第47話 テトの試練【2】

「お母さん?」

 エルーカ村の外れにある小さな家に着いたテトは、懐かしい木戸を開け呼びかけた。

 開けた瞬間、家の香りに包まれて帰ってきたことを実感する。

 テトは、視線を彷徨わせた。

 広がっているのは、この家を出たひと月前と変わらない部屋だ。

 母と二人でずっと暮らしてきた場所。

 あるべき場所にある家具。

 閉じられた窓にかけられた黄緑色の遮光布。

 使い慣れた食器。

 床についた傷。

 自然と肌に馴染む香り。

 空気。

 ただ一つ違うのは、そこにあるはずの笑顔がないことだった。

 あるはずだった唯一無二の存在。

 その存在こそが最も重要なもので、いないだけで目の前に広がる部屋はひどく空虚だった。とても異質なものに思えた。

「お母さん?」

 テトはもう一度呼びかける。

 無条件に笑顔を向けてくれる存在へ。

 優しく包み込んでくれる存在へ。

 時にはひどく叱ってくれる存在へ。

 自分のことのように悩んでくれる存在へ。

 一緒に笑ってくれる存在へ。

 強く、温かな存在へ。

 その存在が、失われてしまったなんて、消えてしまったなんて、もう二度と目にすることができないなんて、テトには想像ができなかった。

 呼べば、きっと笑顔で迎えてくれるはずだ、とテトは無条件に信じていた。もしかしたら勝手に帰ってきたことを少し怒ったかもしれない。それでも遠く離れた道のりを帰ってきたことを、最後には労ってくれるはずだった。

 それほど、テトにとって母の死は実感の伴わないもので、到底受け入れることなどできないものだった。

「お母さん?」

 いつまでも返らない答えに、怖気づきそうになりながら、テトは空っぽの部屋に向かって何度も呼びかけた。

 問いかけに答える者はない。

 小さく短い問いかけは、静かな部屋に最後に一度きり響き渡り、こだますることなく、消えた。

 空虚な部屋に吸い込まれるように。

 わずかな余韻も残さず消えてしまった。



「テト」

 テトの家の入口で立ち止まっていたシェラートは、無限に続くかに思われたテトの問いかけに耐え切れず声をかけた。

 自分の名前に反応したテトはゆっくりと振り返り、シェラートを見あげた。

 感情をなくした少年の黒い瞳は虚ろに彼の魔人ジンの姿を映しこむ。

 はっとしたように目を見開いたテトは、魔人ジンを見つめてわらった。

「そうだよ、シェラートに頼めばいいんだ。ねぇ、シェラート、お母さんを生き返らせてよ」

「テト……」

「ねぇ、シェラート。できるでしょ? シェラートならできるでしょ?」

 シェラートは自分に掴みかかって服を揺さぶる契約者を、苦痛を持って見おろした。

「だめだ。できない。死んだ人間を生き返らせることは、魔人ジンの力をもってしても不可能なんだ。死んだ人間は二度と生き返らない。そんなこと誰もできやしない。それが、この世界の決まりだ」

「どうして? どうしてどうして? できるんでしょ? 本当はできるんでしょ?」

「テト!」

 シェラートはテトの細い肩を掴むと、焦点の定まらない黒い双眸と目の高さをあわせた。

「助けてよ! 助けてくれるって言ったじゃないか!」

 テトの揺れる瞳からは、涙は溢れてはいなかった。

 代わりにひどく歪められたその顔こそがテトが抱える悲痛さを訴えていた。

 涙よりも深い悲しみがそこにはあった。

 シェラートは何か言おうと口を開く。だが、結局かける言葉が見つけられず、歯噛みした。

 自分の魔人ジンにあたるように、テトは力任せにシェラートの身体を揺さぶり続けた。

 シェラートは何もできずに、テトの悲しみを受け続ける。

 それでも揺さぶる力は次第に弱まり、どこか吹っ切れたように、テトの手はぴたりと止まった。

 シェラートの服を掴んでいた手から力が抜け、ぽとり、と落ちる。

「……テト?」

 いぶかしげに覗き込んだシェラートはテトの瞳に光の宿ってない闇を見た。

 テトが口を開く。

「もう、いい。もう、誰も助けない。お母さんが助からないなら、もう、どうでもいいや。僕、疲れちゃった」

 感情の抜け落ちた声には疲労だけが滲んでいた。

 言葉の通りすべてを放棄したテトは、硬直した魔人ジンに、もう何も望まなかった。



「テト!?」

 フィシュアが入って来たのは、その時だった。

 普段のテトからはありえない様子と宣言に、信じられないものを見るかのように目を見開くと、憤然とテトに近寄り、小さな身体を揺さぶった。

「テト! あなた、今、自分が何を言ったか、わかっているの? この村の人を助けることができる力を持っているのはあなただけなのよ? シェラートを連れて来たあなただけなのよ?」

 フィシュアの問いかけに、テトは何も答えなかった。

 表情のない乾いた目だけが、ただ義務的にフィシュアを見つめ返す。

 けれど、そこには何も映ってなどいなかった。

 フィシュアは、なおもテトを揺さぶり続ける。

 さっきまで、テトがシェラートにしていたように。

 何とかテトの心へ響くように、と必死で語りかけた。

「テト! ……テトラン!! あなたのお母様がどんな願いを込めてこの名前をつけたのか、あなたならよくわかっているはずでしょう? お母様はこんなこと願ってない! みんなの道を照らすテト強いランを望んでるはずよ?」

 テトに食ってかかるフィシュアを、シェラートは自身の腕で遮った。

「フィシュア! もう、その辺にしておいてくれ!」

「だけど!」

「頼むから」

 フィシュアはやりきれない思いに唇を噛みしめ、テトを見た。

 フィシュアの再度の訴えにも、それを止めたシェラートにも、テトは睫毛一つ揺らすことはなかった。

 あまりにも無反応なその様は、息をしている人形のようで、見ているだけで痛々しい。

 フィシュアは目の前のテトをぎゅっと抱きしめた。

 伝わってくる体温は、いつもと変わらぬ温かなもので、フィシュアは少し安堵する。

 けれど、様変わりしてしまったテトの変わらぬ柔らかな栗色の髪をなでながら、フィシュアはテトに囁いた。

「いいわ。テトは何もしなくていい。まだ、何もしなくていい。だけど、私はあなたを甘やかすことはできないから、絶対にこの役目を果たさせるわ。無理矢理にでもね。それまでは、私がテトの代わりをしておくから、早くいつもの元気なテトに戻って? いつもと同じお陽様みたいなテトの笑顔を見せて?」

 ね? と、フィシュアは両手でテトの頬をさすり、彼の額に口づけた。

 いつも顔を真っ赤にさせていたはずの少年が、表情をわずかも動かさないことを寂しく思いながら、もう一度抱きしめる。

「ごめんね、テト。何もしてあげられない」

 フィシュアはその小さな身体を離した。

「俺は契約者であるテトの許しがない限り、フィシュアに手を貸すことはできないぞ?」

 眉間に皺を刻んだシェラートには苦悶が滲む。フィシュアは力のない笑みを浮かべた。

「うん、わかってる。本当は詳しい調合の仕方とか聞きたかったけど、それも無理ね。近くで見ておいてよかったわ。大体の量もわかるし、材料もわかる。それを一対一で混ぜるってことも、教えてもらったから知っているしね。それ以外にも私にはやれることがあるもの。どちらにしろ、私は先に病の状況を把握しなくちゃならなかったし。だから、シェラートはテトの傍にいてあげて? 動きまわることができる私より、きっと、そっちのほうが辛いと思うけど」

 言って、立ち上がったフィシュアは、少し背伸びをしてシェラートの頬にも口づけを落とした。

「頑張ってね。私じゃテトは支えられない」

 フィシュアは自嘲しながら、シェラートを覗き込む。

 そのまま出口へと向かったフィシュアが泣きそうに見えて、シェラートは思わず彼女の腕を掴んだ。

 振り返ったフィシュアは泣いてなどいなかったが、その顔は、やはり苦しげに歪んでいた。

 きっと自分も同じような顔をしているんだろうな、と思いながら、シェラートはフィシュアへと声をかける。

「あまり、無茶するなよ?」

 シェラートの言葉に、フィシュアはほんのり苦笑する。

「しないわよ。約束したでしょう? それにもう、苦くてまずいあの薬を飲むのだけは嫌だもの」

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