第63話 水端の巫女【6】
扉の向こうから顔を出したのは家の主人である村長だった。
村長は目尻に小皺を畳んでにこやかに笑う。
「休憩しているところをすみません。でも、ちょっとよろしいですか? 今、下にメイリィ様がいらっしゃっていて、お許しが出たからテトさんと遊びたいのだそうです」
「僕と?」
名指しされたテトは、驚いて自分の顔を指さした。
戸惑うテトに、村長は大きく頷く。
「この村はとても小さいでしょう? ですから、メイリィ様と同じ年頃の子どもはあまりいないのです。それに元々メイリィ様は神殿でのお勤めが忙しく、なかなか他の子たちのように遊ぶことは許されませんしね。なので、よろしければ一緒に遊んでいただけると私もメイリィ様も嬉しいです」
思いもかけなかった申し出に、テトはフィシュアとシェラートを見あげた。
どうしようか、と目で問いかけてくるテトに、フィシュアは微笑みを返す。
「テトがいいなら遊んでおいで? 行きたいのでしょう?」
迷いながらも「うん」と頷いたテトの栗色の頭にシェラートがぽんと手をのせる。しゃがみ込み、テトと視線を合わせながらシェラートは言った。
「テトもずっとそんな暇なかったからな。楽しんでくるといい」
な、と言われ、テトは顔を輝かせた。
やりとりを見守っていた村長は、ほほえましそうに笑った。
「それでは私は先に降りてメイリィ様に伝えてきますね」
「待って。僕も行く」
さっそく知らせに向かった村長の後をテトが追う。ちょうど部屋から出かけた時、フィシュアはテトをひきとめた。
「テト、さっきの話だけど……あの子には……」
言い辛そうに濁ったフィシュアの言葉の先を察して、テトは頷く。
「うん、言わないよ。それに、そんなこと笑ってるあの子に言えない」
それだけ言ってしまうと、テトはもう振り向かずに扉の向こうへと消えた。
「あの子と仲よくなればなるほど、きっとテトは辛いでしょうね」
フィシュアは閉じた扉に向かって溜息をついた。椅子の上で片膝を抱え込み、浮かない顔をしているフィシュアに、シェラートは翡翠の双眸を向ける。
「仕方がないことだろう」
「仕方がないかぁ……」
「テトだって何もわからないわけじゃない」
「そうね」
「手を出すのは難しいと判断したんだろう?」
「そうだけど」
曖昧に頷いて、フィシュアは膝の上に顎をのせた。
部屋を横切るシェラートに、こん、と頭頂部を小突かれて、フィシュアは口を引きむすぶ。
仕方がない。どうしようもない。テトにはそう言っておきながら、何か方法はないのだろうかと性懲りもなく模索しはじめている自分にフィシュアは自嘲した。
だから、諦めるしかない。
テトに言いかけて、言えなかった言葉を心の内で反芻する。それは自分自身に最も言い聞かせるべき言葉でもあった。
乾いた風が前髪をさらう。顔をあげると、シェラートが木窓を引き開いたところだった。
声こそ届きはしなかったものの、テトたちがいるんだろう。窓辺に立つシェラートは、まばゆそうに外を見下ろしていた。
村長に連れられて階段を降りてきたテトに目を留めた瞬間、メイリィは嬉しそうに首をすくめて笑った。
テトが辿り着くよりも早く、明るい日差しの中へ駆け出していったメイリィを、テトは呆気にとられて見つめた。いくらか行った先で振り返ったメイリィが、大きく手を振り仰いで、玄関先に立ち尽くすテトを呼びまねく。
「え、ちょっと待って!」
テトが慌てて駆け寄る間、メイリィは立ち止まって待っていた。
ようやくテトが追いつくと、メイリィは早速口を動かしはじめる。ぱくぱくと忙しなく動く口は楽し気で、ただ、テトには何を言っているのかさっぱりわからなかった。
テトが困っていると、メイリィは慌てて口を両手で塞ぐ。
気を落ち着かせようとしているのか、メイリィは口を塞いだまま、深呼吸をした。
テトが見守る先で、手をはずしたメイリィの口の動きが、ゆっくりしたものに変わる。一音一音注意深く動く口は、どうやら同じ単語を何回も繰り返しているらしい。
メイリィが何を言っているのか見極めようと、テトは繰り返し同じ動きをする口をじっと見つめ——結局、諦めて首を横に振った。
「ごめんね、なんて言いたいのかわからないや」
テトが謝ると、メイリィは明らかに気落ちした様子で足元に視線を落とした。
あまりの落胆ぶりに、テトは申し訳なくなって、言葉を探す。
瞬間、メイリィはぱっと顔を輝かせた。
テトに向かって小さく手招きをして、メイリィは地面にしゃがみ込む。
「どうしたの?」
テトはしゃがみ込んだまま動かないメイリィに近づき、彼女が見つめている地面を覗きこんだ。
それに気付いたメイリィは小石を片手に、コツコツと地面を叩きながらにこにこと笑う。
テトはつられるまま、視線を落とした。
見ると、地面に溝ができていた。その溝が作る線で文字が書かれている。メイリィが持つ小石には土がついていたから、きっと彼女は小石を使って地面に伝えたかった言葉を書いてくれたのだろう。
「メイ……ィ?」
文字を習いはじめたばかりのテトには、全ての文字を読むことはできなかった。拾えた文字だけを口に乗せて、繰り返し発音する。
何度繰り返してもわからず、「うーん」と呻いていると、不意にメイリィが自分自身の顔を指さして微笑んでいるのが目に飛び込んできた。
目の前の少女の笑顔に、テトの中でようやく地面に書かれた文字の意味がカチリとはまった。
「あ、“メイリィ”か!!」
テトが思わず大きな声をあげると、メイリィの方も嬉しそうに何度も頷く。
『メ・イ・リ・ィ!』
もう一度、口をぱくぱく動かしメイリィが自分を指さす。一度わかってしまえば、はっきりと読みとれる口の動きに、テトは嬉しくなって声を立てて笑った。
「“メイリィ”って呼んでほしいの?」
メイリィがこくりと頷いたのを見て、今度はテトが自分を指さしながら言った。
「僕はテトラン。僕のことは、テトって呼んでね」
メイリィが目を細めて笑う。
『テト』
声は聞こえなかったけれど、確かに聞こえた声にテトは頷きを返した。
「そう、テト。よろしくね、メイリィ」
テトは、メイリィの前に片手を差し出す。
途端、メイリィは身体をすくませた。固まってしまったメイリィを不思議に思ってテトは首を傾げる。
メイリィは困ったような哀しそうな表情を浮かべて首を数回横に振った。
その表情にメイリィと出会った時に起こった出来事を思い出して、テトは慌てて差し出していた手を引っ込めた。
「……そっか、確か触っちゃいけないんだったよね」
『ごめんね』
「ううん、僕こそごめんね」
目に見えてしょんぼりとしてしまったメイリィの気持ちを晴らしてあげたくて、テトは辺りを見渡した。
「あ!」
テトがしゃがみ込んだのを見て、メイリィは不思議そうに目を瞬かせた。近づいて、テトがしゃがみ込んだ先を覗き込む。
テトの手に握られていたのは淡い水色の花弁を持った一輪の花だった。
茎の端を持ち、「はい」と差し出された花をメイリィが恐る恐る受け取る。
空の一部を切り取ったようなその花びらをメイリィは数秒じっと見つめ、鼻先に近づけると、香りを楽しむように目を閉じた。
閉じた瞼の先で髪と同じ金茶の睫毛が風で微かに揺れる。
「僕のお母さんはね、野の花が好きだったんだ」
テトが言うと、花と同じ澄んだ空色の瞳でメイリィはテトを見つめた。
「これは今日、僕がメイリィに貰った花のお返しと、友達になった記念ね」
メイリィは声なく笑みを広げる。
それは、メイリィの喜びがそのまま伝わってきて、くすぐったくなるくらいの笑顔だった。
同時にその笑顔は、メイリィの手元で風に揺れる花のようだとも、白い雲をぽっかりと優しく鮮やかに浮かびあがらせる気持ちのよい晴れの日の空のようだとも、テトは思ったのだ。
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