第73話 ヴィエッダ【2】

 二人を部屋に招き入れたヴィエッダは、上機嫌で茶を淹れはじめた。

 豪奢な部屋の中、こぽこぽと静かな音をたて香気が湯気と共に立ち上る。

 硬すぎず、かといって柔らかすぎるわけでもない適度な弾力を持つ布張りの長椅子にシェラートと並んで腰かけながら、フィシュアは広い部屋の中を見渡した。

 調度品が多く並んでいるわけではないが、部屋にある物はどれも凝ったつくりをしていて煌びやかだ。

 ただどれも度が過ぎているわけではなく、不思議と互いにしっくりと馴染んでいる。艶美で洗練された雰囲気は、まさに目の前のヴィエッダそのものだった。

「さぁ、どうぞ」

 ヴィエッダは微笑みを浮かべ二人の前に茶を差し出す。

 受け取ったフィシュアは戸惑いながら、茶杯の内でヴィエッダの瞳と同じ金に輝く液体に目を落とした。

「大丈夫だ。毒は入ってない」

「……そんな失礼なこと……思っていないわよ」

 あくまで珍しい色だと思っただけだ。フィシュアが言い訳するように睨めつけると、隣に座るシェラートは「そうか」とだけ言って茶を飲んだ。

 フィシュアもシェラートにならって茶を口に運ぶ。

 途端、炒った苦味のある香ばしさが口の中でふわりと広がり、フィシュアは目を瞠った。見た目同様、初めて口にする類いの味だ。

 茶杯を置き一息ついたところで、シェラートに注視されていることに気付いたフィシュアは怪訝さに眉を寄せる。

「別に何ともないか?」

 シェラートの言葉にフィシュアはぎょっとした。もう一度、茶杯の中で煌く金色の茶を恐る恐る覗き込む。

「……何か入っていたの?」

「いや、何でもないならいいんだ」

「ちょっと! 気になるじゃない!」

 一体何が入っているのだ、とフィシュアは思いきり顔をしかめる。それを見て、向かいに座っていたヴィエッダがコロコロと笑いだした。

「何と言うか……シェラ坊は相変わらずだねぇ。大丈夫よ、フィシュアちゃん。別に何も入ってなんかいないから」

 ヴィエッダに妖艶な仕草で微笑まれ、フィシュアは苦笑いを浮かべながら曖昧に頷く。

 それでも“何も入っていない”というヴィエッダの言葉が真実であるのか確信が持てず、フィシュアはこれ以上茶を口にするのをやめておくことにした。

「それで、話っていうのは?」

 手ずから自身の茶杯に茶を注ぎ入れた後、ヴィエッダはゆったりと椅子の背に凭れ、しなやかに脚を組んだ。

 くつろぐように腰掛けているだけにもかかわらずヴィエッダは堂々とした異彩を放つ。その存在の大きさは、彼女を始点に部屋の空間が広がっているかのような錯覚さえ抱かせた。

 紅の引かれた唇に弧を描きながら、この部屋の女主人は茶杯を上げ話を促す。

「ヘダールという魔人ジンに浴場を貰ったんだろう? その水を返してほしいんだ」

「あぁ、あの子ねぇ。でも、私はあの浴場を結構気に入ってるんだよ。手放すのは惜しいわ」

「ですが、そのせいでペルソワーム河の水が消えて、雨も降らないんです。だから」

「知ってる」

 ヴィエッダは大して気にした風でもなく、あっさりそう言い放つと持っていた茶を口にした。

「知っていたよ? 浴場の湯となる水がペルソワーム河と雨雲から集められた水だってことはね。それに、常に湧き出ている浴場の湯がどこへ流れて行くのかも知っている。下流のペルソワーム河に別段変化はないだろう? だって、ペルソワーム河の水はいつもと違う場所を経由して流れているにすぎないんだからね」

 なぜ皇都から河の水量が減ったという報告が入らなかったのか。元より消えた水はペルソワーム河に戻されていたのだ。

 それなら皇都に流れ込むペルソワーム河の水量が変わるはずもない。ようやく把握できた怪奇の状況に、けれどもフィシュアは手放しで喜べるはずもなかった。

 知っていてなぜ放置していたのか。そのせいで引き起こされる問題は容易に想像できたはずである。

 フィシュアの頭に掠めた疑問を正確に読み取ったらしいヴィエッダは、なんともおもしろそうにフィシュアを見た。先と変わらずゆるやかに笑みを頬に刻む。

「だけど人間が困っていたとして、私には関係のないことだろう?」

 ヴィエッダは長卓の上に茶杯を置いた。手を離れた茶杯が受け皿に擦れて音を立てる。

「ひどい、と思ったかい?」

 黙り込んでしまったフィシュアに対して、ヴィエッダは続ける。

「そう思っていなかったとしても不愉快には感じているのかな? でもね、フィシュアちゃん。もし道で蟻の群れが右往左往しているからって、その原因となっている巣の上の石をわざわざどけてあげようとは思わないだろう? 違うかい?」

 フィシュアは自然と口を引き結んだ。ヴィエッダの言い分に対して無意識に湧き上がってきた不快感は、努めて意識してもなかなか拭い去ることができない類のものだ。

 相対するフィシュアの様子に気付いたヴィエッダは肩を竦める。

「まぁ、これは極論だけど。……そうねぇ、もっと言い方を変えるなら、名も顔も知らない魔神ジーニーが困っていると聞いたからってフィシュアちゃんは助けに行こうなんて思わないだろう? もしそれがシェラ坊のことだったら気にかけるかもしれない。けれど、他の魔人ジン魔神ジーニーだった場合なんかは気にもかけないはずだよ。へぇ、そんなことになっているの、で終わらない? 私の場合もそれと同じこと。親しい人間がいたなら助けようと思ったかもしれないけれど、今回の場合は興味の対象ですらないね」

 ヴィエッダの言っていることは正しいだろう。フィシュア自身、テトの母の死をどこか遠く——どちらかと言えばヴィエッダの言い分と同じように感じてしまった部分があった。それはテトの母に限ったことではない。

 だからこそ、フィシュアはヴィエッダに反論することができるはずもなかった。

 ヴィエッダは組んだ太腿に立て肘をつき手の腹に顎を載せると、まるで見極めるかのように金の双眸でフィシュアを見据えた。

 時間にしては数秒のことだったに違いない。

 フィシュアにとってはその時間が何倍にも感じられた。

 初めてヴィエッダと対峙した時のように緊張し、意思に反して身体が硬直しはじめていることにフィシュアは今度こそ気付いた。

「ヴィエッダ……」

 シェラートに諌められたヴィエッダが「わかってるって」と言いながら諸手をあげた。それでも視線だけはフィシュアからそらさぬまま、金の目を眇める。

「そうねぇ。私、フィシュアちゃんのこと割と好きだから要求を聞いてあげてもいいよ? でもその代わり、ちゃんとそれ相応の対価は払ってもらうからね」

「私にできることなら何でも」

「フィシュア」

 シェラートの苦味を含んだ制止に、フィシュアは反応を示さなかった。

 意志を秘めた藍の瞳に揺らぎはなく、一瞬の迷いも見せずすぐさま返ったフィシュアの答えに、ヴィエッダは満足そうに笑みを剥いて立ち上がる。

「それならフィシュアちゃん。行きましょうか?」

 手を差しのべてくるヴィエッダに促されて、フィシュアは無言で席を立った。

「おっと。シェラ坊は来ちゃだめだからね。フィシュアちゃんで着せかえして遊ぶんだから」

 あからさまに咎め睨んでくるシェラートに向かい、ヴィエッダはおかしそうに手を振った。

「大丈夫だよ、何もしない。ちょっと一緒に遊んでほしいだけだよ。フィシュアちゃんはかわいいから、きっとアジカの服がよく似合うと思うんだよねぇ。実はさっきから着せてみたくってうずうずしていたんだよ。残念なことに私にはどうしても似合わないからねぇ、アジカのは。それにね、これは代価なんだよ? フィシュアちゃんを貸してくれないって言うなら、水も返してあげたりはしないからね」

「うん。大丈夫よ、シェラート。ヴィエッダさんに何かするつもりがあったのなら、もうされていただろうし。いまだに何もされてないってことは大丈夫ってことでしょう?」

「お前なぁ……」

 ヴィエッダの隣でのんきに言い放ったフィシュアに向かって、シェラートは頭を抱えた。止めても無駄だということはシェラート自身これまでの経験上わかってはいる。

「まぁ、まぁ。シェラ坊はここでゆっくりくつろいでおきなさいな。自由にしてくれて構わないからね。はい、じゃあ行くよ、フィシュアちゃん!」

 ヴィエッダは鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌さでフィシュアの背を押し奥の扉へと向かう。

 扉の前でちらりとシェラートを振り返ったフィシュアが、ひらりと手を振った。その仕草がまるで宥めるようであったから、シェラートは憮然とする。

 ヴィエッダの言い分に納得したわけではないが、シェラートは黙って二人を見送ることにした。

 額を抑えたまま、諦めの息を吐く。

 二人が完全に奥の部屋に消えたのを見計らって、シェラートもまた席を立った。

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