第46話 テトの試練【1】

「嘘だ」


 重い沈黙を破ったのは、テトの口から漏れたかすれた呟きだった。

 口に乗せたというよりは、零れ落ちてしまったというのが適しているほど、小さく力のない声だった。

 テトの拒絶は、エリアールの震えをともなった身振りによって否定される。ゆるゆると彼女は首を横に振った。

「ロージィは、ね。それまでの高熱が嘘のように、最期は静かに……本当に静かに、息を引き取ったわ」

 ずっと、とエリアールは懺悔するように組んだ両手を額に押しつけ目をつむる。

「テトちゃんのことだけを、心配していたの」

 泣き出したエリアールの背に手を添えたまま、フィシュアは下唇を噛んだ。

 テトから村と病について聞いた時から、容易に予想できていた可能性の一つだった。それでも幼すぎるテトにはあまりにも残酷な結末だ。

 テトは立ちすくむ。

「テト……」

 伸ばされたシェラートの手を、テトは弾き飛ばす。瞠目するシェラートを前に、テトは叫んだ。

「嘘だ、そんなの嘘だ! 嘘だ!!」

 テトは首を振り必死に否定を繰り返す。

 誰かへ向けられたものではない。ただ、目の前の現実を拒む最後の手段であるかのように、テトは叫び、首を振り続けた。

 いくら拒絶の言葉を口にしても、テトの望む答えなど返ってくるはずもない。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」

「テト!」

 叫んで、テトは走り出す。

 何かに憑かれたように村に向かって走り出したテトの背中へ、シェラートは呼びかけた。だが、呼び声は虚しくその場に響いただけで、テトを止められるほどの力を持ってはいなかった。

 テトが駆けて行った方向を見つめ呆然と立ちつくすシェラートを、フィシュアが叱咤する。

「シェラート! 何してるの! ここはいいから早くテトを追いかけなさい!」

 我に返ったシェラートは「くそっ」と強く握った拳を一度、脚に打ち下ろす。顔をあげぬまま契約者の気配を追って、シェラートは転移した。



「私のことはいいから、あなたも行ってちょうだい。テトちゃんを……テトちゃんを、早く追いかけてあげて……」

 エリアールは泣き腫らした目で、自分を支えるフィシュアに訴えた。

 フィシュアはかぶりを振る。

「立てますか?」

 力なく頷いたエリアールを支えながら、フィシュアはゆっくり立ちあがった。

「そういうわけにはいきません。私はまずエリアールさん、あなたを送り届けないと。それから二人を追いかけます。大丈夫です。テトにはシェラートがついている。それに、あなたはテトの家をご存知なのでしょう? きっと、テトは自分の家に行ったんだと思います。私が今から追いかけても村の中で迷ってしまうだけです。テトの家を探しまわっていたら余計に時間がかかってしまう。だから、これが最短で最良の方法なんです」

 フィシュアがそう断言すると、エリアールは「そうね」と弱々しく頷いた。

「馬には乗れますか?」

「ええ、少しは……」

「それなら、私が後ろから支えますので、乗ってください。まずはあなたの家へ向かいましょう」

 フィシュアは一頭の馬に荷物をすべて移してしまうと、別の一頭へと飛び乗った。

 エリアールの身体を引っ張りあげて自分の前へと乗せ、エルーカ村へと入る。

 話に聞いていたテトの村は予想していたよりも、病の影響を色濃く受けていた。

 外に出ている者はほとんどいない。出ている者もどこか虚ろな表情をしていた。

 立ち並んだ小さな木造の家の中さえも、人がいるのかはわからなかった。生活する人の気配がしないのだ。

 辺りは静まりかえり、まるで深夜、皆がすっかり寝静まってしまった後のような雰囲気を醸し出していた。

 山の中腹にあるせいか清涼な風が吹き渡っていて、空気が淀んでいるという印象までは受けない。それでもこの村に流れる空気は気持ちのよいものとは言い難かった。

 フィシュアはエリアールの家へ向かう道すがら、活気がなく閑散とした村へ目を向けつつ、込みあげてきた溜息を飲みくだした。

 きっと自分はシェラートのようにテトの母の死を悲しむことはできないことを知っていた。ましてや、テトと同じようになど到底無理な話だった。

 悲しい、という気持ちはある。寄り添って慰めたいと思う。テトがどれほど辛いのかも、想像がついた。

 ただ、フィシュア自身親しい人を突然亡くした経験がある分、余計に思い知らされてしまう。今、自分の奥底にあるのは悲しみではなく、残念だ、という諦めの気持ちだった。それが圧倒的に勝ってしまっていることにフィシュアは気づいていた。

 フィシュアにとってテトの母ロージィは、テトとエリアールから伝え聞いただけの存在で、実際には会ったことのない人だ。

 亡くなった、と聞かされても、どうしても実感が沸いてこない。

 なぜなら、テトの母はフィシュアの中で温度のある人間として実在する前に、消えてなくなってしまったのだから。

 自分の身近な人間以外の死を——一度も会ったことのない人の死を、悼むことができないほどには、そういった人の死をフィシュアは数え切れないほど、何度も何度も目の当たりにしてきた。聞いてきた。

 それよりも、この状況を早く打開しなければ、とそちらにばかり気が急いてしまう。エルーカ村の状況は思っていたよりも深刻なようだった。近隣の状況はどうなのか、応援をどれほど頼むべきか。シェラートから聞いたばかりの情報と、報告の内容に考えを巡らせてしまう。

 母子を思って啜り泣いているエリアールが落ちてしまわないよう支えながら馬の歩を進める。

 私って最悪だ、とフィシュアは前を見据えたまま、手綱を握りしめた。

 いつだってこんな自分に嫌気がさすのも事実で、フィシュアは泣き出したいほど美しい真昼の青空を振り仰いだ。

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