第84話 琥珀の破片【3】

「聞いてはいましたが、実際に目にすると驚きますね」

 シェラートが二頭の馬を厩前に転移させると、ロシュは夏空に似た双眸をわずか大きくした。そのまま馬のすっきりとした鼻梁を確かめるように叩き撫でる。

 フィシュアよりもいくらか歳上らしいこの護衛官は、職務柄帯剣はしているものの、機動性を重視してか身につけている防具は最小限のようだった。辺りにいる警備隊の黒い制服に比べると随分と軽装に見えるそれは、どちらかというと旅まわりの隊商の護衛に近い。

 それでも近くにいる警備隊の隊員たちに、馬の世話と馬車の用意を言付ける様は慣れたものがあり、不思議と風格すらあった。

 旅の道中でフィシュアが警備隊に指示を出しているのは何度か目にしてきたし、つい今しがた二人のやりとりを見たものの、この男の上にあのフィシュアがあるじとして立っているというのは、いささか奇妙な感じがする。

「なあ、聞いてもいいか?」

「先程の話ですか?」

 ロシュに気負いなく返され、シェラートは虚をつかれた。気にしていらしたようなので、とロシュに続けられる。

「察しがいい」

「ある程度よくなければフィシュア様には仕えられません。あの方はすぐに隠そうとしますから」

「顔に出るけどな」

「そうですね。わかりやすいのが、唯一の救いです」

 とっくに諦めているのかロシュは嘆息するように微笑した。向かいながらでもよろしければ、とシェラートをいざない歩きはじめる。

「いいのか?」

 宣言通り厩から離れはじめたロシュに続いてシェラートが問えば、ロシュは意外そうな顔をした。

「聞きたいと仰ったのは、あなたですよ、シェラート殿」

 ことさらゆったりと進む歩調には本当に拒絶の意思は感じられない。むしろ促すように傾けられた視線に、シェラートは言葉を探した。

 声をかけたものの、いざとなると何と言い出せばよいのかわからなくなる。考えあぐねているのを見かねただろう。ロシュは「すみません」と軽やかに笑って答えを明かした。

「七歳ですよ。フィシュア様が宵の歌姫を継がれたのは」

「テトより幼い」

 知りたかったそのものを言い当てられたことよりもむしろ、その年齢に驚きシェラートは瞠目した。

 十の時にはもう既に宵の歌姫としての任に就いていたことは知っていた。

 護衛官が——目の前にいるこの男が死にかけたのがその頃だとフィシュアが前に吐露していたから、それより以前に彼女の役割ははじまっていたのだろうと漠然と理解してはいたのだ。

 ただいざその年齢を突きつけられると、ひたすら幼なすぎると感じてしまう。

「お前は?」

「私も、ですか? 十五でしたね」

 それすら若すぎる、とシェラートはわかりやすく眉根を寄せた。

 ロシュは苦笑するように眦を緩める。

「先代が早くにお亡くなりになられたので。そう珍しいことでもないのですよ。五歳で継いだ方もいらっしゃると記録には残っています」

「けど、フィシュアには他にも四人の姉がいただろう?」

 五番目に生まれた女児だからフィシュアなのだと、彼女自身が言っていた。なのに、なぜ選ばれたのだろうと、シェラートは疑問に思う。

 もしフィシュアが宵の歌姫を代々つとめる家に生まれつき、その中でも特に歌に秀でていたのだとしても、旅を強制するには何かと不都合が生じる年齢だからだ。

 残念ながら、とロシュはわずか声を落とす。

「フィシュア様にフィシュア様の役目があるように、他の方々には他の方々の役目がございますので」

 あの方に代われる者もいないのです、とシェラートの問いを真っ向から否定するロシュの言はどこか透徹な響きを含んでいた。

「何か旅の途中で不都合がございましたか?」

「不都合というわけでは、ないんだけどな……」

 シェラートは言い淀んだ口元を手で覆う。足元の感触が変わったのに気付いて目線を下向ければ、いつの間に元来た石畳の道に戻ってきていた。このまま進めば、いずれテトたちが待つ場所に辿り着く。

「フィシュアが」

「はい」

「ここに来る直前の村で、メイリィに——生贄の巫女の少女にひどく心を寄せていた。ちょうどテトと同じ頃合いだ」

「先ほど仰っていた?」

「そうだ」

「なるほど」

 そうでしたか、と、ロシュは落ち着いた声で応じた。

「似ていましたか」

「似ていたかどうか、俺にはわからないけどな。テトが助けたいと言い出したのも、もちろんあったと思う。はじめは確かに助けるのは難しいと言っていたから。だが……」

 こちらが気付いてしまうほど、自分に似ているとフィシュアが強く感じていたのなら、幼いうちから宵の歌姫を継がざるをえなかった彼女のこれまでの道筋も辛いことが多かったろうと思う。まだずっと旅をすると言っていた彼女が、今もその道にいるのなら、なおさら。

「フィシュアのあれは、危うい。ああまでして誰かを助ける必要はないだろう」

 ままならぬ境遇にある者に、できうる限り手を伸ばそうとするフィシュアのさがは、伸ばされる側にしてみればひたすら優しく、尊ぶべきたぐいのものかもしれない。だがそれは、いつだってフィシュア自身を担保とした綱渡りだ。

魔人ジンのあなたから見ても、そう見えますか」

「……あぁ。そうだな。傍で見ていると、怖くは、なる」

 認めて、手の内を覗き込むと、自身の影が暗く揺らめいていた。

 思い返すほど、間違っていたら死んでいたのだと、その危うさが忍び寄ってくる。あの時もフィシュアの言う通りに手を貸したつもりで、その実、思いがけず重石をつけられたフィシュアは知らぬうちに水の中で溺れかけた。

 ふいに横を行く足が止まる。シェラートが顔を上げると、ロシュが穏やかに苦笑していた。

「あなた、普通ですね」

 失礼、とロシュは前置き、一度考えた素振りを見せたあと「いえ、悪い意味ではなく」とさらに付け加えてくる。

「フィシュア様のことを気にかけていただいたこと、ここまで無事に送り届けてくださったこと、改めてお礼申しあげます。フィシュア様も随分と頼もしい味方を引き入れたものです」

 それもお二人も、とロシュは、シェラートに対して言う。

「大丈夫です、と純粋に心配してくださったあなたに安易に言ってさしあげることはできませんが。フィシュア様が助けを待つ者に目を向けることは、あの方が見つけてしまった役目の意義の一つです。それでも、叶わないことの方が多かった。そのことに負い目を抱くことも多い。

 その巫女の少女のことを、助けるのが難しいと仰っていたのなら、恐らく普段であれば手が出せない案件だったはず」

 手を貸したのでしょう、あなたが、とロシュは見透かし指摘する。

「危うかろうと、諦めないですんだことは、フィシュア様にとっては救いだったはず。もしもあの頃に似ていたのなら、余計に」

 だからこれ以上あなたが気にやむ必要はない、とロシュは言外に告げているようだった。

 あぁ、とシェラートは唐突に理解して顔を顰めた。晴れやかに笑うロシュを前にして、溜息をつく。空を映す眼差しは、澄み切っているようでいて底が知れない。

「……お前もフィシュアと同じことをしていそうだな」

「これでも半分以上は止めてはきたんですよ。それでもあの方、放っておくと一人で勝手に駆けて行こうとするでしょう?」

「ほどほどにしておけ。ずっと後悔しているぞ、あれは。お前がひどい怪我をしたこと」

「存じております。……あぁ、なるほど。お聞きになっていたからフィシュア様の過去を気にしていらしたのですね」

 本当に人のよい、とロシュはことのほか困ったように視線を道の向こうへ逸らした。

 つられ辿った道の先から、テトが一人こちらに向かって駆けてくる。

 思ったよりも時間が経っていたのだろう。呼んでくると請け負ったテトが、制止よりも早く飛び出してきたらしかった。

 正直、とロシュは、こちらへ手を振り走ってくるテトに目を留めたまま口を開いた。

「フィシュア様がお二人を皇都までつれてくるとは思っていませんでした」

 どこか歯切れの悪い物言いを訝しむシェラートの目の前で、向き直ったロシュは破顔し恭しく礼をとる。

「あなた方が平らかに過ごせるよう微力ながらお手伝いさせていただきます。何かございましたら、なんなりとお申し付けください」

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