第88話 琥珀の破片【7】

「なんだ、さっきの」

 謁見の間を振り返り、シェラートは不快感も露わに言った。

 フィシュアはちらとシェラートに視線をやりながら、テトに手を差し出す。すぐに指先に絡められたまだ小さな手は温かく、いつもよりも汗ばんでいた。

 ほぅ、と緊張を吐き切るように息をついたテトの姿に、フィシュアは堪らず微笑む。

 テトの手を引き歩きながら、フィシュアは肩越しにロシュと視線を交わす。進行方向とは反対側に去るロシュを見送って、フィシュアはテトの向こうでまだ顔をしかめているシェラートへ声をかけた。

「気に障ったのなら謝るわ。あなたたちのこと、先に報告をあげたのは私なの」

 虚をつかれたように二人が同時にこちらを見る。意味を取りかねたらしい戸惑いの視線を受け止めて、フィシュアは首をすくめた。

魔人ジンにも、その契約者に会うのも、初めてだったから。魔人ジンは契約者に逆らわないとは聞いていたけど、砂漠で出会ったあなたたちはまさしくその通りだったし……あなたたちに限らず、そういう存在が今後、何かしらこの国に影響を与えないとも言えなかった。そう会える存在じゃないもの。事例はあるだけいい」

 シェラートが、と言葉を切ったフィシュアは、真剣な面持ちで耳を傾けてくるテトを気遣い、声を落とす。

「エルーカ村でつくってくれた薬も、見つけてくれた病の原因も、まだ誰も知らないものだったから、どういう経緯でできたものか、どういう効能があったのか、伝える必要があった。こちらでも検証してもらって、広げてもらう必要もあった」

「うん」

「テトとシェラートに不安を感じているわけではないの。それはあなたたちと一緒にいた私が一番わかっているつもり」

 出会って間もないうちに——二人のことを見極めるよりも先に、報告をあげてしまったのは早まったかもしれないと思うことはある、が。

 そうでなくとも関わった以上いずれかの時点で、自分は報告をあげていたとも思い直す。隠さなかったから助力を得られた面もあった。

「だからイオル義姉様……皇太子妃の立場として、あなたたちを気にかけないわけにはいかない。シェラートだって自覚していないわけではないでしょう? 魔人ジンの力は強大。不安要素であると同時に、利用価値も大きい。この大陸にいる者は誰だって、遭遇したことがなくても、魔人ジンが実在すること自体は知識として知っている。国としては魔人ジンを擁しているだけで、国内から見ても、他国から見ても、国政には有利に働く。

 契約者がいるのなら、なおさら操りやすい。魔人ジンは契約者に逆らえないからね。契約者さえ押さえてしまえばいい。契約者がテトみたいな子だったら余計、やりようはいくらでもある」

「僕みたいな?」

「テトは優しいからね。それに、ほら。テトなら、もう捕まえちゃったわ」

 フィシュアはからかうように繋いだ手をテトの目の前にかざした。テトの黒い瞳が驚きを孕む。その向こうで、シェラートが呆れた顔をしていた。

「そうするつもりなの?」

「さぁ、どうかしら?」

「フィシュアは、しないよ。でしょう?」

 テトの表情はいつもよりもぎこちなく、自分に言い聞かせるようでもあった。それでも決然と響いた声に疑いの色は含まれず、言い切ってくれたテトに、フィシュアは思わず笑みを零す。

「ありがとう」

 迷わず寄せられた信頼を噛み締めて、フィシュアはテトと繋いだ手をゆるりと揺らした。

「大丈夫よ、心配しなくても。テトはシェラートの契約者から外れているでしょう? だから今はもうテトがそんな風に扱われることはないはず。もしテトが誰かに無理に何かを言わされたとしても、シェラートだってどれがテトの本当の言葉か考えて、選べる。テトのことを第一に考えてあげることができる。だから、二人の契約が終わっていてよかった」

 続いてたらさすがに誘えなかったしね、とフィシュアは、まじまじと見つめてくるテトに明かした。

「私がテトにここへ来てほしかったのは、テトのお母様が安心できるくらいテトが笑顔で暮らせるよう手伝いがしたかったからだもの。テトが大変な目にあうのは許せないわ」

「……シェラートのことは、フィシュアの老師せんせいがここにいるから? フィシュアは、シェラートが人間に戻る方法も探すんだよね?」

 テトは声をひそめて聞いた。

 思いがけない質問に息をのんで、フィシュアはシェラートを見た。同様に驚いているシェラートが、話していない、と首を横に振るう。

「僕、聞いていたんだ。昨日二人が話していたのを、メイリィと一緒に、階段で。……フィシュアが帰ってきたのに気づいたから」

 いつ言い出そうか迷っていたんだけど、とテトはどこか後ろめたそうに言った。ならばフィシュアがシェラートの過去を聞いたあの時に、テトも同じように居合わせたのだ。

 そう、とフィシュアは苦笑する。

「気づかなかったわね?」

「ああ、気づかなかった。悪かったな。あれは、出にくかったよな」

 気を遣わせたな、と空いている手で慰めるようにテトの頭をぽんぽんと叩いたシェラートに、テトは「ううん」とかぶりを振った。

 先ほどの問いの答えを求めるようにテトが見上げてくる。そうね、とフィシュアは頷き返した。

「私は、シェラートが人間に戻る方法を見つけたいって思っている。見つかったとして、その後どうするかはシェラート次第だけど。シェラートがこの先の生き方を自由に選択できるよう、見つけてあげたい」

「もし人間に戻ったら……そうしたらシェラートはどうなるの?」

「さぁ、どうかしら?」

 問い返すと、テトはぱちくりと目を瞬かせた。手を繋いでいるシェラートを見つめ、けれど結局答えは出なかったらしい。

 自分の話題であるせいか気まずそうにしているシェラートの隣で、テトは眉間を寄せて真剣に考えはじめる。

 方法に心当たりがない今、それはまだ途方もない問いだ。果てがないはずの思考を中断させるように、フィシュアはテトの手を揺すった。

「悪いけど、私にもわからないわ。でもきっと、テトがおじいさんになるまでには何かしら答えが出ているように努力する」

 僕がおじいさん、とテトは実感なさそうに呟く。

 しばらく視線を床に落とし考えをめぐらせていたテトは、顔をあげるとシェラートの名を呼んだ。

「僕も、探すから。見つけたら、シェラートに知らせるから。だからこの先もまだ一緒にいてね。ちゃんと知らせに行けるところにいて。勝手にいなくなったらダメだからね」

 フィシュアの位置からは柔らかそうな栗色の後頭部だけしか見えず、いったいテトがどんな顔をしてそう言ったのかわからなかった。

 向かい合わせのシェラートが瞠目し、形容しがたい顔になる。

 いつからそう感じていたのか、テトが口にしたのは、そう遠くはない未来の別れの予感と確かな不安だ。

 哀切と当惑の入り混じる影を翡翠色の双眸の奥で確かに揺らしながら、テトへ明確な約束を返してやれずにいるシェラートに、フィシュアは「そうよ」と声をかけた。少しでもテトの不安が軽くなるよう努めて明るく擁護する。

「自分のことでしょう? テトがこう言ってくれているんだから、シェラートだって諦めてばっかりじゃなく、向き合いなさい」

「……別に何も考えなかったわけじゃない、が」

 シェラートが歯切れ悪く言い返してくる。

「そう、気負わないでくれていい。ちゃんと……自分でも考えてみるから」

 ありがとうな、とシェラートは溜息を吐くようにテトに礼を口にした。

 うん、と小さく頷いたテトに、シェラートはあからさまに安堵したようだった。

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