第35話 宵闇の姫【9】

「フィシュア!」

 テトとシェラートが叫ぶのと、カウンターにいた店主が床に倒れこんだ彼女を見て、ヒッと喉の奥で悲鳴をあげたのは同時だった。

 慌てて駆け寄ったシェラートは、フィシュアの身体を抱きあげた。

 テトが青ざめた顔で横から覗きこんでくる。

 フィシュアの身体は小刻みに震えていた。浅く早く繰り返される呼吸に呼応するように、額には汗が滲む。

 力強く光を宿していたはずの藍の双眸は、今にも消えそうな脆弱さで揺らめいていた。

 焦点がはっきりしない眼差しで、それでも自分を抱き抱える相手を捉えたフィシュアは痙攣する唇を開いた。

「ひ……が、し」

「東?」

 かすれた声で呟いたそれは確かにシェラートへと届いた。

 きちんと伝わった言葉に、フィシュアは安堵し微かに顎を引く。

 心配そうに自分を覗き込む二人に心配するな、と力のない笑みを送った。

「……お前は。こんな時まで無理して笑うな」

 小さく吐き出された嘆息に、フィシュアもこんな時まで呆れなくでもいいじゃないか、と思う。

 シェラートはフィシュアを抱えたまま、後ろに手を伸ばした。

 吹きつけた突風に、背後から襲おうと武器を持って近づいてきていた男たちが続けざまに壁へ吹っ飛ぶ。

「あぁ、あいつらも、ほんっとバカだよなぁ」

 呆れの呟きを漏らした目の前の男をシェラートは睨んだ。

「解毒剤を出せ」

 向けられた鋭い視線に男は楽しそうに口を開く。

「なんだ。やっぱ、こいつも怒り狂ってるじゃないか。おっと、こっちの小さいのも予想以上だ。やるなぁ、歌姫さん」

 おどけた物言いにシェラートは声を荒げた。

「解毒剤はどこだ」

「そんなものはない。」

「ない?」

 シェラートは耳を疑った。

 毒を使う者は総じて解毒剤を携帯しているはずである。持っていれば、もしもの時の保険になりうるからだ。

 しかし、この男は持っていないと言う。男は酷薄な笑みを浮かべながら続けた。

「持ち歩いたところで、どうしようもないからな。俺が使っているのはカルレシアの毒だ。触れたが最後、その瞬間あの世行きだ。持っていたって意味がないのさ。その点、この歌姫さんはいったい何者なんだ? 傷つけても一向に倒れやしない。当たらなかったと思ったが、血は出てたしな。内心ではかなり驚いてたぜ。毒に身体を慣らした奴だって一瞬であの世行きの毒だぜ? ここまで持つなんて、一体どんな化けもんだよ」

「カルレシア……」

 その名を持つ植物は可憐な淡い黄色の花をつける。

 その外見とは裏腹に、花の下――根に含まれている毒はほんの一滴で馬をも倒せるという。

 カルレシアの毒を受けてなお、生きているフィシュアは奇跡と言ってもよい存在だった。

 シェラートは眉をひそめて、腕の中で喘いでいるフィシュアを見た。

 呼吸は荒い。かといって力強いわけではなく、細々としたものだった。けれど、その呼気はまだ止まってはいない。

 カルレシアの毒にあおられても、なおだ。いったいどんな生活をすれば、これほどまでの毒に対する耐性がつくのか、シェラートには計り知れなかった。

「シェラート!!」

 隣から聞こえた悲痛な叫びにシェラートはハッとした。

 横からすっかり色をなくしたテトの顔が覗く。

 いきなり陥った状況。不安で、心配で、必死なテトは、泣くことさえも忘れてシェラートを見あげていた。

 テトの言わんとしていることに気付いたシェラートはかぶりを振った。

「無理だ。魔法ですぐ治すことはできない。怪我は治せるが、毒は中から中和するしか方法はないからな」

「そんなっ!」

 沈痛な表情を浮かべるテトの頭をシェラートはぽんとなでた。

「大丈夫だ。何とかする。だが悪い、テト、ちょっと盗むからな」

 シェラートの言葉にテトは大きく首を縦に振った。

「わかった。フィシュアが助かるならいい。僕があとでちゃんと謝りにいく。怒られたっていい」

 シェラートはテトが承諾したのを確認すると、右手に三種類の葉を数枚と水の入った小瓶を転移させた。

 掲げた掌の上で風が巻き起こり、葉が細かく切り刻まれていく。

 あっという間に粉末状になった葉は小瓶の中へと吸い込まれた。瓶の中では水があふれ、渦を起こして薬草と混ざり合う。

 渦が止まった時、瓶の中にあったのは濃い緑の液体だった。

 シェラートはすぐさまそれをフィシュアの口へと運んだ。

 こくり、と喉が鳴り、確かにその液体がフィシュアの身体の中へと流れる。

 だが、飲んだ瞬間フィシュアの体がのけぞったのを見て、テトは仰天した。

「シェラート、それ、本当に大丈夫なの!? なんだかフィシュア、もっと辛そうになってるよ!?」

 見ると、フィシュアは顔をしかめて、いかにも苦しそうな顔をしていた。

「あぁ、大丈夫だ。ただ、この解毒剤はたぶんこの世のものとは思えないほど苦いからな」

 試してみるか? と差し出された小瓶をテトは首を横にぶんぶんと振りながら全力で押し返した。

 シェラートは小瓶を傾け中に残っている解毒剤を掌に出し、指先でフィシュアの裂傷に塗りつけていく。

「あとは、もうすることがない。フィシュアの体力にかけるしかないな」

 シェラートの言葉にテトは神妙な面持ちで頷く。

「フィシュア、お前ももう寝とけ」

 フィシュアにはもう微笑むこともう頷きを返す力さえも残っていないらしかった。

 シェラートの助言に従い、フィシュアはうつらうつらとしていた目を閉じる。

 シェラートは素直に意識を手放したフィシュアを見下ろした。

 呼吸はさっきよりもましになったような気がするが、それでも流れ出る汗も、細かな体の震えも止まってはいない。

 危険な状態を抜けたなどとはとてもじゃないが言えなかった。

「どこか、ちゃんと休ませたほうがいいんだが……」

 フィシュアを抱えたまま座っていたシェラートの目の前に固く絞られた布が差し出された。

「う、歌姫様に」

「おいおい。大丈夫だって、俺だって動けねえんだ、別にとって食ったりなんかしねえよ」

 横たわるエネロップの頭領の方をびくびくと気にしながらも差し出された店主の手からシェラートはありがたく布を受け取る。

 フィシュアの顔の汗をぬぐってやると、冷たくて心地がいいのか、フィシュアの顔が少し和らぐ。

 次いで、奥から持ってきた毛布をフィシュアにかけてやりながら、店主は心配そうにその顔を覗き込んだ。

「……歌姫様は大丈夫でしょうか?」

 店主から零れた呟きにテトは大きく頷いた。

「大丈夫。フィシュアは絶対助かる」

 少年の祈りのような断言に店主は泣きそうな顔をして微笑んだ。

「そうですよね、きっと大丈夫です」

 フィシュアの汗ばんだ顔を拭いてやった後、傷から滲み出ていた血を拭っていたシェラートはあることを思い出し、ふと手を止めた。

「そういえば、さっき東って言ってたよな?」

「東に行けってことかな?」

 テトは首を傾げた。

「東って言ってもそこにあるのは、宿屋と市場、酒場くらいで、ここいらにあるのとあまり変わりませんけどねぇ」

 店主も首をひねる。

「そうですね、後は……」

 店主が言葉を続けようとした時、バタンと勢いよく酒場の扉が開いた。

 武装した武人たちがなだれ込んでくる。

 突然の出来事に驚くテトとシェラートの後ろで、エネロップの頭がはじめて嫌そうな顔をした。

「……うげぇ、来やがったか」

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