第62話 水端の巫女【5】

 村長に案内された二階の客室の内側で、フィシュアは扉を閉じきると同時に溜息をついた。

 先に部屋に入り、フィシュアと村長のやりとりが終わるのを待っていたテトは、フィシュアを見上げる。

「フィシュアが通った後に幸福が訪れるって本当?」

「まさか」

 フィシュアは首を振るった。手近な椅子を引き寄せて腰掛けながら、寝台に座るテトに向き直る。

「ただ、そうねぇ……。一応根拠はあるのよ。ほら、私は仕事上バデュラの時みたいに強盗団を捕らえたりするでしょう? そうすると、まぁ、その場所の治安は前よりもよくなるわよね。他にも何か問題が起きていた場合は、自分たちにできる最低限の対処をしてから次の人に引き継ぐし。だから実際のところは“宵の歌姫が通った後”というよりは“宵闇の姫が通った後”と言った方が正しいわね」

 それに、とフィシュアは言い添える。

「私の前にも“宵の歌姫”なら、たくさんいたのよ。特に私の先代は、天賦の才能を持った歌姫だったの。とても美しい歌声だったから、あんな歌を聞いたらそれだけで幸せな気持ちになった人も多かったでしょう。何かいいことがあったらあの歌を聞いたからだ、ってそう感じてくれた人もいたかもしれない。そういう気持ちが噂になって、村長さんが聞いたように伝わったのかもしれないわね」

「フィシュアの歌もきれいだよ?」

「ありがとう」

 フィシュアは、テトの頬をさすって微笑む。くすぐったそうにしながら、どこか浮かない表情をしているテトの表情は、いつものようには晴れなかった。

「ごめんね、テト。さっきは話を遮ってしまって」

「ううん、村長さん怒っていたから。僕、何か悪いことを言ってしまったんだよね?」

「私自身は、悪いことだとは思わないわ。テトと同じ意見よ。泉があるならそこから水をとってしまえばいいと思う。でも……あの村長さん、完全に信じきっちゃっていたから、彼にしてみればとんでもない提案だったでしょうね。自分が言っていることが、どういうことなのか全くわかっていないようだし。この分だと村の人たちはみんな同じように信じているわね」

 手の出しようがないわ、とフィシュアは嘆息を洩らしながら腕組みをした。

 難しい顔になったフィシュアに、テトはきょとんと首を傾げる。

「どういうこと?」

 まっすぐに向けられたテトの疑問に、フィシュアは困ったように笑った。ためらいながらも、フィシュアは結局、口を開く。

「だってね、テト。この村に水が足りなくなったのは魔人ジンのせいだって私たちは知っているでしょう?」

「うん」

「仮にその魔人ジンがあの子を本当に望んでいて、あの子に水の宮に来てほしくって、河の水を消したとしましょうか。雨を降らさないのもそのせいだ、と。でも、そうなら今回のことは矛盾だらけになってしまうの。あの子を手に入れるだけでいいのなら、ペルソワーム河の水を消すなんて、まどろっこしいことをわざわざする必要はないわ。第一あの子がいるこの村以外にも、影響を与えていることにも説明がつかない。さっさと彼女を攫って自分の手元に置いてしまう方が、ずっと簡単で手っ取り早いもの。それにあの子はきっと……」

 ちらりと向けられた藍の目線に、壁に背を預け二人の話を聞いていたシェラートは頷いた。

「ああ、特に魔力は感じられなかった。多分何の力もない普通の子どもだろう」

 予想通りのシェラートの断言にフィシュアは、「やっぱりね」と苦い笑みを浮かべた。

 魔女や賢者たち程の力を持ってないにしろ、多少の魔力を持つ者はいる。

 そういった者たちが普通とは異なる不思議な力を使ったという例も実際にはあるのだ。ただ、それは極端に目立つものではなく、あくまでほんの小さなものらしいが。

 神官や巫女の中にはそういった不思議な力を持つ者が多く含まれているのも知ってはいる。

 けれど、もしあの少女が何かしらの力を持っていて、実際に使ったことがあるなら、あの村長が口にしないはずがなかった。

 村長はメイリィのことを敬い、誇らしげに話を聞かせてくれた。だからそんな力を彼女が持っているならば、自分から進んで話しただろう。

 そして、メイリィが言葉を発することができないのが水神のせいではなく生まれつきのものであるとすれば、それは彼女がテトと変わらない普通の子どもであることを示すことになる。

「じゃあ、やっぱり、あの子は水の宮では暮らせないってこと? そうしたらどうなるの?」

 テトは驚いたように黒い瞳を大きくさせた。

 フィシュアはできるだけ声を落ち着かせて、戸惑うテトに呼びかける。

「テト。村の人たちはともかく、恐らく神殿にいる高位の神官や巫女たちはあの子に力がないってことを知っているわ。水の宮に生きたまま降りることができないってことも。水初みそめの儀は、水神を鎮めるために彼らが考え出した生贄の儀式のことなのよ。彼女は結婚という名の下、生贄として水神に捧げられる」

「それなら魔人ジンの仕業だって教えてあげようよ! だから、あの子がわざわざ水神と結婚しても意味ないって」

「無駄よ。ここみたいな小さな村での神は、そのまま魔神ジーニー魔人ジンを指すことが多いから。シェラートが言う通り、この近くにいるのが魔神ジーニーではなく魔人ジンなら、恐らくこの村の神もまた魔人ジンのことを指していると思う。この村の水神と、実際にこの村から水を奪った魔人ジンは高い確率で一致しているはずだわ。だからこそ、魔人ジンの仕業だって言っても水初の儀は止められない。なぜなら、水端みずはなの巫女を捧げる相手は一緒だから」

「だけど! 何とかならないの? そんなのあの子が可哀そうすぎるよ……」

 飛び跳ねるように楽しげに歩いていた少女を思い出す。無邪気な笑顔が、今はとても哀しいものように思えた。

 縋るように見上げてくる黒の瞳を真っ向から受け止めることができず、フィシュアはテトから目を逸らすと床へ視線を落とした。

「……残念だけど、私たちだけではどうすることもできないわ。その土地の宗教が関わってくる場合、私たちの観点だけで、それを信仰している人たちに、自分たちの考えを押し付けることはできない。まして、考えを変えさせるのはすごく難しいことなの。私たちにとっては理不尽なことに思えても、相手にとっては真っ当な理由があっての行動だから。これは宗教以外にも当てはまることでもあるけど、宗教絡みの場合は特に注意しなくちゃいけないの。信仰は、その土地の人たちにとっての根幹でもあるから。だから……」

 フィシュアはテトに言い含めるように、言葉を探す。

 刹那、コンコンと軽い音を立て扉が鳴った。

 突然のことにテトとフィシュアは身体をビクリとさせて、叩かれた扉の方を見た。

 閉まっているとはいえ、扉はそう厚くない。これ以上、話を続けるわけにもいかなかった。

 自然と静かになった部屋の中、一番扉近くに立っていたシェラートが扉を開いた。

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