子妃は、表情を変えぬまま顎を動かし、フィシュアたちの後方に立つテトとシェラートに目を向けた。紺碧の双眸と目があった瞬間、テトは逃げるように視線を落とした。

 金糸の刺繍が施された薄紅の袖からはフィシュアとは違う日に焼けていない白い手が覗く。足元を覆い隠す裾は幾重にも重なり、ふわふわと柔らかそうに白亜の石段にこすれていた。

「フィシュア。堅苦しい挨拶はいいわ。せっかくうるさい奴らは追い出したんだから顔を上げなさい」

 皇太子妃は不機嫌もあらわに秀麗な眉をついと寄せる。

「久しぶりに会うのよ。もっとちゃんと話をしたいじゃないの」

「はい、イオル義姉様。お久しぶりです」

 フィシュアは親しげに笑みを浮かべた。皇太子妃は、満足そうに頷く。

「今回は少しばかり遅かったわね」

「イオル義姉様は相変わらずオギハ兄様と仲がよろしいようで」

「私がここにいることを言っているのなら、そうでもないからね?」

 皇太子妃は不服そうに花色の唇を尖らせた。

「要はていよく追い出されたの。いつもあまり構ってくれやしないんだもの。今日もそれはもう多忙で多忙で仕方がないらしい皇太子殿下の代わりにここに座らされているんだから。久しぶりなのに出迎えが私一人で悪かったわね」

「いいえ」

「それで、フィシュア。ファッテから聞いたわよ。後ろにいるのがシェラートとテトラン? 手紙にあった魔人ジンとその契約者ね」

 つと皇太子妃の紺碧の双眸が細められた。フィシュアとは色を異にする瞳が少年と黒髪の魔人ジンに留め置かれる。

 吟味するようことさら乗り出された身体の動きにあわせて、右肩から流されている薄茶の長い髪がさらりと音を立てて揺れた。

 イオル義姉様、とフィシュアは彼女の視線を、自分の元へと引き寄せる。

「……テトはすでにシェラートの契約者から外れております。元より二人を巻き込むつもりは毛頭ありませんよ」

「あら」

 皇太子妃は紺碧の瞳を丸くさせた。

 あからさまな仕草にはけれど、驚きが微塵も混ざっていない。さも無邪気そうに、皇太子妃は目の奥を輝かせた。

「情でも移ったの、フィシュア?」

「二人には関係のないことです。私たちのみで片をつけるべきもののはず。そのために連れてきたわけではありません。あくまで私の客人です。皇都に招いたのが私自身である以上、不自由なく皇都で暮らせるよう、基盤が整うまで、皇宮での滞在の許可をいただきたく、ここへ連れて来ただけです」

「まあ、いいんだけどね?」

 皇太子妃は椅子の背に身体を沈め、笑みを深めた。ふぅん、と愉快気に向けられる視線を、フィシュアは黙って受け流す。

「いいわ。オギハには私から話を通しておく」

「ありがとうございます」

「ファッテ、客人のための部屋の用意を。できるだけフィシュアの近くの部屋にしてあげるといいわ」

 皇太子妃の命を受け、侍従は深く頭を垂れた。

「歓迎しましょう、シェラート殿に、テトラン殿? 私の名はイオル。フィシュアの義姉で……ああ、従姉妹にもあたるわね。まあ、それはいいとして、皇宮内は自由にしてくれて構わないわ。五番目の姫フィストリアだもの。それ相応の待遇で迎え入れないとね。どうせ部屋は余っているのだし、気にせずゆっくり滞在するといい」

 皇太子妃の声かけに、返事はなかった。

 ただフィシュアの奥で、すでに契約者ではないはずの傍らの少年を自らの影に入れ、憮然と睨んでくる魔人ジンだという男の不躾さを、イオルは単純に興味深く感じる。

「フィシュア。もう退出してもいいわ。積もる話は後でまたゆっくり。今は旅の埃を落としなさい。今日はゆっくり休むといい」

「はい。ありがとうございます」

 フィシュアは微笑んで立ちあがる。型通りに一度礼をとったフィシュアが背を向け、佇む二人の方へ歩み寄る。

 立ち並んだ奇妙な三人組を、イオルは肘掛に凭れかかって見やった。

「フィシュア」

 呼んだ名に、フィシュアが振り返り、少しばかり首を傾げる。

「サラディエ候が来ているよ。数日かかると伝えてはいたんだけどね。今日はいいけど、待っているようだから明日にでも顔を出してやりなさい」

「サラディエ候ですか……まあ、彼ならましな方か」

 思案するフィシュアの姿に、イオルはくすくすと笑声をたてた。

「財力と権力さえあればいいと言っていたはずでしょう?」

「そうですね。もう少しあると安心なのですが」

 艶やかに笑んだフィシュアの表情は、以前とさほど変わらない。

 意識の根幹を変えるのはひどく骨の折れること。オギハも苦労する、とイオルは頭の片隅で、弟妹にだけはやたらと甘い夫を思う。

 行きなさい、と皇太子妃は手を振るう。それを受け、今度こそ退出していった三人を見送り、イオルは口の端を綻ばせた。

「まあ、いいんだけどね。今はまだその時ではないそうだし」

 耳聡いロシュが出口近くで足を止め、叩頭こうとうしてくる。

 謁見の間に残された侍従は、皇太子妃が零した意味深な呟きに沈黙を保った。

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