第86話 琥珀の破片【5】
「じゃあ、フィシュアってのは偽名なのか?」
シェラートが聞けば、フィシュアは軽く首を横に振った。
目線で侍従のファッテを先に行かせ、立ち上がったフィシュアは二人に向き直る。
「いいえ。フィシュアはれっきとした私の本名。前に言った通り兄姉が多すぎて、もう名前が思いつかなかったらしいの。フィストリアは名前ではなく、五番目に生まれた姫の総称ね。もう名前もフィストリアでいいんじゃないかって言い出した母様を、周りのみんながややこしくなるからやめてくれって止めたらしいわ」
「なら、フィシュアは本当の本当の本当の本当の本当にっ! この国のお姫様なの!?」
「そんなに疑わなくても……」
どこまでも念入りに確認するテトの勢いに気圧され、フィシュアが複雑そうな顔をする。
「けど、どう考えたって姫って柄じゃないだろう」
テト同様、目の前の人物がダランズール帝国の第五皇女であるとは信じきれないシェラートは、フィシュアを頭のてっぺんから爪先まで
膝丈の生成りの上衣は、腰部分を帯紐で結んでいるほか飾り気はない。同じつくりの脚衣も乗馬を考えてのことだろう。動きやすさは重視しされているが、特段こだわりがあるようには見えなかった。旅を終えたばかりの今は、どことなく埃っぽささえ否めない。
引き立てるものと言えば、宵の歌姫の証であるラピスラズリの首飾りと、知り合いの船乗りから貰ったという薄桃の磨りガラスの腕飾りだけだ。
正直、侍従のファッテどころか、ここに来る前に寄った菓子店の店員たちのほうが、フィシュアよりもよほど小綺麗な格好をしていた。
「失礼ね。ほら、“宵の歌姫”も“宵闇の姫”も“姫”がついてたじゃない。どちらも“姫”がその役割を担っているから“姫”がついてるのよ」
「そんなわけあるか。なら、警備隊の奴らもみんなフィシュアが姫だって知っているのか?」
「いや、それは、皇都所属の一部しか知らない、けど……」
「ほらみろ。適当なことばっかり言うなよ。大体どうしてこの国の姫が普通に外を旅してるんだ。姫が歌姫なんておかしいだろう」
シェラートは内心呆れながら言い返した。
「逆よ」
ひた、とフィシュアが、シェラートを見据える。
「
いつになく静謐さを孕む藍の双眸に射竦められ、シェラートは身じろぐ。フィシュアの背後に控えるロシュに目をやれば、彼は曖昧に微笑し肯定を示してきた。
だからこそ代わりはいない、と語る護衛官の表情に、シェラートは改めてフィシュアを見下ろす。
「——と、いうことで、信じていただけたかしら?」
「……別に信じなかったわけじゃないが、ややこしいな」
「今、思いっきり疑っていたじゃない」
フィシュアは不服そうに口を引き結んだ。
「だってなぁ、テト?」
「うん。フィシュアとは、ずっと一緒に旅していたんだもん。お姫様だったなんて急に言われたらびっくりするよ」
「菓子店じゃ、少しでも多くまけてもらおうとするしな。どう考えたって一国の姫がすることじゃないだろう」
テトとシェラートの言い分に、ロシュは主人に呆れた目を向けた。
「フィシュア様……そんなこと、なさってたんですか」
「だって、オクリアの菓子だぞ?」
「確かにあそこの菓子はおいしいですが。そんなことをなさらなくても、お望みならいくらでも取り寄せますよ」
「いい。ロシュに頼むと際限がないし、お前たちは自分の財布から出すだろう。いい加減、自分たちのことに優先して使え。私も、私が扱えるものは他にまわせるよう節約しておきたい。オクリアの菓子はたまに口にできる贅沢だからこそ、意味があっていいんだ」
「ほら、けちくさい」
「フィシュア様が、そんなだから姫らしくないなどと思われるのですよ」
「うるさい!」
「でも、それがフィシュアのいいところだよね」
テトはフィシュアを見上げて、にっこりと笑った。
「フィシュアがそうだったから、仲よくなれた」
でしょ、と手を引かれ、フィシュアの表情がぱっと華やぐ。
「やっぱりわかってくれるのはテトだけね! 大好きよ!」
フィシュアは両手を広げると、テトに抱きついた。
頬擦りするフィシュアに、テトは「苦しい」と訴える。嬉しそうでありながらも、出会って間もないロシュがいる手前か、いつになく気恥ずかしそうなテトが、シェラートを見上げ助けを求めてくる。
見かねたシェラートは、フィシュアの腕の中から、テトを取り上げ救出することにした。
シェラートの影で、解放されたテトが大きく息をする。
「絞めすぎだ」
「ああっと、ごめんね、テト!」
慌てて詫びるフィシュアに、シェラートの後ろから顔を出したテトは「大丈夫」と息を整え言った。
「でも、そうだとしたら、フィシュアはこないだ話してくれた御伽話の
「そうか、そういうことになるのか」
シェラートはテトの疑問に同調し、フィシュアを見やった。
「ええ、そうね。
「あのアジカと親戚か……」
意図せず沸き起こった感慨と共にシェラートは呟く。フィシュアはじわりと眉を寄せた。
「ちょっと、シェラート。絶世の美女って言われていた
「まあ…………本当に似てないけどな」
「その絶妙な間が余計に腹立つわね……」
なおも睨みつけてくるフィシュアに、シェラートは苦笑した。
「強いて言うなら目の色だけは似てる気もしなくはないが……いや、でも、やっぱり、なんか違うな?」
指摘できさえすれば本当に微細な差のように思う。だが、そのわからぬ微細な差こそが二人の人物の違いを明確に決定づけている気がしてならなかった。
それが何であるのか探ろうと手を伸ばし、
「いきなり何」
「いや、なんだろうと思って」
「だから、何がよ」
「それがわからないから考えていたんだ」
ロシュは、なおも不満そうなフィシュアと、彼女が連れてきた二人との一連のやりとりの賑やかさに微笑しながら肩を竦めた。
「これでも現皇宮内では、フィシュア様が一番あなた方の仰る“お姫様”に近い愛らしさを持ってはいらっしゃるのですがね」
「ロシュ、言い方!」
「これでか……!?」
「ちょっと!」
フィシュアは、憤然とシェラートとロシュの二人を睨みつける。
もういい、と言いすてたフィシュアはむくれたまま、皇宮に続く道を大股で歩きはじめた。
「なら、中はどうなってるんだ」
フィシュアと同じか、それ以上の人物がいると思うだけで気が滅入った。
嘆息じみたシェラートのぼやきを拾ったロシュが「実際にご覧になってみればわかりますよ」と言い添えてくる。
「ご案内いたします」
先行くフィシュアの後に続きながら、ロシュはテトとシェラートを中へ促した。
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