第45話 エルーカ村へ【2】
テトの「あっ」と声をあげたのと、エルーカ村が見えはじめたのは同時だった。
はやる気持ちを必死で抑えているのだろう。食い入るように村を見据えるテトは、シェラートの服を掴む手をなおさらぐっと握りしめた。
シェラートは宥めるように、テトの身体を抱えなおす。
直接村にあるテトの自宅へ向かいたい気持ちはあるものの、どうしてもそのまま村に降り立つわけにはいかず、三人は人目を避けエルーカ村の少し手前の開けた更地に降りたった。
今にも村につながる坂道を走り出そうとむずむずしているテトを抑え、馬二頭と食糧など必要なものを転移させると、手早く馬へ荷を積み込む。
「テト」
シェラートは、落ちつきなく押し黙ったままのテトを抱えあげて馬にのせ、自らも少年の後方に飛び乗った。
「行こう」
緊張と期待を孕んだ声で、テトは言った。まっすぐに顔をあげる眼差しに迷いはない。
シェラートとフィシュアは、テトに頷き返すと、エルーカ村へ馬を走らせた。
「エリアールおばあちゃん!?」
エルーカ村の入り口にさしかかった時、テトは見知った人影を目にして、声をあげた。
みるみるうちに満面の笑みを広げたテトは、その人物へ大きく手を振る。まだ距離があるからか水桶を持ち村近くを歩くその人はテトの声に気づかないようだった。
「エリアールおばあちゃん!」
「おい。テト、待てっ!」
テトはシェラートが止めるのも聞かず、馬から飛び降りた。村の入口に立っている老年の女の元へ一直線で走って行く。
シェラートとフィシュアは馬を歩かせ、テトの後を追いかけた。
「おばあちゃん!」
テトは飛びつくように老年の女の腰に抱きついた。その顔をぎゅっと彼女の裾に押し付ける。
「えっ、……テト、ちゃん?」
村にいるはずのないテトが突然現れることは予想外だったのだろう。老年の女――エリアールは傍目にも狼狽していた。
「あなた、テトちゃんなのね?」
「うん! ただいま」
エリアールの問いかけに、テトはパッと顔をあげる。
見つめられたエリアールは、嬉しそうに表情を綻ばせた。
つかの間の後、その表情がやわと崩れ、彼女は額に皺をたたむ。強張った顔をして、エリアールは膝に抱きつくテトの手を外し、わずか身を引いた。
テトは戸惑いながら、エリアールを見あげる。
「エリアールおばあちゃん……?」
「テトちゃん、どうして戻ってきてしまったの? せっかくロージィが……あなたのお母さんがここから逃がしてくれたのに。いい子だから早くここから離れなさい。もうこの村はだめなの。ここにいればテトちゃんまで病気になってしまうわ。さぁ、早く!」
エリアールは、テトの肩を震える右手で押す。元来た方向へと返そうとした。
「待って、エリアールおばあちゃん。大丈夫なの。僕、お母さんを、みんなを助けに来たんだよ!」
「テトちゃん」
嬉しそうに告げるテトとは対照的に、エリアールは苦しそうに顔を歪めた。はっとしたように、彼女は口許を両手で押さえ込む。それでも堪えきることはできなかったらしい。上体を折り曲げたエリアールは、ゴホゴホと咳きこみはじめた。
「エリアールおばあちゃんっ!」
テトが血相を変えて近寄る間にも、エリアールはさらに発作を起こし、激しく咳きこみだした。よほど苦しいのだろう。目に涙をためながらも必死に空気を吸おうと口を開いている。
「大丈夫ですか?」
追いついて来たフィシュアが慌ててエリアールの背をさすった。
効果があったのか、エリアールの呼吸がいくらか落ち着き、ヒューヒューとした呼吸へ変わる。
しかし長く続くものでもなかった。エリアールは再び息苦しそうに咳きこみはじめる。
「シェラート! エリアールおばあちゃんをっ!」
テトの願いに応じるようにシェラートは手を掲げると、その中に葉と根を一種類ずつ転移させた。カルレシアの解毒剤を作った時と同様、彼の手の中で風が巻き起こり、葉と根は粉々に刻まれていく。最後に一つの丸薬を作ったシェラートは、それをフィシュアに手渡した。
「辛いでしょうけど、飲み込んでください」
フィシュアは、エリアールに丸薬を飲ませる。
途端、エリアールの呼吸は、つい今まで喘いでいたのが嘘のように落ちついていった。
フィシュアに身体を支えられながらも、力が抜けたようにゆるりと目蓋を閉じたエリアールの呼吸は柔らかだ。
「もう、治ったの?」
エリアールの様子を見守っていたテトが、恐る恐るシェラートに尋ねた。
不安そうな顔を浮かべるテトの栗毛を、いつもよりもいくらか乱暴にガシガシとなでながらシェラートは笑う。
「あぁ。まだ完全ではないが、じきに治る。薬を飲んだからな」
シェラートの答えとその呆気なさに、テトは呆然とする。告げられた事実をじわじわと飲み込むごと、次第に顔を輝かせたテトは歓声をあげた。
「ありがとう!」
信じがたいほど早い処置と絶大な効果だった。たった今、目の前で背を支えていた老年の女に対し、間違いなくはっきりと現れた効果に驚きながらフィシュアが尋ねる。
「これって未知の病気なんでしょう? シェラートは見ただけで対処法がわかったの?」
シェラートは「ああ」と頷くと説明した。
「前にも言ったが、俺はいくらか医療系に突出している。俺に魔法を教えた奴が得意だったから自然とそうなった。だからか知らないが、病の場合は何によって構成されているのかが手にとるようにわかる。対処法もな。ただわかっても、外傷でない場合、医療系の魔法は使えない。閉じるだけじゃどうにもならないものには無理だ。フィシュアの時もそうだったが、身体の内に原因がある場合、つまり毒や病の時は薬を作って効果に頼ることしかできないから、相手の体力によるところも大きい。もちろん魔法で効果の底上げはできるが、限界がある。だが、まぁ、今回は運がよかったな。その人はまだ初期段階だし、この病気は未知のものじゃない」
「どういうこと?」
この病気は医者によって未知のものであると診断されたはずだ。
首を傾げるフィシュアに、シェラートは続けた。
「症状が変わっていたからな、医者は気づかなかったんだろう。これは未知の病というより、厳密にいうとミフィア病から変質したものだな」
「ミフィア病って、咳が出る病気よね? それって普通の病気よ? 私も罹ったことがある。けど、熱もそう出なかったし、だるいだけで一週間もすれば引いちゃったけど。本当にそうなの?」
フィシュアの横では、僕も「なったことあるよ」とテトが驚いた顔で言った。
ミフィア病はこの国では珍しくも何ともない。特に幼少期のうちに罹患するもので、国民のおよそ半数がかかる病気だった。予防法も薬も知られているし、きちんとした対処を取れば脅威ではなく確実に治る病気である。
その病気がなぜ、一つの村を脅かすほどのものになったのか。
「あぁ。元になっているのは、ミフィア病だ。ただ、ミフィア病の性質が変化している分、別のものになっていると思っていい。人間がミフィア病への対処法を確立して、今ではもうほとんど危険な病と認知されないくらい次々と対策を打ち出してきたのと同じように、ミフィア病も同じく今までの薬に負けないよう病原自体が変化したんだろう。だから従来そのままの症状にもならなかったし、恐らく従来の薬のままではあまり効果がない。それが、この村周辺だけで起こっているとなると、その原因はこの辺りにあると考えていい」
「その原因って?」
「そこまではわからない。ただ、いつもと違う何かがこの村で起こっていたはずだ」
そう、とフィシュアは呟いて、未だ目を閉じているエリアールへと目を向けた。
呼吸は落ち着いているが、額に浮き出た汗が先程の病の影響の苦しさを如実にあらわしていた。
エリアールよりもひどい症状の人々がまだ、村の中に多くいるはずだ。もしかしたら村の外にも。一刻も早い処置と原因究明が必要だった。
「シェラート、薬の材料には何を使ったの?」
「ズイの葉とイーラの根だ。どちらも同等に混ぜる」
「ズイとイーラ……」
教えられた植物の名にフィシュアは、ほっと安堵した。どちらも、どこにでも、それこそ山にも街の道端にも生えているような草である。手に入れるのに困ることはない。後は薬の作り方を詳しく教えてもらえさえすれば、対処法を広げるのは充分に可能だった。
「シェラート、その薬の作り方を……」
「エリアールおばあちゃん!」
薬の調合法を聞こうとしたフィシュアの言葉はテトの歓声によって、遮られた。
見ると、エリアールがうっすらと目を開けている。
「テトちゃん……?」
「エリアールおばあちゃん、もう大丈夫だよ。シェラートが病気を治してくれたから」
嬉々として語るテトを見ながら、しかし、エリアールはわずかも喜んだ素振りは見せなかった。むしろ苦痛に顔を歪ませて、強張った顔にさらに多くの皺を刻んでいく。
フィシュアとシェラートはその様子に違和感を覚え、怪訝気に顔を見あわせた。
ただ一人。嬉しそうにはしゃぎ、興奮しているテトだけが、そんなことにはまったく気づかず話し続ける。
「早く、家に帰ってお母さんに会わなくちゃ。そして、エリアールおばあちゃんと同じようにお母さんの病気も治してもらうんだ」
「テトちゃん……」
「お母さんの病気が治ったら、うんっと甘えるんだ。だって、今まですっごく頑張ったんだもん。きっと褒めてくれるよね」
「テト、ちゃん……」
「そうだ、エリアールおばあちゃん、今度また木の実がたっぷり入ったふわふわのケーキ、作ってよ。僕もお母さんもあのケーキ、大好きなんだ。また、みんなで食べようよ」
ね、とテトはエリアールに問いかける。
テトの笑顔を見ていたエリアールは前かがみになり、肩を震わせはじめた。顔を覆い隠した両手の隙間から、押し殺したような声が聞こえる。
「エリアールおばあちゃん……?」
ようやくいつもと様子の違うエリアールに気づいたテトが、エリアールの脇に屈んで、彼女を覗き込んだ。
指の隙間から、エリアールは心配そうに自分を見つめてくるまだ幼い子どもの澄んだ瞳を見た。とうとう堪え切れず、喉からあふれたすすり泣きが辺りにこだまする。
顔を覆う両手の間から、隠しきれなかった涙が一筋流れた。
テトちゃん、とエリアールは嗚咽する。
「ロージィは……、あなたのお母さんは、ね。十日前に、亡くなってしまったわ」
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