第27話 宵闇の姫【1】


「おい、どこ見て歩いてんだ!」


 誰の目から見ても明らかに自分からぶつかっていったにもかかわらず、その男は大声を張りあげた。

 大勢の人々が行き交う広い路地で起こった出来事に、皆、振り返り眉をひそめる。だが、怒鳴り散らしている男がいかにも物騒な人相であると認めると、誰もが慌てて視線をそらし、そそくさとその場を離れて行った。

 男に因縁をつけられた側の初老の男は、いかにも気の弱そうなのが顔に滲み出ていて、悪くもないのにぺこぺこと何度も頭をさげ続けている。

 ただひたすら謝るばかりの初老の男に飽きたのか、それとも言いたいことを言ってしまい満足したのか、最後に見下したように鼻で笑うと、男はその場から離れた。

 男がいくらもいかないうちに、今度は、前方からふらふらとどこかおぼつかない足取りで歩いてくる女と行きあった。俯き、口を押さえている女は、見るからに具合が悪そうだ。男は悪態をつく。

 変な病でもうつされたらたまらないと、避けようとしたが間に合わなかった。急に、女の身体がぐらりと傾いだのだ。

 正面からまともに衝突された男は、その衝撃で尻もちをつき、痛みに顔を歪めた。

 ぶつかってきた女も、地に手をついて倒れこんでいる。

「何しやがる、危ないだろうが!」

 男が毒気づくと、女は申し訳なさそうに、か細い声で謝った。

「すみません。おけがはありませんか?」

 女は心配そうに、男を覗きこむ。その間も、女は口許を押さえ、ますます具合が悪そうにしている。さすがに居心地が悪くなったのか、男は乱暴に立ちあがった。

「ちっ、気をつけろ!」

 まだ地面に倒れこんでいる女にそう吐き捨て、舌打ちをすると、男はそのまま雑踏の中へと消えて行った。



「お前は何やってんだよ。ふらふら歩いていたら危ないだろうが」

 シェラートは、地面に座り込んでいる女の腕を引っ張りあげて立たせる。

 ありがとう、と微笑んで、フィシュアは裾についた砂埃を払いはじめた。

「あーあ、結構汚れちゃったわね」

 パン、パン、と小気味のよい音をたてて、裾をはたくフィシュアの顔を、テトは心配そうに下から覗き込んだ。

「フィシュア、大丈夫?」

 フィシュアは安心させるようにテトの栗色の髪の毛をなでると、ふわりと笑った。

「大丈夫よ。ありがとう、テト」

 よし、とフィシュアは、最後にもう一度パンッと裾をはたいた。

「ちょっと待ってて」と、二人に言い置いて走り出す。

 その背中を見送っていたテトとシェラートは、フィシュアが道の往来で、再びよろめき、一人の気の弱そうな初老の男の肩にぶつかったのを見て、「あっ」と小さく声をあげた。

 ぶつかられた男はなぜかぺこぺこと頭を下げ、フィシュアの方も彼に負けず劣らずぺこぺこと頭をさげている。

 声は聞こえないが、互いに謝りあっているのだろうことが知れた。

 最後に二人は笑いあうと、手を振って別れ、それぞれ歩きだす。

 おまたせ、と笑顔でこっちに走って来たフィシュアに、シェラートは呆れて溜息をついた。

 とてもつい今しがた、ふらついていた人物とは思えぬような軽やかな足取りだったのだ。

「お前は、本当に何をしているんだ? むやみに人様に迷惑かけるのやめろよな」

 フィシュアは、むっとして隣を歩く魔人ジンを横目で睨みつける。

「ちょっと。失礼な言い方しないでよね。私は、ただをしていたんだから」

「さっきのの、どこが人助けなんだよ」

 呆れを滲ませた翡翠の双眸が短い嘆息と共にフィシュアに投げかけられる。

 テトも下から「どういうこと?」と見あげてくる。

 フィシュアは肩を竦めると言った。

「さっきのおじさんね、すられてたのよ、財布を」

「誰に?」

「私が最初にぶつかったほうの、恐い顔に髭をはやしたおじさんよ。だから、そのおじさんから私が財布をすり返して、さっきのおじさんに返してあげたってわけ」

「けど、さっきの奴って、あの気弱そうな男に怒鳴っていた奴だろ? そんなことしたら自分が犯人だって教えているようなもんじゃないのか。あの喚きで印象はついてるし、財布がなくなったって、気がつかれたら、まっさきに疑われそうだろう?」

 怪訝そうな顔をするシェラートに、フィシュアは「甘いわね」と指を振ってみせた。

「そう、その通りよ。誰だって、すぐにそのことに思い当たるでしょうね。けどね、そこで、ふと疑問が生まれるのよ。本当のすりだったら、何も言わずに、こっそり、さっさと立ち去るんじゃないかってね。だから、結果的に最もあやしい人物が、最もあやしくないように思えてしまうのよ。あの男が本当にそこまで考えてやったのかは知らないけどね」

 種明かしをするように両手を広げてみせたフィシュアに、テトは尊敬の眼差しを送る。

「すごい! すごいね、フィシュア」

 まぁね、と得意げな顔をするフィシュアをよそに、シェラートは真剣な顔をして、テトを諭した。

「いいか、テト。こいつの真似だけは絶対にするなよ?」

「ちょっと、それどういう意味よ?」

「すり返しでも、だろう? 大体それができるってことは、すりもできるって言ってるのと同じじゃないか」

 シェラートの言葉に一瞬口をつぐんだフィシュアだったが、腕を組むと、ふいっと顔をそらして言った。

「いいのよ。私は、いいことにしか使ってないもの」

 まだ不機嫌そうな顔をしているフィシュアの横で、シェラートは再び深い溜息をついた。



***



「さて、今日の宿はどこにしましょうかねぇ?」

 通りを歩きながら、フィシュアが呟く。

「どこって、別にあそこでいいんじゃないのか?」

 シェラートはすぐ近くにある一つの宿屋を指差した。木造の建物は少し古めかしいが、汚いというわけではなく、どちらかというと趣があると言っていい。中も結構にぎわっているようだし、そんなに悪い宿ではなさそうだ。馬は先に街の入り口にあった馬宿に預けてしまっていたから、その点を心配する必要もない。

 けれども、フィシュアはその宿の向かいにある少し大きな、同じく木造の建物をちらりと見ると、首を振った。

「ここは、やめにして他の宿にしましょう」

 フィシュアの返事にテトとシェラートも、さっき彼女が見ていた三階建ての建物の方へと目を向けてみた。

 だが、そこになぜここが駄目なのかという理由を見つけることはできない。

 テトは首を傾げる。

「どうして、ここじゃダメなの?」

 きょとんとした顔で問いかけるテトに、フィシュアは「ダメってわけじゃないけど」と困ったように笑う。

「だって、ほらあそこ。バデュラの東って書いてあるでしょう?」

 指さされた方、先ほどの建物と並んで立つ看板には確かにそう書かれている。

「どうせ歌うなら、街の真ん中の、もっともっと、たくさんの人が集まる宿がいいもの」

 フィシュアは艶やかに微笑む。「今日はね、そんな気分なのよ」と、二人を先導するように街の中心に向かって、颯爽と歩きだした。

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