第72話 ヴィエッダ【1】
「ちょっと待ってシェラート! ヴィエッダ、さん……だっけ? どこにいるのか場所を聞いていないけど大丈夫なの?」
呼び声にシェラートは足を止めて振り返った。追いついてきたフィシュアは困惑を隠さぬまま彼を見上げる。
「ああ、ヴィエッダの居場所ならわかる。だから転移もできる。行きたくはないけどな……」
気を抜けばまた漏れそうになる嘆息をシェラートは何とか押し殺した。
フィシュアは推し量るように、じっとシェラートの顔を見つめる。
「ヴィエッダさんって女の人よね。
「
そっか、と頷き咀嚼しているフィシュアの口元に笑みが浮かびはじめる。それが、いつか見たものと重なってシェラートは眉をひそめた。
「フィシュア、嬉しそうだな……」
いや楽しそうと言った方が的確だったかもしれない。「え?」と呟きながら向けられた顔には、にやにやと意地悪そうな笑みが張りついていた。
「だって私、
一度言葉を切ったフィシュアの藍の瞳が好奇心できらりと輝いたようにシェラートは見えた。
薄気味悪い笑みを湛えたまま、案の定フィシュアはこの間テトに対して言っていたのと似た内容を口にする。
「シェラート、テトの村でも言っていたでしょう? できればもう会いたくないって。それって同じ人でしょう? ヴィエッダさんのことだったのよね? 一体何があったの? もしかして元恋人?」
「フィシュア……その笑いやめろ。気持ち悪い」
「失礼な!」
ムッとしながらも好奇の色を失わないフィシュアの追及に、思わず上を仰げば飲みこんだはずの溜息が零れた。
「何? そんなに嫌いなの?」
「嫌いというか、苦手だな」
「苦手ねぇー……」
繰り返しながらも、まだ疑っているらしい。じろじろと楽しげに見つめてくるフィシュアを、シェラートは胡乱げに見返した。
「まあ、今回は仕方がない。本当にあのバカのせいで……」
「ああ、あれはね……」
苦笑いを浮かべるフィシュアに、シェラートは手を伸ばす。
不意に目の前に差し出された手に、フィシュアは訝しそうに首を傾げ、シェラートを見上げる。
「手」
「ああ、そっか。移動するのね。転移なら転移って、ちゃんと説明してくれないと“手”だけじゃわからないでしょう?」
端的な言葉に文句を言いながら、フィシュアは手をシェラートの手に重ねる。
瞬間、景色は様変わりした。
さわさわと鳴る葉擦れと小鳥のさえずりが、木漏れ日に揺られ静かに木霊する。見渡す限り深い緑が続く森に、人が住んでいる気配はない。
転移してすぐシェラートは森の中を慣れた足取りで進んだ。フィシュアも追いかけるように後に続く。
うっそうと生い茂る木々の下をいくらか通り抜けた先、二人は崖の斜面にぽっかりと口を開いた洞窟に辿り着いた。
「ここ?」
「ああ」
答えてそのまま中に入ってしまったシェラートに続いて、フィシュアも洞窟に足を踏み入れた。
そういえばヘダールの住処も岩の中に作られた場所だった、とフィシュアは辺りを囲む焦茶の岩壁を興味深く見渡す。
「ねえ、シェラート。
思った以上に声が岩壁に反響して、フィシュアは声を落とした。
前を行くシェラートが振り返らないまま口を開く。
「いや、別にそういうわけじゃない。どちらかというと街に住んでる奴の方が多いんじゃないか?」
「ああ、そういえば前にそんなことも言っていたわね……」
普通に街を歩いていると聞いて、ひどく驚いたことをフィシュアは思い出す。
「魔法が使えるって言っても街にいた方が色々と便利だしな。食料やら日用品が揃っているだろう?」
「なんだか意外と所帯じみているのね……」
「まあ、だからヴィエッダやヘダールなんかは、かなり変わってるってことだ」
「おや、シェラ坊。やっと来たと思ったら随分なこと言ってくれるじゃない」
艶を含んだ女の声がすぐ真横から響いて、フィシュアは驚き足を止めた。シェラートが隣で諦めたように息をつく。
ごつごつとした岩壁だったはずの場所に、いつの間にか薄い紗幕が幾重にも重なって降りていた。それを真白な手がさらりと流し上げる。
続いて顔を出した女の存在感にフィシュアは圧倒される。それでも一つの確信の下、気づけば問いが口をついて出ていた。
「ヴィエッダ……さん?」
「そう。初めまして、ね」
計算しつくされたかのような美しい所作で唇が弧を描く。色濃く引かれた紅は常人ならば派手すぎただろう。それが却って明らかに人間とは異なる
ゆるく結い上げられた髪からは幾筋かの亜麻色の線が首筋に落ちて流れる。
艶美さの中に威圧を宿す金の双眸に射られ、フィシュアは無意識の内に緊張で身体をこわばらせた。知らず詰まった息に、頭の隅が痺れだす。
「ヴィエッダ……あんまり威嚇するな」
シェラートは呆れ混じりに嘆息した。
腕を引いてフィシュアを自身の後ろに隠す。
間に割って入ってきたシェラートに視線を向けながら、ヴィエッダはころころと笑いだした。
「あら、別に威嚇なんてしていないのに。ただ品定めをしていただけよ。それで? シェラ坊」
ヴィエッダはシェラートの影に隠れてしまい、ほんのわずかしか見えなくなったフィシュアをちらと見やった。ふふ、と笑い、ヴィエッダはシェラートの肩口をしなやかな手で叩く。
「その娘がシェラ坊の愛しい娘かい?」
「は!?」
「いいよ。合格。なかなかかわいいわ。いつ来るか、いつ来るかって思っていたんだけど遅かったからねぇ。これでも一応心配はしていたんだよ。だって、ランジュールが死んでからもう百九十年ほど経つじゃないか」
ヴィエッダは形の整った笑みを刻んだまま、つっと目を細めた。顔先に詰め寄ってきたヴィエッダに、シェラートはのけぞる。
「それにしても……シェラ坊はやっぱりランジュールと似ているところがあるようだね。その娘、アジカの面影がある。ねえ、もう一度、よく顔を見せてくれないかい?」
「ちょっと、待て! ――というか、話を聞けよ!」
一歩踏み出したヴィエッダと同じ方へ、シェラートも動いた。回り込もうとするヴィエッダの行く手を遮り、押し留める。
「いい加減にしろ!」
「ああっ! ……と、わかったシェラ坊、ストップ」
両手を前に掲げて制止させながら、ヴィエッダは元の位置まで後退する。
「シェラ坊に魔法を使われちゃ困るからね。いくら私でも敵わない」
言いながらも、ヴィエッダはなおも名残り惜しそうにシェラートの後ろで揺れる薄茶の髪へと目を向ける。そのままシェラートの手に構成されかけていた魔法にもう一度目をやると不服そうに口を尖らせた。
「その娘が大切なのはわかるけどさぁ……別にいいじゃないか見るくらい。なにも危害を加えるわけじゃないんだし」
「だから話を聞けって言ってるだろう!? 大体フィシュアはそんなんじゃない。……これだから嫌だったんだよ、ヴィエッダのところに来るのは」
本題に入る前からどっとした疲れを感じているシェラートに対して、ヴィエッダは懲りた様子もなく続けた。
「あら、だって花嫁衣装着てるじゃない。結婚の報告にでも来たんじゃないのかい?」
「違うって……」
「つまらないねぇ」
「もう、いいから、話を聞いてくれ……」
ヴィエッダは「仕方がないねぇ」と肩を竦めると、シェラートの方を指差した。
「もう、いいと言えば、そっちもそろそろいいんじゃないかい? もう慣れた頃だろう? 元々私は手を出すつもりはないし、何なら誓ってあげてもいい」
シェラートは憮然としたまま、背後を振り返った。
「フィシュア、大丈夫そうか?」
「え、何が?」
状況が飲み込めていないらしいフィシュアの顔には困惑が映る。シェラートが掌でぽんぽんとフィシュアの頭頂を叩くと、彼女は眉根を寄せた。
「よさそうだな」
「ほら、シェラ坊。いいなら、早くなさいな」
「わかったから、黙ってくれ」
急かしてくるヴィエッダにうんざりしながらシェラートは身体をずらした。背後からようやく現れたフィシュアにヴィエッダが、ぱっと顔を明るくする。
「フィシュアちゃんか。……やっぱり、どことなくアジカに似てるわねぇ。かわいい、かわいい」
一定の距離を保ったまま腰を屈めて覗き込んでくるヴィエッダに、なんと返せばいいのかわからず、フィシュアはただ
目の前で品定めするように金色の光を帯びた双眸が細められる。その瞳には先程まであった異様な鋭さよりも、懐かしさの方が色濃く滲んでいた。
ヴィエッダは感慨を振り払うかのように、ふっと笑うと上体を起こした。揺れる紗幕を片手で開きあげる。
「いらっしゃいな。どうせ、面倒な話なんだろう? お茶の一杯くらいは出してあげるから、中で座って話を聞こうじゃないか」
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