第71話 水神【2】

 岩の内に入った時から気づかれてはいたのだろう。

 水神として祀られているその魔人ジンは、確かに人間が神と見紛いそうな怜悧で整った相貌をしていた。

 星影を落としたような白銀の髪は、ゆとりのある衣服に沿って腰元までさらりと流れる。髪色と同じ銀でありながら透明度の高い泉の蒼も孕む双眼は、冷ややかな侮蔑をシェラートに向けていた。

 そもそもシェラート自身、この魔人ジンによい印象は持ち合わせていない。だから今さら悪感情を向けられようと、多少の煩わしさはあっても気になりはしない。

 ただ、目の前にいる魔人ジンが紛れもなくテトを苦しませた張本人なのだとはっきり認識していくにつれ、どうしようもなく嫌悪感は募った。

 意識して抑えなければ渦巻き溢れ出しそうになる感情を、目を細めて睨むに留め押し込める。

「話がある。雨が降らなくなったのと、ペルソワーム河の水が消えた原因はお前だろう。それを元通りしてほしいんだ」

 シェラートの要求に、水神は一笑した。

「なぜお前ごときの望みを私が叶えてやらねばならん? さっさと出て行くがよい、汚らわしいものよ」

 シェラートはちらと岩の天井を仰いだ。

 侮蔑に対して不快感はないが、シェラートにとっても水神との会話は楽しいものではない。こちらとしても早く終わらせてしまいたいというのが本音だった。

「元通りにしてくれればこんな場所喜んで出て行く。さっさとしろ。こっちだって暇じゃない」

 シェラートは苛立ち紛れに吐き捨てた。

 目の前の魔人ジンが、信じられぬとでも言いたげに銀蒼のまなこを見開く。その仕草すら煩わしく、シェラートは舌打ちした。

「ちょっとシェラート」

 後ろから服を引っ張られて、シェラートは首を巡らせた。見れば、フィシュアは半ば呆れたように眉根を寄せている。

「あの魔人ジンが失礼なのは私だって充分わかっているけど、一応頼んでいる身でその言い方はいくら何でもひどいんじゃない?」

「けどなぁ……」

 シェラートは億劫そうに魔人ジンを見やった。

「あれじゃ、埒が明かないだろ……聞く耳を持つつもりは、まったくないようだし。ああー……それに、もう遅い」

「え、何!?」

 こっちは全然見えないのに、とフィシュアはシェラートの背の服をぎゅうぎゅと引っ張った。

 後ろ手にそれを払いながら、シェラートは同胞に向き直る。

 水神は目に見えて怒りはじめていた。

 銀糸の髪が溢れる魔力を孕んで宙に膨らみ揺らめいている。端正な部類の顔はものの見事に歪んでいた。

魔人ジンになったばかりの小僧の分際で、私にたてつく気か!」

「別にたてついているつもりはないが……そっちに要求を飲む気がないなら、無理矢理にでも飲んでもらおうか」

 シェラートは口の片端をあげる。

「お前は知っているんだろう? 俺がどうやって魔人ジンになったのか。なら俺の力が誰から与えられたものかも知っているはずだよな?」

 翡翠の双眸に射竦められた水神は思わず一歩後退した。

 しかし、怯んでしまったという事実に水神は忌々しげに舌打ちをすると、すぐに両手に魔力を込めはじめた。

 作り出される魔力はみるみるうちに水神の手の内で渦を巻きながら威力を増し、膨張していく。

「成り上がりの魔人ジンごときが私に敵うものか!!」

 放たれた魔力の渦はまっすぐにシェラートへ向かった。

 部屋中を覆い尽くす大きさとなった魔力の渦を前にして、シェラートは眉を動かす。煩わしさに片手で軽く払った次の瞬間、向かって来ていた強大な渦は跡形もなく消えた。

「終わりか?」

 何が起きたのかまるで理解できていない様子で呆然と立ち尽くしている水神をシェラートは一瞥する。

 何も答えない水神の無言を肯定ととり、シェラートは上げていた片手をそのまま下へ振り下ろした。途端、ベタンという派手な音を立てて水神が石床に張り付く。

「な、何をする!?」

 屈辱で顔を赤くしている水神に向かってシェラートは面倒な気持ちを隠さぬまま溜息を落とした。

「おとなしく聞いてくれそうにはないからな。だけど、これでお前は逃げられもしないだろう?」

 歩み寄ってくるシェラートに、水神は今度こそ恐怖で顔を青くさせた。

 水神の前に立ったシェラートは腕を組んで、床に張り付いている水の宮の主を見下ろす。

「こちらの要件を聞いてもらおうか」

 有無を許さぬ圧倒的強者を前に、水神は唇を噛み締めながらもただ震えるしかなかった。



 ようやく中の様子を見ることができたフィシュアが初めに目にしたのは顔を赤と青でまだらに染めあげ、床に這いつくばっている銀髪の魔人ジンの姿だった。

 岩で囲まれた室内は品よく調度品が整えられていて、意外にも人間の住まいとそう変わらない。だからこそ余計うつ伏せで悔しげに呻く魔人ジンがいる光景は異様に映った。

 水神らしき魔人ジンを足元に従えて立つシェラートを、フィシュアはちらと見る。

 正直何が起こったのかはっきりと理解できたわけではないが、空気を震わしていた凄まじい質量が一瞬でたち消えたのはフィシュアにもわかった。

「シェラートって強かったのね……」

 感心して呟いたフィシュアに、シェラートは首を横に振る。

「いや、ただこいつが弱すぎるだけだろう」

「何だと!? 大体私にはヘダールというれっきとした名前が——」

 抗議した水神は奇妙な声をあげて、再びビタンと床へ張りついた。

 まったく同じ瞬間にシェラートが手を動かしたのを見てしまったフィシュアは顔を引き攣らせる。

「いくらなんでもやりすぎじゃない? テトのことで怒っているのは、わかるけど」

 フィシュアは水神に近寄ると、膝をついた。

「大丈夫ですか? えっと……ヘダールさん」

「そんなのに敬称をつけなくてもいいだろ。あまり近づくな」

 なおも不機嫌そうな声を出すシェラートをフィシュアは見あげる。

「とりあえず起こしてあげたら? これだけ力の差があれば逃げ出したりはしないでしょう。これじゃ、ちゃんと話もできないじゃない」

 フィシュアが言えば、シェラートは憮然と口を引き結んだ。

 シェラートが片手を上げる。と、同時にヘダールは糸で引っ張られた操り人形のように不自然に身体を起こした。

「シェラート……」

 フィシュアが咎めると、シェラートはこれ見よがしに溜息を吐いた。

「わかったよ」

 ようやく戒めを解かれたヘダールは息をついた。冴えた泉の瞳でシェラートを睨みあげるも、結局反対に翡翠の双眸に一蹴されて慌てて床へと目をそらす。

 一連の流れを目の当たりにしたフィシュアは頬を引き攣らせた。

「あの、ヘダールさん。別に私たち何もしませんから。話を聞いてもらいたくて来たんです」

 とりなすようにフィシュアが言うと、ヘダールは顔をあげた。

 その時になって初めてフィシュアの存在に気づいたらしい。ヘダールにまじまじと凝視しされ、フィシュアはたじろぎそうになる。

「その声。お主、さっき泉で歌っていた者か?」

「ええ、そうだけど……」

 ヘダールはフィシュアの答えに満足したように頷いた。傍に座るフィシュアを上から下へと眺める。

「純白の衣ということは、お主は私に用意された花嫁だな? あれはそういう意味か」

「まあ、そういうことになっているわね……?」

 フィシュアは曖昧な笑みを浮かべた。

 だが、ヘダールは些細な機微には気付かなかったらしい。フィシュアの胸元に流れていた薄茶の髪を一房手に取るとさらりと指先で流した。

「うん、髪も美しいな。歌声も綺麗だ。よい。望み通り私の元に迎え入れてやろう」

「は!?」

 水神は秀麗な顔に笑みを刻む。銀蒼の双眸が、彼女を捕らえ泉そのものように深みを増した。

 絶句しているフィシュアの顎へ、水神は構わず手をかける。

「そいつも大概物好きだな……」

 諦観の滲む響きにフィシュアは、キッとシェラートを睨んだ。

「ちょっとシェラート! 反応が間違ってるでしょう、反応が! 呆れていないで少しは助けようとしなさいよね!?」

「助けるとしたらフィシュアじゃなくヘダールの方だろう。いい加減切っ先をどけてやれ。固まっている」

 フィシュアはいまだシェラートを睨み上げたまま、ヘダールの喉元にピタリとあてがっていた切っ先を外した。憤然としたまま、カチリと宝剣の刃先を鞘へ戻す。

 ヘダールに向き直ったフィシュアは、腹立ち紛れににこりと微笑んでみせた。

「あのね。いい? 私たちはただ河の水を戻してもらいたくて、話しあいに来たのよ」

 それ以外の意図はない、と言外に言えば、へダールはフィシュアを見上げ、はて、と首を傾げる。

 硬らせていた身体を解いたヘダールは、しばらくして一人納得したように頷くと、突然フィシュアの腕を掴んで自分の元へと引き寄せた。

 引かれる勢いで倒れ込むように膝を折ったフィシュアは、迎えられるまま腕の内に囲い込まれた。そのままへダールにぎゅうと抱きしめられ、頭頂に頬擦りされたフィシュアは混乱する。

「愛い奴じゃな。照れておったのか」

「待って待って。今ので、どうしてそうなった!?」

 シェラートは迷惑そうに嘆息した。

 へダールの腕の内から転移させられたフィシュアは、たたらを踏む。シェラートの背に手をついたまま、フィシュアはげっそりと肩を落とした。

「だから、前に出るなって言っただろう」

「悪かったわよ……」

 フィシュアが呻きながら謝れば、肩越しにこちらを見るシェラートが翡翠の目を剣呑に眇めてくる。

「お前今の、歌い人形にされてても文句言えないからな」

「何それ、よくわからないけど怖い! せめて嫁じゃないの!?」

「こいつらの言うことを自分の基準で考えるな」

 フィシュアは呆れ果てて、水神を見下ろす。

 ヘダールも急に手の内から消えた花嫁が、シェラートの背後に隠されていることに気付いてこちらを睨みつけていた。

「小僧、何をするのだ! その娘は私の花嫁だぞ!」

 まだ的外れなことを言っているヘダールに、フィシュアはもはや憐れみに近い感情を覚えた。傍に立つシェラートを見る。

「こいつ……バカなの?」

「だからバカだとも言っておいたよな?」

「何だと!? 成り上がりの魔人ジンめ――ぐぇっ……!」

 今回もカエルが潰れたような奇妙な声を上げて床へ張り付いたへダールと、シェラートの相変わらずのやりように、フィシュアは額に手をあてる。

 それでも、さすがに今度ばかりはフィシュアも助けようとは思わなかった。



「じゃあ、まず消したペルソワーム河の水を戻して、ガンジアル地方に元のように雨が降るようにしてもらいましょうか?」

 フィシュアは部屋の中にあった椅子に腰掛け言った。

 対面に座らされているヘダールは、シェラートによって不可視の糸で縛り上げられ完全に拘束されている。身じろぎする合間にへダールがシェラートを睨み、その度に増す締め付けにへダールは悲鳴をあげた。

 それを何度も繰り返してようやく抵抗しても無駄であると理解したらしいヘダールは渋々ながらも口を開く。

「……それは無理だ」

「無理なわけないだろう?」

 シェラートとフィシュアに同時に睨まれたヘダールは、もう一度「無理だ」と強く繰り返すと、眉尻を下げながらぽつりと零した。

「そんなことをしたら彼女に嫌われてしまうではないか……」

「は!?」

「大きくて豪華な浴場が欲しいと仰っていたのだ。だから河の水や天上の雨を集めて大浴場をつくり贈った。そうしたら彼女はそれはもう喜んでくれてな。今度こそ私に振り向いてくれると思ったのだ。それなのに水を元に戻してしまったら大浴場がなくなってしまう。せっかく喜んでもらえたのに、私は彼女に嫌われてしまうではないか!」

 はたから聞けば何とも阿呆らしい理由をまくしたてるへダールに、フィシュアはほとほと呆れてしまった。

 そんな理由で迷惑を被った人がどれほどいるのか。どうしてもそちらに思考を向けてしまいそうになり、戻らない現実を歯痒く思う。

「大量の水が必要だったのなら、どうして泉の水だけは使わなかったのよ?」

 フィシュアが尋ねれば、ヘダールは目の端をほのかに赤らめた。

「あの泉は……彼女が綺麗だと褒めてくれた場所なのだ。私が彼女に初めて出会った場所なのだよ」

 フィシュアはもう二の句を継ぐことなどできなかった。隣で腕を組み立っているシェラートも怒りよりも呆れが凌駕してしまったようだ。

「で? その彼女っていうのは一体誰なんだ?」

「彼女に何をする気だ!?」

「別に何もしない。要はそいつのところに水があるんだろう。戻してくれるように頼むだけだ。いいから、名前と場所を教えろ」

 へダールは嘲るように鼻で笑って、つんと顔を逸らした。抵抗するかのように固く引き結んで口を閉ざす。

 へダールの口は、結局シェラートに無理矢理こじ開けられることになった。

「あががががが——!!」

 口を大きく開いたまま変な声を出し続けているヘダールに対して、もはや同情の余地などない。なかったが、フィシュアは嘆息すると仕方なく彼に助け船を出してやることにした。シェラートの腕をとんと叩く。

「シェラート……。それじゃ話せないでしょう?」

 実際このままだとヘダールが名を口にしていたとしても、聞き取ることは不可能だ。シェラートも気付いたらしく、手を振って魔法を止めた。

 涙目のヘダールは痛む顎を擦りながら呟く。

「ヴィエッダ……様です……」

 ようやく告げられた名にシェラートは眉根に深く皺を刻んだ。

「ヴィエッダ?」

 聞き返された名に、ヘダールが情けない顔でこくりと頷く。

「よりによってあいつか……」

 呻くように吐き出されたぼやきに、フィシュアはシェラートを見上げた。

「知っているの?」

「知っているも何も……できるなら絶対に会いたくない」

 そう言ったシェラートの顔には何とも嫌そうな表情が浮かぶ。

 諦めの溜息を吐き出して、シェラートは出口へと向かった。

 あまり見ないシェラートの様子に困惑しながら、フィシュアも立ち上がって後に続く。


 残されたのはただ一人。

「ちょっと待て! これを解いてから、私も連れて行け!!」

 椅子に縛り付けられたまま放置されてしまったヘダールの叫びは、水の宮の中ひどく哀れにこだました。

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